野菜を草って言わないでください
「おや、アオイ! 今日は遅かったな!」
真ん丸なお腹を揺すったオリバーさんが、快活な声で新聞をたたむ。
僕の名前はアオイという。
師匠につけてもらった。僕の髪色は青く、目も同色だ。……多分、安直に色合いから名付けられたんだと思う。
ぜいぜい、全力疾走で上がった呼吸を、膝に手をついて整えた。……走るのが苦手なんだ。
「オリバー、さんっ、お店、まだ、……やって、ます、か……?」
「これから閉めるところだ。はははっ、また魔女の先生さんかい?」
「そうなんですよ!!」
絶え絶えの息を懸命に紡いで、がばりと顔を上げる。
オリバーさんはこの小さな町で青果店を営業している、40代くらいのおじさんだ。
新しいものがすきで、度々珍しいものや新しい機械などを見せてくれる。優しくて親切な人だ。
そしてこの、『魔女の先生』こそが、僕の師匠だ。
魔女、なんて呼ばれているけれど、僕は師匠の性別を知らない。
見た目も声も中性的で、師匠に聞いても「忘れた」としか言ってもらえない。
何となく骨格は男の人っぽいんだけど、髪も長いしよくわからない。
師匠は薬を作ることが得意で、よく依頼を受けては材料を採取している。あのアトリエも、材料となる植物を栽培するための部屋らしい。
……植物より本の方が、圧倒的に多いけど……。
そんなこんなで、師匠はこの町の人たちから、『魔女の先生』と呼ばれている。
とても仰々しい。中身はあんななのに。
「聞いてください、オリバーさん! 師匠ってば、本当に碌でもないんです! 今日だって洗濯しますよって声掛けたのに、洗濯が終わってから洗いものを持ってくるんですよ!?」
「あー……、うちの母ちゃんも、そういうこと言うなあー……」
僕の鬱憤に、乾いた笑みを漏らしたオリバーさんが、頬を掻く。
オリバーさんは既婚者だ。奥さんは町一番の美人さんで、僕は彼女が怒っているところを一度も見たことがない。
きっと僕とは異なり、寛大な心で全てを内包できるんだろうなあ……。
「いっつもそうなんです! 靴下が片一方足りなかったり、服が裏表に捩れていたり、脱いだものを廊下に点々と落としていたり! 道しるべか!!」
「いやあ……、面目ねえ……」
さすがに肉片云々のくだりは伏せた。
師匠が特殊なだけで、平和に生きていて肉片と血飛沫にまみれるなんてこと、早々ない。ここは長閑な田舎町だ。
オリバーさんの視線が泳ぎ、明後日の方を向く。
冷や汗を掻いた彼が、テントを張った屋台から、ひょいとリンゴを取り上げた。
軽い仕草でこちらへ投げられるそれを、慌てて受け取る。
「まあ、リンゴ一個じゃ気は済まねえだろうが、そいつで勘弁してやってくれ」
「す、すみません、オリバーさん。つい熱くなっちゃいました……」
「ははは。ガス抜きは必要さ。ちょっとはすっきりしたかい?」
「はい、おかげさまで……」
「いやあ、おじさんも耳が痛くてね」
からからと笑うオリバーさんに、怒っていた自分が恥ずかしくなる。熱くなった頬を俯けて、赤いリンゴを見下ろした。
僕ももっと年齢を重ねれば、オリバーさんご夫妻のように、おおらかになれるのかなあ?
「今日は母ちゃん孝行してくるわ。さ、買いものしていくんだろ?」
「あ、はい」
陽気に片目を閉じたオリバーさんから、いそいそと陳列台へ視線を滑らせた。
テントから垂れるトウガラシやニンニク、タマネギを避け、小箱に詰められた多彩な野菜へ目を向ける。
どれも瑞々しくはりがあり、今日の晩ごはんのメニューを思うと心が弾んだ。
ジャケットのポケットから財布を取り出し、清々しい笑みを浮かべる。
「トマトとパプリカとズッキーニと、とりあえず豆と緑の野菜を一通りください」
「おおう、太っ腹だな……?」
「はい! 師匠のお金で、師匠の苦手な料理を振舞います!」
にっこり、今の僕に出来る、最高に清浄な笑顔を貼り付ける。
師匠は野菜が苦手だ。多分、食べものだと認識していない。野菜炒めの肉だけを食べるような人だ。
野菜は下敷きでも飾りでもなく食べものなのだと、いい加減認知してほしい。
今日の晩ごはんは野菜づくしで決まりだ。
一瞬遠い目をしたオリバーさんが、苦笑いを浮かべて指定した野菜を紙袋へ詰めていく。
隙間に立つ黒い値札を目で数えて、合計金額を暗算した。財布から小銭を取り出す。
計算機を弾いた彼が告げた金額と、合致したそれを差し出した。野菜の詰まった袋を手渡される。
「ほい、いつもありがとさん。魔女の先生さんにも、程々にしてやれよ?」
「師匠次第ですね。リンゴありがとうございました!」
にっと笑みを漏らしたオリバーさんへ笑顔を返し、帰り道へと脚を向ける。
両腕で抱えた袋がカサカサ音を立て、一番上に乗せたリンゴが木漏れ日を反射した。
僕の家……というよりも、師匠の家は森の中にある。
この小さな町自体が過疎地で、山のふもとに存在していた。
町全体をぐるりと森が囲んでいるため、慣れない人からすると迷いやすい。
僕自身、家がある方の森とか、反対方向の森、危ない方の森など、ざっくりとした区分でしか見ていない。
がさがさ、葉擦れの音を立てて帰路に着く。
主に僕しか歩かない細い道を抜けて、太い枝を潜り、緑の巻きついた鉄門を軽く押した。ギイ、鉄錆の軋んだ音が響く。
そのまま木漏れ日の下を進むと、人工的な白い壁へと辿り着く。
縦横無尽に蔦の這うそこが、師匠の家だ。
正直、廃墟にしか見えない。
二階建ての建物には緑が蔓延り、何だったら壁の一部から木が生えている。
石造りの壁は頑丈だけれども、自然に取り込まれている最中にも見えた。
あ、壁の花、咲いたんだ。緑がそよそよしていて心地好さそう。
一番大きな窓から覗く、たくさんのプランター。あの窓のある部屋が、師匠のアトリエだ。
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