五十一. 親子

 猛々しい威圧感は頻りに何かを訴えているようであり、不安を煽る。悪意ではないにせよ、憤りに近い感情がこちらに向かっているような気がしていた。

 その結果、無意識に低い姿勢を取り、早々に身構えてしまっている。まだ小さく見えている相手が、どうしてこうも大きく感じるのであろうか。


 ──怒り。


 足元から始まり頭の先まで小刻みに伝わってくる振動に、ファニルはそう結論付けることにした。

 だってそうだろう。これはまるで感情そのものなのだから。言うなれば、大地の怒りそのものである。


 大胆であり、そして、粗暴なものへと変化を繰り返し進むそれは、まるで遠慮など知ろうともせずにひたすら猛進を続け向かってくる。そう、ただ一方的にこちらに対してその主張を投げつけてくるだけなのだ。

 上手い言葉は見つからないが、強いて言うならこれは行き場のないもどかしさを放出している様であり、つまりは駄々を捏ねている子供に近いのかもしれない。


 ファニルはその向かい来る癇癪に耐えるように腰を落とすと、更に身を低くし、今度は宥めるように地を指で擦ってみる。

 震えているようにも感じられるが、決して泣いているのわけではないだろう。その溢れだす怒り故に震えているのだということは、さほど想像に難しくはない。


 距離はまだ十分にある。

 ファニルはその姿勢のまま、迫り来る轟音を頼りに対象との距離を図った。まだはっきりとした姿は捉えきれていない。一体、どれほどの距離を唸らせているのだろうか。

 それがまだ到着しないことを確認してから、ファニルはそっと視線を移す。今度は鎧に包まれたもう一つの物体を睨むためである。


 ──邪魔。


 心からそう思うが、それを知ってか知らずか、早くも“それ”は後方へと下がる挙動を見せ始めていた。もはや、お得意の戦術である。

 今度もまた逃がすのか、と辟易とした気持ちと、こんな奴に、という自己嫌悪が、徐々にファニルの業火を滾らせていく。


 ──いいえ。今、ここで、必ず、仕留める。


 脳内には早くもその瞬間が連想されていた。

 一つずつだ。そう、頑健な鎧を時間を掛けて取り除いてやろう。そうなれば、泣きながら命乞いでもするかもしれない。その場合はどうしてあげるのがいいのだろうか。どう仕留めて──


「ファニル! 余所見はいけないっ!」


 雷鳴に弾かれたように咄嗟に我に返るが、時既に遅し。その元凶はもはや彼女の眼前へと迫っていた。

 突き抜けるように襲い掛かるプレッシャーを受け、もう避けれないと直感が告げる。咄嗟に動こうと試みるが、意に反したように体は既に硬直していた。


 どうやら距離、いや、時間を見誤ったらしい。

 対象の急激な加速により、完全に意表を突かれたファニルは不覚にもその場に取り残されてしまう。そんな彼女などお構いなしに、もはや塊にしか見えない“それ”は瞬く間に肉薄すると、彼女の視界全てを埋め尽くしていく。


 確か……これはタキサイキア現象というのだっただろうか。

 接触までの数秒間、ファニルはうすらぼんやりとそんなことを考えていた。

 もちろん、余裕があるわけでは決してない。


 突如、全ての時が止まり、意識だけが放り出される。次第に音が消え、背景までも消失し、最後には色さえも抜けていく。あるのは眼前に迫る元凶のみ。

 これではまるで、空白の狭間にただ二人だけが切り離されてしまったかのようだ。


 そこは不思議な場所だった。そこでは、まるでスローモーションを見ているように、相手の動きの一挙手一投足まで感じることができる。驚いたことに、その呼吸までもが例外ではなかった。

 ……それなのに、動けず。


 既に彼女の体に感覚はなく、あまつさえ呼吸の仕方もわからない。相手のそれは感じられるというのに、皮肉なものである。

 感じているのは、我が身が危険に晒されているということだけだった。しかし、そんな状態であるにも拘わらず、もどかしさや恐怖などという感情はどこにも湧いてこない。

 ただ……静かだった。


 仕方がないのでひとまず相手を観察していると、ふとその表情が露になっていることに気が付いた。当然といえばそうなのだが、自分と違いその顔には様々な感情が渦巻いているようだ。

 皆、何かを背負い戦っている。その態度からファニルはそんな当たり前のことを思い出していた。先に感じた怒りにも似た感情は、あながち間違いではなかったのかもしれない。


 気付けばまるで他人事のように、その必死の形相に魅入られていた。いや、本当は目を離す時間さえもなかっただけかもしれない。

 ともあれ、逸らすことはできなかった。


 怪我でもしているのだろうか。

 既にあちこちが痛み、凹み、そして破損している鎧からは動く度に擦れるような雑音が放たれ、時折鮮血を滴らせている。ファニルには、その全てが心の叫びを代弁しているかのように思えてならなかった。その証拠に空は痛いくらいの朱色に染め上げられている。

 ……そこで気付く。


 ──音が、色が……世界が戻ってきた!


 その刹那、一切の視界が無骨な盾で埋められる。


「猛進鳴盾撃だぁぁ! 吹き飛ぶがいい!」


 衝撃というより、やはり空白だった。


 ──あぁ、またか。


 ファニルは再び時が止まったのを実感した。


「マチビよ! イッキとフッキを探してくれ! ここは俺が引き受ける!」

「任された!」


 最後にどこかで誰かの、そんな声が聞こえた気がした。


 ◇


 どれだけ飛ばされたのだろうか。

 今度は意識こそ失わなかったものの、見事に吹き飛ばされてしまっていた。痛みがないのは救いだろうか、それとも……手遅れだということだろうか。

 心配なのか、不安なのか、恐怖なのか。はたまた、ただの確認なのか。その辺りは、ファニル自身もよくわかっていない。


 マードックと言っていたか。

 意外にも、気絶しなかったことへの感謝が生じ始めていた。これで手加減も何もないのかもしれないが、やはり死なないようにはしてくれたのかもしれない。といっても、結果的にそうであっただけの話で、絶命していたとしても何らおかしくはない威力であるのは、もはや疑う余地もない。

 それでも、傷んだ体は自由に動くことこそかなわないが、全く駄目というわけではないようだ。


 立ち上がることは諦めると、今度は地を這うように前へと進むことにした。


 ──他はもういい。治水だけ、治水だけは必ず見つけるから。


 体を引き摺り、手を伸ばす度に、彼女の意識は薄れていった。


「絶対に離さない。誰にも渡さない」


 朦朧とする意識に構わず、その一心で顔を上げて前を睨む。口に出したのは決意である。


 そして……彼女はついにそれを発見する。


 自らを主張するように、凛として煌めきながら地に立つそれを。

 片時だって離さなかったそれを。

 探し求めていたそれを。


 ついに見つけたのだ。その愛刀を。


 ふらふらと求めるように手を伸ばしたところで、鈍い音と衝撃が脳を揺さぶり、彼女の視界はあっけなく暗転する。

 何も見えないし、感覚もない。しかし、瞼の裏にだけはしっかりとその忘れ得ぬ、懐かしい姿が焼き付いていた。


 ──ああ。見つけた。私の“治水”は、ここにあった。


 掴んだのは、空なのか、それなのか。沈む彼女の意識には、その手に懐かしい感触を覚えていた。


 ◇


 ──もう離さないから、お母さん。


 消え入りそうな小さな、ほんの小さな音を耳が拾い、刻むように頭の中を反芻する。それは、静かな水面に滴った、消え行く小さな最後の波紋のようだった。

 それを合図にするかのように、ユーゲンフットは動きを止める。また、ラウンデルも新たな乱入者を察知したのか、目を細めて観察していた。


「まず一匹」


 すっかりと鎮まった場で淡々とそう告げるのは、グランバリー砦の指揮官であるクラレッタその人である。

 手を伸ばしたままの姿勢で力尽きているファニルを掴むと、一度手元に手繰り寄せ、腹部に止めの一撃を放り込む。数秒待ち、完全に沈黙したのを確認した後、そのままそれをラウンデルへと投げつけた。


「クラレッタ! どうして出てきたのよ!」

「キュロロ、無事だったのですね」


 駆け寄るキュロロに、クラレッタは優しく微笑む。そして、改めて二人の鬼へと向き直る。


「初めまして、ですね?」

「随分なご挨拶ですな。人の部下を可愛がっておきながらもよくそんな態度がとれるものだ。どんな神経をお持ちなのか、些か疑問を感じますな」

「うふふ……」


 目を細めるラウンデルに、クラレッタは優しく微笑むと、突如、飛び掛かった。


「おいおいおい! まさか、生きて帰れるとは思ってねぇだろうなあ!」


 彼女は荒々しく吼えると、力任せに殴り掛かる。振り上げた拳は小さいながらも、えもいわれぬ迫力を宿しており、ただの拳骨というわけではなさそうだ。


「ふむ。噂に聞いたことはありますな。美女の皮を被った乱暴者がいるらしい、と。……おや?」


 興味深く目を細めたラウンデルだったが、そこで動きを止める。彼が避けるより早くに動いた者がいたからだ。

 何故か、彼とは敵対していたはずのユーゲンフットが彼女の拳を受け止めるように割り込んだのである。


「やっぱりなあ! 結局は同じ穴の狢っつうわけかぁ! 龍殺し! 鬼殺し! そして、英雄の面汚し! 流水のユーゲンフットぉ!」


 当初とは別人のように髪を乱し、荒れ狂う女獣は、その拳を乱暴に振りかぶる。


「なはは! 声を出して笑うのは久方ぶりですな! 至極愉快である!」


 吠えるクラレッタを見て、ラウンデルが豪快に舌を出す。


「ならば、それに付け加えてもらいたいものですな。天才……そうですな、孤高の天才と。そして、彼こそが元凶、バルビルナの青鬼である!」


 そして、高らかにそう告げた。


「五月蝿いぞ、ラウル。そいつを連れてここは退け! ここは任せてもらうぞ。それも持っていけ!  彼女に返すのを忘れるなよ!」

「やれやれ、あと少しというところでお預けとは。敵いませんな」

「ちぃっ!」


 あっという間にその場を離れるラウンデルに、クラレッタは忌々しげに舌打ちする。というのも、まるで彼女嘲笑うかのようにラウンデルが退いたからだ。

 彼女としては、ここで大将を逃すつもりは更々ない。元より、その身柄を拘束するつもりで出てきたのである。


「また来ますかな。ごきげんよう」


 ところが、ラウンデルはそう言い残すと場を離れ、遠ざかる喧騒を振り返ることなく去ってしまった。

 邪魔をするが如く牽制するユーゲンフットを苦々しく睨みながら、クラレッタは雄叫びを上げ、咆哮を放っている。


「……なんて、戦いなのよ」


 立ち尽くすしかできなかった自分に、キュロロは呆然としてしまう。とはいえ、この中に割って入る気力も、力もない。

 そのまま彼女は対峙する二人に視線を戻した。


 ◇


 一方で、ラウンデルは鼻歌交じりに戦場を駆けていく。背中に当たる咆哮が心地好く、そして、とても滑稽だった。

 これだけやれば十分だろう。オーディナルならば、既に次なる手をうっているだろうから。自らが手を下さずとも、この砦は計画通りにもう落ちる。


 彼としては、陥落した後にゆっくりと戻ってくればそれでいい話だったのだ。元より、真剣勝負をするつもりなど微塵もなかったのである。

 それでも、旧友と会えたことは幸いだった。予期していたわけではなかったが、驚くほどのことでもない。何故ならば、ラウンデルは彼のほうが自分のことを探しているのを知っていたのである。


 ──どれ、ラウリィ君でも探してみますかな。


 柄にもなくそう思ったのは、懐かしい感覚に少しだけ胸が踊っていたのかもしれない。

 ラウンデルは背中で眠る小鬼の頭をポンと叩いた。


 撤退の命令は、この先ヴィルマを見つけてからでもいいだろう。どの道、利口な者はもう既に残っていないのだから。

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