第3話

 二人ともそれぞれのスマホをいじっていた。

 しばらくすると、美凉はあくびをしながらスマホをテーブルに置き、テラス窓の横へとにじり寄って壁にもたれた。そして、カーテンの端を少しだけめくる。女の子座りがなんとも力の抜けた感じだけれど、ベランダを覗く表情は真剣そのものだ。

「床に直接座ったら痛くなるって。座布団を使いなよ」

 言った直後に気づいた。その座布団を出し忘れていた。

「ううん。冷たくて気持ちいいし」

 わたしを見もせずに答える美凉は、ユキの来訪を待つつもりらしい。

 口を閉ざした美凉に、それ以上は声をかけられなかった。所在ないけれど、男子アイドルグループのプロモを動画で見るなどもってのほかだろう。インターネットの閲覧さえ気兼ねし、わたしもスマホをテーブルに置いた。こうなったら、沈黙に身をゆだねるしかない。

 どれほどの時間が過ぎただろうか。

「こいつ……」

 美凉の声に、わたしはベッドから立ち上がった。

「来たの?」

 見たくはないけれど、ここはわたしの部屋なのだ。美凉一人に嫌な役目を押しつけるわけにはいかない。

 わたしは美凉の傍らに立ち、カーテンを全開にした。

 窓のすぐ近くにユキがいた。大きな蜘蛛をくわえ、美凉をじっと見ている。

「この猫、瞳を丸くしている」

 美凉は静かに言った。

「暗いときに丸くなるんだよね。あとは、緊張したときとか」

「たぶん、あたしの暗さに緊張しているんだろう」

 冗談にしては抑揚のない声だった。

 ユキは一瞬だけわたしを見上げて、再び美凉に視線を戻した。そしてあろうことか、くわえていた蜘蛛をベランダに落としたのだ。

「おまえ、本当に緊張していたのかよ」

 美凉が威嚇するように言うと、ユキは切なげに一声上げた。

 それはわたしが初めて聞いたユキの鳴き声だった。細く短いその中に、なんらかのメッセージが込められているような気がした。

 わたしは身を屈め、ユキの顔を見つめる。

 けれど、ユキはわたしを無視するようにすぐに向きを変えた。そして手摺りに飛び乗ると、闇に包まれた庭へと身を躍らせた。

「行っちゃった」

 疲れた顔で、美凉はわたしを見上げた。

「あとちょっと歩くみたい」わたしは言った。「たぶん、西側の林を回って帰るんだ」

「それがお決まりの巡回コースか」

「そうだね」

 ベランダに残された蜘蛛を、わたしは見下ろした。仰向けに転がっているそれは、一向に動く気配がない。

 カーテンを閉めたわたしは、美凉の前に腰を下ろした。

「それにしても、驚いたでしょう?」

「うん」美凉は苦笑した。「実際に見たら、やっぱり引いた」

「これが毎晩のように続いているんだよ。ゆうべは確認しなかったけれど、引っ越してきたその日以来、ずっとなの」

「それは疲れるよな。キモイし、不気味だし」

「今のを見たら、誰だってそう感じるよね」

 とはいえ、一階に寝室がある両親は、二階のベランダで足を止めるユキの姿をまだ見ていない。何度か相談したけれど、笑って済まされた。だから、美凉が同情してくれただけで、とても嬉しかった。

「ねぇ、美凉だったらどうする?」

 わたしは尋ねた。

「え?」

 きょとんとした目で、美凉はわたしを見た。

「対処法だよ、ユキの」

「どうするも何も」

 美凉は困ったような表情だ。

「ほうっておく?」

「うーん、そうだなあ」

 拳を額に当てて遠くを見る目をしているときは、美凉が真剣に考えている証しだ。

「ごめんね美凉。難しいこと訊いちゃって。そう簡単には解決しないよね」

 とりあえずは、この話題を切り上げよう。

「難しい問題だけど、澪のためになんとかしたいな」

 美凉は拳を下ろした。

「ありがとう。でもね、この悩みを理解してもらえたら、それでいいんだ。本当に難しい問題だよね。猫って結構勝手な性格でしょう。飼い主がしっかり面倒を見てあげないといけないじゃない」

「そうだよ。猫のしつけ、ちゃんとしてもらいたいね。てゆーか、おっさんをしつけなきゃだめか」

 その真面目な口ぶりがおかしかった。

「ふふ、本当だね」

「それにさ」美鈴は続けた。「ミーちゃんコンビが猫に翻弄されるなんて、しゃれにもならない」

 十分にしゃれになっていると思ったけれど、わたしは「うん」と首肯した。

 拍車がかかったのか、美鈴はさらに鼻息を荒らげる。

「とにかく、迷惑している人たちは強く言うべきだよ、おっさんにさ。庭をユキのトイレにされている家だってあるんだろう?」

「うん。うちは今のところ大丈夫だけど、ひどいところでは毎晩のようにおしっこの被害を受けているらしいよ」

 わたしがそう言うと、美凉は苦笑した

「猫のは結構臭い、って言うからなあ。とにかく、猫は外に出さなくたって問題ないはずだよ。ユキを外に出すな、って言えないのかな?」

「美凉が言ったとおりのことを、自治会の代表が山村さんに直接訴えたんだって。でも、無駄だったみたい」

 やるせない事実だ。

「だめだったのか」

 美凉は残念そうに顔を曇らせた。

「そうだ!」と声を上げて、わたしは美凉のほうへ身を乗り出した。美凉はのけ反るけれど、わたしは引かない。

「何?」と美凉は眉をひそめた。

「ユキに関連する不可解な話がまだあるんだ」

「どんな話?」

 神妙な面持ちの美凉に、わたしはあと少しだけ顔を寄せた。

「ユキの散歩コース……じゃなくて巡回コースと、それ以前に山村さんに飼われていた猫たちの巡回コースは、どれもみんな同じなんだって。それに、新しい家が建ってもコースはずっとそのままらしいの」

「歴代の飼い猫の巡回コースが……同じ?」

「うん、そうだよ。あとね、この辺ってほかに飼い猫が見当たらないんだけれど、以前は何匹かいたらしいの。でも、みんなユキと喧嘩して負けちゃって、死んじゃったり、どこかへ逃げちゃったり。ユキだけじゃなくて、山村さんの家で飼われていた猫は、みんな強かったそうだよ。山村さんの飼い猫って全部雌だったのに、どれもみんな雄猫にだって負けなかったばかりか、人が追い払おうとすると逆に牙を剝くんだって。人的被害は出ていないこともあるけれど、それ以前に山村さんの飼い猫だから、誰も手を出せないのよ」

「歴代の飼い猫の巡回コースが同じで、全部雌猫なのに強かった……」

 美凉は懐疑の表情だ。

「隣の奥さんが話してくれたことだよ。どこまでが本当なのかわからないけれど、やっぱり信じられない?」

「信じないわけじゃないけど……」

 言葉を濁した美凉は、口を閉ざして静かに床を見つめた。

「美凉?」

 声をかけると、美凉はすぐに顔を上げた。

「何でもない。ところでさ」

 不意に立ち上がった美凉が、カーテンを半分ほど開けた。そして、ベランダに落ちている蜘蛛の死骸を指差す。

「こいつを片づけよう」

 その平然とした言い回しにわたしは驚倒した。

「何を言うの? こんなに大きな蜘蛛が転がっているのは嫌だけれど、やめようって。気持ち悪いよ」

 ただでさえ気持ち悪いのに、ユキはこれをくわえていたのだ。あの姿を思い出し、背筋に冷たいものを感じてしまう。

 それにしても、どうしてユキは蜘蛛を落としたのだろう。鳴き声を聞いたのだって今回が初めてなのだ。初見の美凉に驚いたのかもしれないし、美凉に好意を示した可能性だってある。もっとも、美凉がユキに好意を示されて嬉しいのかどうか、わたしにはわからない。

「あとでお父さんに取ってもらうから」

 わたしは訴えたけれど、美凉は首を横に振った。

「明日まで待つ必要なんてないじゃん」

 美凉は言うと、テーブルの上から使用済みの割り箸を取った。

「どうするの?」

「これでつまむ」

 答えてカーテンと窓を開けた美凉は、割り箸でいとも簡単に蜘蛛をつまみ上げた。

「どこに捨てようか?」

 箸につままれた蜘蛛が、わたしの目の前にあった。胴体がつぶれている。

「やだ、見せないでよ」

 顔をそむけつつ、コンビニ袋の口を広げて差し出した。

「また何かをベランダに落とされる可能性は、ありだね」

 美凉は澄まし顔でそう告げ、割り箸ごと蜘蛛の死骸をコンビニ袋に入れた。

「その都度、美凉に来てもらう。やっぱり、うちのお父さんに取ってもらうより、美凉に取ってもらいたい」

 うつむいて言った。顔が赤くなっているかもしれない。美凉にうちに来てもらうための口実ではあるが、本音でもあったのだ。

 窓とカーテンを閉ざした美凉が微笑む。

「いつでも駆けつけるよ」

 わたしはうつむいたまま「ありがとう」と答え、コンビニ袋の口をきつく結んだ。

「澪、どうした?」

 上げられない顔を、美凉が覗き込む。

 わたしはさらに深くうつむくしかなかった。

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