縄張り

岬士郎

第1話

 永遠ってどんなんだろう。

 終わりがないのは、苦痛であるのかもしれない。

 けれど、大好きな友達と一緒なら、少なくとも孤独ではないはずだ。

 永遠を与えてくれるものが、ほら、虚空から下りてくる――。


   *   *   *


 蒸し暑さに耐えかねたわたしは、カーペットの上で仰向けになっていた。エアコンの電源は入れたばかりだ。照明のLEDの光さえ太陽のように感じられる。

 よりによって夏休み最後の日の引っ越しとなり、心身とも疲れ果てていた。明日から二学期が始まるのだ。胃が痛くなるほど憂鬱でたまらない。

 お父さんは「ここなら、来年の大学受験に向けて集中して勉強できるな」と言うけれど、わたしは環境の変化に戸惑いを感じていた。ときが経てば慣れるものなのだろうか。浮かれ調子の両親は、わたしの気持ちなんて、たぶん何もわかっていない。

 まだ午後八時過ぎだけれど、Tシャツにデニムショートパンツという姿のまま、カーペットの上で寝てしまいたかった。ベッドに移動する気力なんてない。

みお、お風呂が沸いたよ」

 さすがに一戸建てはアパートとは違う。一階にいるお母さんの声が、いつもより小さく聞こえた。

「わかったあ」

 やや大きめに返し、意を決して立ち上がった。

 南向きのベランダのほうで妙な音がしたのは、わたしが着替えを用意し始めたときだった。

 ぺたん、ぺたん――と、濡れたぞうきんでコンクリートを軽く叩くような音が、不規則に続いている。

 何かが風に揺れているのだろう。取り立てて深く考えずにカーテンを開け、月明かりが照らし出すベランダに目を凝らした。

 突然の訪問者は、一匹の白い猫だった。日本猫みたいだけれど、わたしには純正種か雑種かまでの判別はできない。長い尾を左右にゆっくりと揺らし、大きな丸い瞳でこちらを見上げている。月明かりに映えるのは、鈴なしの赤い首輪だ。

 見知らぬ猫がここにいるだけで十分に異様な光景なのに、猫の口元で蠢く物体を見て、わたしは思わずのけ反ってしまった。

「やだっ」

 緑色の大きな蛇だった。

 猫に頭の付け根をくわえられている蛇は、緑色の艶やかな太い胴体を絶え間なくくねらせていた。まっすぐに伸ばせば、一メートル以上になるかもしれない。ときおり、その蛇の胴体がベランダのコンクリートの床を叩く。小さな音の原因はそれだった。

「澪、お父さんが、先に入っちゃう、って言っているよ。お父さんが一番風呂だったら、お母さんが二番目に入っちゃおうかなあ」

 お母さんの挑発するような声が届いた。

「今行くってば! 一番風呂はキープしておいたはずだよ!」

 自分を奮い立たせるつもりで大声を出した。それなのに、すくみ上がった体はまったく動かない。

 直後、猫は蛇をくわえたままベランダの手摺りに飛び乗った。そしてわたしを一瞥し、庭のほうへ飛び下りてしまう。

 今の猫がユキに違いない。

 カーテンを閉めたわたしは、夕方の出来事を想起した。


 今から一時間ほど前、荷物の整理が一段落した午後六時半頃、わたしは挨拶回りに駆り出された。人見知りの激しいわたしにとって、今回の引っ越しでは最も気の重くなるイベントだった。

 この養老ヶ丘ようろうがおかニュータウンは、小高い丘の南斜面に造成されていた。わたしたち関口せきぐち家の新居は、団地の南西の一番端――案内板のある団地出入り口から、一番遠い位置だ。引っ越したときにはすでに、案内板の左下のほうにお父さんの名前が追加されていた。

 そんな我が家の南側――道路を挟んだ向かいに、案内板にはない一軒の家があった。周囲の家々と同じく今風のデザインの二階建てだ。閉ざされた門扉の向こうで、我が家から顔をそむけるように、玄関が東側の芝生の庭を向いていた。その庭の奥にバックで停められた一台の黒い車が、我が家の門の外に立ったわたしたち家族三人をじっと睨んでいた。

 向かいの敷地の背後に広がる杉林を見渡したお父さんは、「山村やまむら公一こういちさんという人が一人で暮らしているらしいけど、自治会には入っていないんだ」と言った。

 それでもお向かいさんには違いない。夕暮れに漏れる明かりを確認したわたしたちは、真っ先にその家を訪ねた。

 門に設置された呼び鈴のスイッチをお母さんが押すと、玄関ドアを半開きにして、眼鏡をかけたやせぎすのおじさんが顔だけを出した。四十過ぎに見えるけれど、同じ年代のはずのお父さんより髪の量が多いし、目立った白髪もない。それが山村さんだった。

 門扉越しに自己紹介をしたお父さんは、すぐに挨拶の品を差し出した。それなのに、山村さんは玄関から出てこなければ、挨拶の品も受け取らず、「うちは関係ない」と一言だけ残し、顔をしかめて引っ込んでしまった。アパートに住んでいたときにも変わり者はいたけれど、引っ越してきて早々にこんな目に遭わされたのでは先が思いやられる。

「気をつけたほうがいいみたいだな。要注意人物なんだとさ」とお父さんはその場で苦笑した。いつの間にそんな情報を仕入れていたのか、それを尋ねてみると、わたしの両親は山村さんの異常さを不動産会社の担当者から予め聞かされていたという。

 とにかく、関口家の新生活は新築の家でスタートを切ったのだ。今さらあと戻りはできない。

 わたしたちは気を取り直して次の家を訪ねた。我が家の東側に隣接する吉田よしださんのお宅だ。ご主人は仕事からまだ帰っていないとのことで、五十歳前後の小太りの奥さんが応対してくれた。

 挨拶も早々にお母さんが先ほどの山村さんの態度を伝えると、吉田さんの奥さんはせきを切ったように話し出した。

 吉田さんの奥さんによれば、山村さんの奥さんは十年くらい前に子供を連れて家を出ていったらしい。また、山村さんの家は養老ヶ丘ニュータウンが分譲される前からあったそうで、この丘のすべてが山村さんの所有する土地だったという。どんないきさつで山村さんが所有地のほとんどを手放したのか、吉田さんの奥さんはその事情までは知らないらしい。けれど、山村さんが愛想のない人物だというのは、このご近所では有名なのだそうだ。

 吉田さんの奥さんは、もう一つの評判の悪い存在を口にした。山村さんの飼っているユキという名の白い雌猫だ。外で見かけるといつも何かしら獲物をくわえていて、そのうえ近所の家の庭に入り込んでは用便するらしい。天気が悪くない限り、山村さんは夜の七時頃から一時間半ほどユキを外出させるそうだ。自治会の代表が直接苦情を訴えても、山村さんは聞く耳を持たないのだという。とにかく、猫の被害には気をつけたほうがよいということだった。

 吉田さんの奥さんは山村さんの悪評を並べ立てると、団地のイメージを挽回させたかったのか、この丘の歴史や伝説について語り出した。

 丘の北の外れにあったとされる黒岩くろいわ城。 

 それを居城とした千代川ちよかわ家。

 黒岩城の井戸に湧いていた不老不死の水。

 千代川軍と萩原はぎわら軍との戦い。

 黒岩城の落城。

 非業の死を遂げた彩乃あやの姫。

 熱弁を振るうその様は、まるで歴女のようだった。


 忠告を受けたその日のうちに、我が家もユキの散歩コースにされてしまった。いや、以前からあった散歩コース上に我が家が建っただけなのかもしれない。しかも、わたしの部屋の外、二階のベランダを通るのだ。物置の屋根を伝ってくるのだろう。

 わたしは諦めモードになっていた。夜はできるだけベランダを覗かないようにしよう。


 雲間に青空が覗くという二学期初日の朝は、目覚めた時点で蒸し暑かった。

 予定より十五分ほど寝坊したわたしは、急いで制服に着替え、玄関へと直行した。たったそれだけで汗をかいてしまう。半袖のブラウスだけれど、涼しくなければ夏服の意味がない。

「お母さん、朝食キャンセルね!」

 キッチンまで届けとばかりに声を張り上げ、急いで靴を履いた。

「ちゃんと食べなさい!」

 返ってくる𠮟咤を背中に受けつつ、スクールバッグを片手にドアを開けた。

 でも、門を目指そうとしたわたしは、すぐに固まった。

 門のすぐ外に、スーツ姿の山村さんが立っていた。わたしに気づかないのか、自分の足元をじっと見下ろしている。これから出勤らしいけれど、わたしの家の前で何をしているのか。

「おはようございます」

 とりあえず声をかけると、山村さんは顔を上げた。朝日に照らされた容貌は、敵愾心に満ちた色である。

「あの、なんでしょうか?」

 尋ねたけれど、まともな返答なんて期待していなかった。

 案の定、山村さんはわたしを無視して背中を向けた。

 エンジンをかけたままの黒い車が、わたしの家の前、カーポートの出入り口となっているアコーディオンタイプの門扉のすぐ外に停まっている。よく見ると、お父さんの車と同じようなSRVとかいうタイプだった。

 山村さんは車の運転席に乗り込み、荒っぽくドアを閉めた。

 この横柄な態度はなんなのだろう。それに、いくら左側通行とはいえ、用もないのに人の家の真ん前に車を停めておくなんて非常識ではないか。挨拶さえろくにできない大人なのだ。こちらが気後れする必要はない。

 車が走り去るのを見届けたわたしは、門扉を開けて道路に出た。

 門扉を閉めた次の瞬間、靴底に柔らかい感触を覚える。

 足元を見下ろしたわたしは、恥も外聞もなく「きゃああああ!」と金切り声で叫んでしまった。

 緑色の大きな蛇だった。頭の付け根がちぎれかかっていて、すでに絶命している。今さらながら、ほのかな生臭さに気づいた。

「どうした?」

 わたしの叫びが聞こえたのだろう。ネクタイをワイシャツの襟にかけたままのお父さんが、すぐに飛び出してきた。

「蛇が――」

 わたしはそれを指差した。

「これはアオダイショウだな。こんなに大きいけど、毒はないそうだよ。……あ、そうか。ゆうべ、澪が言っていたよな。猫が蛇をくわえていた、って。その猫が置いていったんじゃないのか?」

 お父さんは門扉越しに蛇の死骸を見下ろして言った。

 けれど、蛇の死骸の横に落ちている何枚ものくしゃくしゃのティッシュペーパーを見て、わたしは山村さんが犯人であると推測した。さすがの山村さんでも、素手ではつかめなかったに違いない。

「どうして猫が自分の獲物を置いていっちゃうのよ?」

 蛇の死骸なんて見続けていられず、わたしは目を逸らした。

「猫が獲物を置いていくのは、好意の表れらしいけどな。たぶん、澪はその猫に好かれたんだ」

 お父さんはそう答えると、へらへらと笑った。

「気味の悪いことを言わないでよ! わたしは蛇の死骸なんていらないもん! それに、こんな悪ふざけをする犯人って、猫より疑わしい人がいるでしょっ! その蛇、お父さんが片づけておいてよね!」

 自分を抑えきれず、怒りの矛先をお父さんに向けてしまった。

「何をそんなに怒っているんだよ」

「お父さんって、いつだってふざけてばっかり!」

「ああ、それはまあ……お父さんが悪かったのかもしれないな。ごめん。これはちゃんと片づけておくよ」

 そしてお父さんは、ばつが悪そうに頭をかいた。

「じゃ、行ってくる」

 呆然とするお父さんを背にして、わたしは走り出した。

 この先もずっと、山村さんの嫌がらせに耐えていかなくてはならないのだろうか。

 嫌がらせ。

 いじめ。

 わたしを排除しようとする野蛮な人たち。

 惨めな生活はもう嫌だ。何者にも怯えず、そこにいたい。そっとしておいてほしい。たったそれだけなのに。

 わずかに滲む涙をぬぐい、わたしはバス停を目指して走った。


 平日でも週末でも、山村さんは関口家のカーポートの前で車の暖機をした。朝だろうと夕方だろうと、出かける前の必須の儀式なのだ。それでも、お父さんの車やお母さんの軽自動車が出ようとすれば、山村さんの車はすぐに走り去ってしまう。

「走り出してすぐにエンジンを全開にするのでもないのだし、あんなに暖機する必要なんてないのになあ」

 そう言いいつつ、お父さんは見て見ぬふりだ。自分たちの行動を実質的には妨害されていないこともあり、無用な争いは避けるつもりなのだろう。もっとも、通勤に車を使っているお父さんは、仕事に差し支える事態に陥った場合には黙っていないそうだ。本気なのかどうか、娘のわたしでさえわからない。専業主婦のお母さんに至っては、車で出かけるのは買い物くらいなので、山村さんの車の暖気なんて歯牙にもかけていない様子である。

 ここのところ雨がなかったせいか、ユキだって毎晩欠かさずやってきた。無視したかったけれど、午後八時になるとカーテンを開けずにはいられなかった。そんなわたしの前に、ユキはいつも獲物をくわえて現れた。鼠、蛙、カマキリ――。そのたびにわたしは息を吞んだ。

 養老ヶ丘ニュータウンに引っ越してくれば、これまでの窮屈な生活から解放されるはず、と信じて疑わなかった。それなのに、自分の安穏な居場所を作るというわたしの望みが、これほどもろく崩れ去ってしまうとは。

 引っ越してくる前に住んでいたアパートは、自分の部屋を物置代わりにされていたほど狭いところだった。年頃の女の子なのに、プライバシーなんて十分には確保できなかったのだ。

 家族と一緒に過ごすのは好きだけれど、自分だけの時間だってほしい。ずっとそう思っていた。

 わたしが甘いのだろうか。

 わたしには人生を楽しむ資格なんてないのだろうか。

 期待していただけに落胆も大きかった。これではなんのために引っ越してきたのかわからない。

 家にいる間は、山村さんとユキ、という二つの存在を意識しないように努めた。けれど、山村さんの家は我が家の向かいなのだ。気づけば、夜にベランダを覗くのと同様、カーテンの隙間から山村さんの家を睨むわたしがいる。

 改めて神経の細かさを自覚した。

 性格なんて今さら変えられそうにないし、笑ってやり過ごす自信だってない。

 せめて勉強だけは、なんとか努力して集中しよう。

 崩れたくないから、柄にもなく意気込んだ。

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