第7話

「おい、待て翼!」


 大雅の声を無視して、二年の教室へと走る。途中で、件の生徒をみつけた。そのまま近づこうとすると、話し声が耳に入る。


「ふざけんなよ、あの女! 殴りかかってきやがって」

「だけど、牢に送ったんだろ。これで次は逆らえねぇな」


 あの話しぶりからすると、彼女の方から手を出したのだろう。確かに、権力で牢を私物化しているという噂は翼の耳にも届いていた。だから、関わりあいにならないように無視していたのだが……。

 格下とはいっても、主に家柄の近い人間をターゲットにしていたはずだ。


(それなのに、何であいつが?)


「あの女も馬鹿だよな。三國なんか庇わなきゃよかったのに」


 翼は一瞬、何が聞こえたのか分からなかった。なんで、いや……俺を庇った? 理解ができず、思わず足を止めた。


「本当のことを教えてやっただけだよな。駆け落ちの呪われた家族だって」


 その言葉に、脳裏によぎるのは幼い頃の記憶。


『お兄ちゃん。みんな言うの。呪われた家族だって。いじわるいうの……』


 幼い頃、妹の空がいつも泣いていた。うちは呪われた家族だと。駆け落ちの卑しい家だと。


 翼は思考が怒りに染まると、拳を握りしめた。そのまま追いかけて二人に殴りかかりたかったが、手が動かない。振り返れば、大雅がその手を掴んでいた。


「……離せよ」


 いくら力を込めてもびくとも動かない。翼は視線だけで人を殺せそうなほど、殺意に満ちた目をしていた。それをものともせず、ただ静かに白銀の瞳が翼を見下ろしている。


「離せっていってんだろうが!!」


 大雅に目掛けて空いている拳を振り下ろした。しかし、吹き飛んだのは翼の方だった。視界が揺れて、平衡感覚が保てない。床に手をつくが、右頬の焼けるような痛みも加わり、動けなかった。


「落ち着け、この馬鹿! おまえがそんなんだから、あいつが代わりに殴ったんだろうが!!」


 大雅は翼の胸ぐらを掴むと、無理やり視線を合わせる。いつも湖面のように静かに、澄みきっている瞳が珍しく、炎のように揺れていた。


「おまえ、このままじゃ一生失くしつづけるだけになるぞ。過去も大事だ。だけどな、今おまえを大事にしてくれてる奴まで見ないふりして、過去に逃げるのは違うだろ」

「そんな奴、俺には……」


 いるわけがない。幼い頃から蔑まれて生きてきた。それが今さら、変わるわけがない。


「いるだろ」

「……なぜ言い切れる?」

「さぁな。勘?」

「なんだよそれ……」


 やっぱり、いい加減な答えだ。曖昧で、不確定。信用できたものではない。俯いた翼に、大雅は手を離した。


「見てれば大体わかるだろ。おまえが見ようとしないで逃げてるからだ。前向いて、向き合ってみろよ。神野はずっと冷たくされても、おまえから目を背けたことなかったんじゃないのか?」


 言われて思い浮かんだのは、あの紅だった。真っ直ぐで邪気のない瞳。血にも、あの紅い月にも似ているのにはずなのに、どんな色よりも綺麗で。


 ──だから、向き合うのが怖かった。自分があまりにも、醜く思えてしまうから。


 だけど、今思えば──あいつは俺を否定なんかしていなかった。いつだって、否定せずに悲しそうに耐える顔をするだけだった。

 静かになった翼を見て、大雅は立ち上がる。


「少しは頭冷やせ。俺は行くからな、問題起こすなよ!」


 ビシッと指を指して念を押す。そうして、足早にその場を立ち去った。

 自分も、行くべきだろうか。行ったら、迷惑をかけることになるかもしれない。


(それでも……)


 トンっと誰かに背中を押される。実体がないけれど、確かにいる存在。視線を上に向ければ、陽だまりのように微笑む颯月が見えた。


『お行きなさい。思うままに、心のままにするのがよろしい』


 翼はそのまま走り出すと、大雅を追いかけた。まだ向き合う覚悟ができたかどうかはわからない。けれど、今は早くあの紅に会いたいと、そう思ったのだった。


 ~◇~


 緋鞠は、重い瞼をゆっくりと開いた。

 辺りは薄暗く、視界に映るのは薄汚れた石畳。倒れているせいで、体温が冷たい石畳に流れていってしまっているみたいに、体が冷えていた。緋鞠はぶるりと体を震わせる。


「ここ……どこ?」


 体を起こすと、手に違和感を感じる。持ち上げてみると、銀色の手錠が両手に嵌まっていた。


「何これ!? なんで手錠が……!」


 いくら手を動かしても、ガチャガチャとなるだけでまったく外れない。周りを見渡してみても、床から壁、天井に至るまで。全て石積で覆われ、窓一つさえなかった。僅かに見える明かりは、部屋の外の壁に掛けてある松明の炎のみ。それも、錆びた鉄の格子の向こうだった。


『何を驚いておる』


 突然響く女の声に、緋鞠は大きく肩を揺らした。

 鉄格子の向こう側。炎が映す、まるで焼け焦げたかのように黒い影がゆらゆらと揺らめいた。黒い衣を脱ぎ捨て、一人の女が姿を現した。


 床に届きそうなほど長く美しい金糸の髪、そこから覗く鋭く碧い瞳。その色合いに、ひどく見覚えがあった。ぼーっと彼女をみつめると、女は形のよい唇を愉快そうに歪めた。


『ヌシはそこが初めてではないだろう?』

「え?」

『覚えておらぬのか?』


 女の問いに、自身の脳内で警鐘がけたたましく鳴り響く。目を逸らしたいのに、なぜか女の透き通るような瞳から目が離せない。怯える緋鞠の様子を見て、女は口元を三日月のように弧を描いた。


『よぉく知っておるじゃろう?』


 唄うように呟かれたその言葉に、脳内でとある光景が浮かび上がる。


 手錠の重く、熱を奪うような冷たい感触。

 暗闇で振るわれる拳。

 打撲や痣の鈍痛。


「ぁ……」


 上手く息ができなくなり、胸を抑えて下を向く。


 気づけば、周りにおびただしい数の人が倒れていた。腕や足、頭部などが欠損した死体たち。足元の石畳はいつの間にか、血で覆い尽くされていた。瞳孔が開ききった空虚な瞳がすべて、緋鞠に向けられる。


《この化け物》

「……違う」

《おまえがいるから》

「知らない……」


 地の底から這い出てくるような声が脳に響く。心臓に爪をたてられるような恐怖から逃げるように耳を塞いだ。


 嘘だ。幻聴だ。知らない。──知らない!

 こんな光景見た覚えはない!


 ひたっ……と血で濡れた手を這わせる音が聞こえた。思わず、音の方へと視線を向ける。血に染まった杏《あんず》の花柄の着物。


『ひどいのぉ。おまえのせいで』


《おまえのせいで──》



「いやああああ!!」


 思考を染める赤、赤、赤──。


 耐えきれず、聞こえてくる声を掻き消すように悲鳴を上げた。その声はどこまでも響いて。けれど、誰にも届くことはなかった。

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