始まったばかりですもの
「その……私なりに考えたのです」
女性としてアイリを射止めたいというのでなければ、大佐のその態度は不可解なものでもあった。大佐が若い娘をたぶらかして楽しんでいるのだとしたら、あの夜にアイリに何も悟らせないまま、夜を共にしてしまえばよかったのだから。
「伯爵夫人は、なぜ新女性の象徴が必要なのかお教えくださりました。伯爵にご納得いただくため、と。……しかし大佐はお教えくださりません」
大佐の顔を伺おうと横を見てみても、大佐の横顔だけでは何もわからなかった。大佐が表情を隠そうとするのは珍しいことだった。アイリは自分が案じていたことがどうやら間違っていないと確信し、慎重に言葉を選ぶ。
「だから……亡くなられたという奥様のこと」
「マリアがなにか?」
その名前を大佐の口から聞いただけで、アイリの心はざわついた。これまで抱いてきた淡い罪悪感は、2人の間ではあえて語らない秘密だったはずだ。
「ひょっとして、どこか私に似ていたのではないかと……それで奥様を重ね見て、私にこうもお優しくなさってくださるというのなら、その……そのお気持ちを私はあまりにも軽々しく振り回していたと言いましょうか……その……」
「ミセス、私がなぜ普段からマリアのことを話さないようにしているかお教えして差し上げましょうか?」
「やはり……」
耳を塞ぎたい気持ちはなおも残っていた。これまでずっと見ないようにしてきたことを知るのは、
「私はマリアのこととなると話し過ぎてしまうのです」
「え?」
大佐は体の向きを変える。
「あなたと違って甘え上手で、私の気分を実によく操る女性でしたよ。私が何を仕掛けても見破られてしまって、ついにはこちらから観念させられました。よく頭が回り、また何より心の豊かな女性なのです」
まるでその言葉を練習していたように、大佐の口からとめどなく言葉が溢れる。
「私にとってマリアに勝る女性は2度と現れませんよ。これほど心酔できる女性に彼女以外に会ったことはありません」
誰に向けるわけでもなく二つ頷くと、大佐はいつになく楽しそうな表情で振り返る。
「例えばこういうことがありました。大戦前のことですが」
「大佐、その辺りになさって。
その様はアイリの知る大佐とは全く違っていた。隙のない色男だったはずの大佐をここまで心酔させ、人を変えるほどの恋心を抱かせた人物がいたのである。その紛れも無い事実と、またしても大佐に味わわされた手ひどい羞恥がアイリの耳を赤くする。
「そうですか、残念です」
大佐は胸に手を当てると、惚けた顔を再び引き締めた。
「……それで、あなたとマリアが似ているかというお話でしたかね」
「もうよいです! わかりました! つゆほども似ていないんですね! わかりました!」
「声を抑えて、ミセス」
アイリの声にダンスフロアからも幾人かが2人を覗き込んだ。やり場のない羞恥に必死に自分を抑えようとしたとき、大佐がこのテラスに自分を誘った理由をようやく悟った。
「まさか!! だから馬車でなくてここで話させたのですね!」
「ミセス、お声が」
アイリはダンスフロアの人々に見えぬよう、その光に背を向けた。しかし強く握ったその両手を見れば、アイリが歯ぎしりするほど口を噛み締めて悔しがっていることなど一目瞭然だった。
腹の底から大佐を罵りたいアイリも、ようやく作り上げた新女性の偶像を思えば慎重にならざるを得ない。
「……大佐、私は女性を代表してあなたをお叱りしますわ」
「おやそうですか。マリアなら必ず、さすがお上手ねと褒めると思いますがね」
「もうわかりましたわ、そうやってお2人で悪巧みなさっていたんでしょう?」
怒りを吐くような恨みがましい低い溜息を長く吐く。それでアイリはミセスを取り戻した。
「……でもこれで安心しましたわ」
アイリは大佐の手を取る。
「ならこれからも、私は変わらず大佐にこう噛み付いてもよいのですね」
「もちろん。私の知る限り、その方があなたらしいでしょう」
「あらやだ大佐、私はもう
肩をすぼめて指先を自分の頬に当て、顎を引いてミステリアスな笑みを浮かべた。その姿は並みの男ならばすぐに惑うものに違いなかったが、カレルヴォ大佐は紳士に違いなかった。その姿を社交の楽しみと知り、微笑んで
「では参りましょう、ミセス・コッコ。舞踏会が終わってしまいます」
「いいえ大佐。私の舞踏会は終わりませんわ」
新大陸の星空の下で、アイリは人生で最も輝かしい笑顔を咲かせた。
「まだ、始まったばかりですもの」
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