わかったことがありますわ
それからの日々は目まぐるしく流れた。
総督府へ赴いて会談を持ちかけては断られ、事務所で地図の続きを描き、新しい教会区の設置計画についての相談に応じ、次には靴職人のもとに行って調整してもらい、そして伯爵夫人のレッスンを受け、時には全く気の休まらない夕食をご一緒する……。
心休まるのは計算室とベッドの中くらいのものだった。あまりにめまぐるしい生活はいつもアイリの瞼を重くし、時には馬車の中で寝てしまいそうになるほどだった。
しかしアイリが騒がしい生活を送っているということは、新大陸は目まぐるしく変わりゆくということでもあった。
総督府の石畳はその敷地を超えて街にも伸び始めていた。一番の交差点には王国銀行の新大陸支店が開店し、信用手形があちこちで飛び交うようになった。貴族たちは銀行の頭取たちと次の開発計画を相談し、ヒエタミエス港には連日そんな開拓を支える新しい労働者たちが目を輝かせてその大地に降り立った。
彼らが進む道はいつの間にか直線道路へと修正され、交差点には官憲が旗を振った。魔獣と出会ったあの茂みも、今や切り開かれて荷馬車駆け抜ける街道となっている。アイリの描いた教会区は、無数の労働者たちを飲み込んでもなおその通と番による管理計画を破綻させていない。
かつて野卑と謗られた新大陸の姿は、採掘された魔原石の富と切り出され続ける石灰岩の岩壁、そしてこの大地が続く限り、どこまでも変わってゆく。
その青写真を描いた才女は、いまその中心で踊っていた。
彼女の歩みが新大陸の時を刻み、ペン先が未来を描けば、スカートの一振りで街を塗り替えてゆく。
「ご機嫌麗しゅう、ミセス」
街ゆく人々はその麗人への挨拶を欠かさない。
新大陸へたどり着けば、人々はその名を聞くことになる。
美しく、力強い、才知の女性アイリ・コッコ。
当人の知らぬ間に、その名声は高まり続けていた。
アイリは最後に教わったステップを一周終え、両手を穏やかに落とすと、そこに存在しない観衆へ向けて頭を下げた。
彼女に拍手を送っているのは、ただ伯爵夫人一人である。
「よくやったわ、ミセス」
「光栄ですわ、伯爵夫人」
片足を下げひらりと礼をすれば、その姿には風に吹かれた絹のような肌心地すら感じさせた。
「最後に一つだけお教えしておくことがありましてよ」
「なんでございましょう?」
「その前に、こちらへいらして、ミセス」
伯爵夫人はダンスフロアから廊下へ向かう。その先でメイドが一人扉を開いて待っていた。
伯爵夫人に招かれるがままに中に入ったアイリは、息を飲んだ。そして思わずその美しさにため息を漏らす。
そこの部屋の中央には、濃紺のドレスが堂々たる出で立ちで置かれていた。
そのドレスは膝のところまでタイトに仕上がり、そこから斜めにゆったりとしたプリーツが始まっている。それは紛れも無い、いまやミセス・コッコのトレードマークと化したデザインであった。
「これは……」
「私からのプレゼントですわ。間に合ってよかった」
伯爵夫人がそのスカートのプリーツを揺らすと、光がキラキラときらめく。
「私が、これを……?」
「あなた以上に『コッコ・スカート』がお似合いになる方がいらっしゃって?」
「コッコ・スカート?」
伯爵はそのスカートの斜めのプリーツを指でなぞった。
「この仕立ての名を知らなかったのですけれど、さすがはミセスね。職人たちに『コッコ・スカート』と言えば全員に伝わりましたわ。皆様もそうお呼びになっていたそうよ」
実を言えばアイリはその仕立ての本当の名前を知っていた。しかし尊敬する伯爵夫人がそのドレスを自分のために、恐らくは大金を注ぎ込んでたくさんの職人を雇ってまで用意したという感動が、そんなことをどうでもよくしてしまった。
さらにレース細工に真珠があしらわれたグローブが差し出される。真珠などアイリは一つとして持ったことはなかった。それを自分が纏う日が来るとは期待していなかったし、ましてや首飾りの宝石としてではなくグローブの装飾などというさりげなさでそれを纏うとは想像だにしていなかった。
「こんなに……伯爵夫人、こんな、私……」
アイリはあまりの衝撃に声だけでなくその指先まで震えていた。
「気になるならお支払いなさる? お給金は存じ上げませんけれど、10年はかかると思いますわ」
いたずらっぽい笑顔を見せながら、アイリの手を両手で包んた。
「…………ありがとうございます」
「それでよろしくってよ」
「さて、着てみましょう。あなた以外にこれを着る人はいないと、きっとお分かりなさるわ」
その声を合図に、二人のメイドがアイリの左右について支度を整え始める。
そのドレスが胸元まで引き上げられたとき、大鏡に映された姿を見て、自分が遠くなっていくのを感じた。髪もボサボサで、バタバタ歩いていたアイリ・コッコは、鏡の向こうには存在しない。
紐が引っ張られ、胸を整えると、鏡にはミセスが立っている。真珠飾りのグローブをつけ、その瞳をゆっくりとひらき、冷たく鼻を尖らせて流し目を送る。
そこにいるのは、とても自分とは思われない美しい
「髪も留めなおしていただけるかしら?」
アイリの頭には新しい髪留めが刺さっていた。それは控えめな銀細工で、その細く繊細な輝きはミセスとアイリ・コッコのどちらとものために、アイリ自らが選び抜いたものだった。
「よくお似合いになりましてよ、ミセス」
すべての支度が整うと、裾をつまんで今一度振ってみる。胸から腰のラインはほとんど裸同然にその形がはっきりとわかる。それが腿のあたりで細く絞られて、そして広がっていく。
華やかで、美しく、しかし力強く、しなやかで、挑発的で女性的でありながら、その存在感は女性離れしている……これまでアイリが、いや誰もが見たことのない女性像がそこにはあった。
「素直に申し上げますわ、ミセス・コッコ。私はあなたに、伯爵を驚かせていただきたくってよ」
伯爵夫人が合図をすると、メイドたちは速やかに退出していく。あとにはクラシックなドレスを纏った伯爵夫人と、見たことのないドレスに身を包んだミステリアスな魅力を放つミセスだけが残された。
「前に申し上げた通り、伯爵は不満を口にしてばかり。新大陸にもとにかく不満ばかりをこぼすと思いますわ。私の役目は、伯爵に新大陸の夢をお見せすること」
「新大陸の夢……? 私がそれにふさわしいと?」
伯爵夫人は隣に立って鏡ごしにアイリを見た。
「古い社交界と、新しい社交界の姿を示すのです。新しい姿をお示しできるのは、いま世界に7人しかおりませんわ。そしてこの新大陸にはたったひとり」
新女性。
アイリは今や、アイリ・コッコを超えた象徴的存在になろうとしていた。
アイリがそれを望んだのかもしれないし、あるいは望んでいなかったのかもしれない。大佐に言わせれば、彼女の人並みならぬ努力と理解力と行動力が、彼女をそこに導いたのだろう。
「……伯爵夫人。私もわかったことがありますわ」
ダンスの姿勢をとって足を大きく踏み出すと、その引き締まった足首がちらりと覗く。ホイストに入る姿勢をとって、その鋭い視線を鏡ごしに自分にぶつける。鏡には腰の美しいラインがありありと映されている。
(余裕と
大佐の言葉が聞こえてくる。口にしようとしたことが正しかったとアイリは確信する。
「私は、このわたしをうまく使わなくてはならなくってね」
はじまりはアイリが作り出した虚像だった。それを大佐が磨き、今や公爵夫人の手によって、それは血肉を持った実体として、舞踏会の場に出ようとしていたのだ。
「そうです、ミセス。殿方もご婦人も、一流となるためにはそれを知らねばなりません」
ミセス・コッコの胸には、自分の新しい生き方がありありと思い浮かんでいた。
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