お姫様になったみたい!
アイリは我が世の春を
それはアイリがこれまでの人生で経験した中で最もお姫様に近い生活に違いなかった。そのうえ今回の出張では有り余るほどの広さの個室がある!
「むあー ベッドちあわせ……死んじゃう……」
当然そうもなれば仕事もはかどるわけで、結局のところ務め人が求めているのは良質な休息ということがそれでわかった。
特に気に入っていたのは浴場だった。街の大衆浴場とは違って、広く清潔な風呂を一人で一番初めに使うことができたのだ。新大陸では珍しい石造りの浴場に、これまた新大陸では珍しい水を惜しげもなく使ったその浴場は、アイリの知る限り新大陸で一番の設備に違いなかった。
「はわー もうわたしここのお嫁さんになる……」
浴槽でそう独り言をこぼすのも、ほとんど毎朝の習慣になっていた。
むろん、実際にはそんなことは全く願っていなかった。というのも、そんな贅沢極まる日々に一つだけ残されていた不満が、他ならぬ屋敷の主人マティアスだったからである。
豪華で美味しい食事には感謝していたが、他に座る者のない大きなテーブルで主人と客人が一緒に食事を取らなければならないというしきたりがアイリを苦しめていたのだ。
「マティアスさんはこちらにいらしてどれくらいですの?」
「まだ来たばかりですよ。長い旅になりました」
「街にはおいでになって? 騒がしいけれど素敵なところですわ」
「機会があれば」
「このお肉はどこで用意したのでしょう。おいしゅうございますね」
「さあ。召使いに任せていますからね」
始終この調子である。
会話というより
「エンシオさん、ご主人が喜びそうな話題はないかしら?」
初日に紅茶を運んできた召使いは、それからアイリの身の回りの世話を完璧にこなしていた。計算作業は秘密という事情から、水を頼んだアイリは部屋の前でそれを受け取る。
「食卓でお困りでしょうか……代わってお
「いえ、それはご主人にとっても同じでしょうから、私からも楽しい食事にならなくて申し訳ありませんとお伝えください」
互いに姿勢の良い礼が揃う。まるで息を合わせたようにお互いの頭が上がって、つつがなく会話が進行する。
「マティアス様は本をお読みになるのがお好きで、本土から持ち込まれた本を毎日順にお読みになっております」
「……なるほど、それなら私も前にたくさん。明日試してみますわ」
言うまでもないが、本ならアイリの得意分野だった。技官に合格してからというもの、忙しさに本を読んではいなかったが、それまでの間には試験勉強の合間を見ては本を読んでいた。そのうえ新大陸では本を手に入れること自体が極めて難しく、もう一度それを読むのはほとんど
扉に手をかけたところで、アイリはもう一度振り返る。
「その……」
「何か?」
「……いえ、なんでもないわ。おやすみなさい」
エンシオは頭を下げる。
アイリは扉を閉めて、4つのランプで照らされた作業机に座る。計算尺を手にとってペンに手を伸ばすと、その明かりの加減に少女時代の光景を思い出した。
アイリは写本で文字を学んだ。はじめに写したのはもちろん神の教えを記した教典だった。その次には古代に書かれた『地理誌』という書物の現代語翻訳版を書き写した。さらに『世界旅行記』『ハーランブル商人の西方録』『ヘイノ・コレクション』……これは図録だったが、その絵まで写したものだ。
それを始めようと思った理由は今となればわからない。ただ父親が書物というものを教え、最も重要なものとして教典を示したとき、自分でもそれを描けるかもしれないと思ったのだ。
大量の紙を買うことは、下流貴族のコッコ家では難しいことだった。それでも娘の異常な速さでの写本術に父親は賭けてみることにしたのだろう。一つの写本が終われば何を書きたいかと尋ねられ、アイリはいつも答えた。
「誰も見たことがないこと!」
誰かが見たから本になっているんだと笑いながらも、父親はその能力の限りでそれを実現した。少なくとも10歳やそこらのアイリが知り得ない世界を記した書物を、少ない伝手を頼って手に入れてはアイリに差し出した。
それは娘にとっては難しすぎるものだったが、アイリはその内容を
本の貸し出しを頼っていた貴族に事情を話すと、アイリはそこに迎えられた。はじめ疑っていた者たちも、その
(マティアスさんはどういう本を読んでるんだろう?)
また一冊くらい書き写したいとも思ったが、今はこの大地に描かれた神の筆跡を書き写すことがアイリの仕事だった。
これまでに調査した箇所を館を中心とした地図に描く。傾斜を算出して地表面に露出している層を記録する。地表面と地層が水平とも限らない。見渡しただけで断層崖が見えるし、風化の仕方が気になるところもある。
「明日は西の断層崖に行ってみようかな」
手短に今日の記録を終えると、3つのランプの
部屋の隅は暗闇に包まれて、最後のランプを持って大好きなシルクのベッドに腰掛けた。
「お父さん、怒るかな?」
新大陸での生活もかれこれ5ヶ月になろうとしていたが、両親はいまだにアイリの赴任を知らなかった。そろそろ教えても取り返しのつかない頃にはなったかもしれない。それに、現にアイリはたった一人で新大陸の荒波をしのいでいた。
そこまで考えて、これほど生家とは大違いの豪邸で両親のことを久しぶりに思い出しているということが、アイリには少し
「おやすみなさい、明日も素晴らしい日になるわ、アイリ」
ランプの灯りが消えるとき、母の言葉を真似てみる。なんだか今日はよく眠れそうな気がした。
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