私の大好きなお父さん

あわい しき

女はこわい

 あるビルの広い一室。質素ではあるが、温かみのある色合いの部屋の中に、観葉植物がいくつか置かれおり、落ち着いた雰囲気となっていた。

 そんな場所に男と女がいた。

 男と女はやわかそうなソファに腰かけてはいるが、近い場所におらず、またお互いに向かい合うことのないように意図的にソファが配置されている。

 斜めに向けられたソファは、中央の花をお互いが見えるような位置に、調整がなされているのが見て取れた。

 前を向いている限り、お互いの顔を合わせることはないが、首を横に向ければ、顔を見ることはできるし、声を張らずともお互いの声は認識できた。

 だからこそなのか、お互いの顔をある意味で合わせることはなかった。


「不倫をしたんです」


 女は男が問う前にそう切り出した。

 男は驚いた様子もなく、バインダーに挟んだ紙にその言葉を書いていく。

 ただ書く。

 その様子は会話をしているというよりは、尋問の一種のようにも思える。

「私より30も上の男性です」

 女は若かった。その落ち着いた雰囲気と身なりから、もっと年齢が上に見られてもおかしくはないが、顔は若々しく20代と言われれば簡単に納得ができた。

 女が男に渡した事前情報にも年齢は書かれており、女が虚偽を述べたのでなければ、それは紛れもない真実だろう。であるならば、不倫相手というのは50~60歳ということになる。

「彼はひどく悩んでいます。妻を裏切ってしまったと。私はそんな彼を見るのが苦しくて仕方がないのです。でも、別れたいわけではありません」

 女は淡々と、感情の読めない表情と声音で言葉を紡ぐ。あまりにも言い淀みのないその言葉は、嘘を語っているようにも、本当のことのようにも思えた。

 だが、それがどうしようもない他者を思う気持ちではなく、利己的な思いであることは女の最後の言葉が物語っていた。

「そんな、彼をただ救いたいのです」

 女の眉間にしわが寄った。それは苦しそうにも見えた。恐ろしい女だった。


「でも、その前にどうして私が彼のことを好きなのかお話をさせてください」

 女は清々しいほどの笑顔を、浮かべながら言った。ころころと表情が変わるその姿は、まるで女優のようで、真実を嘘に嘘を真実にしまえそうな危険性をはらんでいるような気がした。

「父は私に暴力をふるっていました。特に言葉の暴力がひどかったです。女のくせに、とよく言われました」

 女は遠い過去に思いをはせるように、うつろな目で宙を見つめて語る。抑揚の感じられない平坦な声だった。女は自分についてかたる。

「貴方には父がいますか?」

 女が不意に男に聞く。男は一瞬驚いたような顔をしたが、間を置き「存命です」と答える。

「コンプレックスを感じたことは?」

「どうでしょうか。母を早くに亡くしたからでしょうか、意識したことはあまりないですね」

 男は考えたような表情をしながら、そう女に返す。質問に意味があったのかなかったのかはわからないが、女は特に変わった様子もなく男の言葉に耳を傾けているようだった。

 そして語る。

「私は母が大嫌いでした。これは父に母が愛されていたからではありません。母も同じように暴力を振るわれていたのです。

 私は母が、すぐにでも逃げることができるのに、私を言い訳にして逃げないことが嫌でした。母は暴力を振るわれている自分、延いては、自分よりもっと弱い私が暴力を振るわれているのをみて、一種の快感を得ていたのだと思います。自分の不幸に酔っていた。自分は私の子供はなんてかわいそうなんだろう、と」

「かわいそう」と女は繰り返す。今まで感情の無いように見えたその顔には、どこかイラついた様子が見受けられた。

「当然ですが、父も嫌いでした。成人して、自分一人で稼げるようになってからは、家のものをすべて投げ出し逃げました。これに関しては罪悪感なんてない」

 ふふふ、と笑いながら女は言った。心の奥底から楽しそうな声だった。そして、ぼそりと独り言のように「そもそも、あそこに私の大事なものなんて一つもなかったですね」と言葉を漏らす。

「自由を得てからは、私は、年上の男性と好んで付き合いました。年上の父性溢れた男性に、優しく頭を撫でられると、溜まらない気持ちになったのです。愛おしかった」

 うっとりとしたような表情で女は言った。どこか狂気じみたその表情は、どこか恐ろしくもあったが、男はそんな女の様子に注視しているのみのようで、相変わらず男の表情は変わらない。

「そしてある時気付いたのです。私は父の代わりを、私の父を探しているのだと。私は「父」というものを愛していました」

 女は核心を語る。

「でも、どうでもいいんです。そんなこと。今のあの人は私の「」です。あれと違って暴力をふるうわけでも、「女が」なんて言うこともない。自分の妻を愛し、子供を愛している一人の人なんです。彼の愛が私ではなく、奥さんに向いていてもかまわない。幸せな私の理想的な父である彼が好きなんですから。」

 その語りぶりは、一方的な愛のようだった。狂っていると言ってもいいのかもしれない。

「愛されたいわけではない。愛したいんです。私の理想とする愛を感じたいんです。その行為に気持ちがなくたって構わない。ふりでいい。私が満足すればいい」

「それだけで私は幸せです」

「私に味方はいませんから」

 矢継ぎ早にしかし、確実に一言ずつ女は語る。

 そして、大きく深呼吸をしたかと思うと、そこで女はようやっと、男の方を見た。


「ところで、彼の奥さんはずいぶん前に亡くなっていまして、30代後半の息子さんがいるそうなんです」


 女は清々しいほどに、背筋が粟立つな笑みを浮かべ、男に言った。男の表情も、凍っているように見えた。


「亡くなった奥さんを愛していて、その上息子に合わせる顔がないだなんて言って悩むんだなんて、本当に「私の理想的な父」だとは思いませんか?


 その後女は何事もなかったかのように、支払いを済ませて帰った。

 男は、女が去ったあと、ソファにもたれるように座り、ぼーっとしているようだった。


 なんというタイミングなのか、女が去ったあと、男は携帯を確認しいてた。

 画面を付けた瞬間、メールの通知を見つけた。

 男の父からだった。


 ー会わせたい人がいる。


 そこにはそう素っ気ない文面が書かれていた。

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