足し算の幸せ

赤魂緋鯉

前編

「ぐえー……、由希ゆきただいまー……」

「おっかえりー。今日は一段と疲れてるねあかね


 自宅マンションに帰宅した茜はそう言うと、ゾンビのような足取りで荷物を廊下にボトボト落としつつ、自分より早く帰ってきた、同居人の由希の居る居間にたどり着く。


「もー! なんで上司のミスまで私がカバーしなきゃなんないのよー!」

「おー、よしよし。頑張った頑張った」

「あー……」


 部屋着姿になりソファで寝転ぶ由希に、茜は倒れ込む様に抱きついた。由希は彼女の頭をでつつそう慰める。


「ご飯、何食べたい?」

「なんか適当ー……。考えるのがめんどい……」

とり肉買ってきたから、まるごと塩胡椒こしようとバジルで焼いたのでどう?」

「おお……、肉か……。それでお願い」

「了解。作るからそこどいて茜ー」

「やだー。もっと撫でてー……」

「ふふ。甘えん坊なんだから」


 自身の胸元に顔を埋め、非常に情けない声でそう言ってどかない茜へ、由希は微笑ほほえみを浮かべつつ慣れた様子でそう言って、彼女の茶色い猫っ毛を撫でる。


 そのまま、帰宅後30分が経過した頃。


「もういいー?」

「あと5分……」

「学校遅れるわよー」

「お母さん今日私休むー」

「あららー。困った子ねえー」

 

 しょうも無いグダグダ寸劇を挟んで、やっと茜は由希を解放した。


「すぐ出来るからね」

「うー……」


 立ち上がってから茜の頭を一撫でした由希は、家に帰ってすぐ下ごしらえした、鶏肉が入ったパッドを冷蔵庫から取り出した。


 軽く熱したフライパンにオリーブオイルを適量ひき、もも肉2つをその上に乗せた。

 最初は強火で両方の表面が白くなるまで焼いてから、少し火を落として中までじっくり焼いていく。


「良い匂いするー……」

「まだ焼けてないよー」


 ジュワジュワ、と肉が焼ける音とその匂いにつられ、対面式のキッチン内に茜がフラフラと入ってきた。

 彼女は服が全て半端に脱げた状態で、下着がほぼ丸出しになっている。


「こっちも良い匂い……」

「こーら。危ないぞ」


 彼女はそのまま由希の背後にやって来て、そのへその辺りに腕を回し、うなじの辺りですーはーと呼吸する。


「由希ぃ……」

「はいはい。は後でねー」


 茜の手がへそより下に伸びそうになり、由希はそれをやんわりと払いのけた。


「やーだー……。今するー……」

「お肉焦げても良いならどうぞ」

「うー……。それはもったいないから我慢する……」

「よしよし。良い子だね」


 じゃあちゃんと着替えて席について待ってて、と由希に言われ、茜は渋々といった様子で言うとおりにする。


 それから十数分後。


「ほーら、出来たよ」


 もこもこの寝間着を着てテーブルについて、ぼけーっとしていた茜の前に、美味しそうにこんがり焼かれた肉の塊が乗る皿が置かれた。

 その手前に、ご飯と肉を焼く片手間で作ったオニオンスープが並べられる。


 ほうじ茶の葉が入った急須に、由希はポットから湯を注ぎ、蓋をしてから茜の隣に座った。


「……」

「ん? どうしたの茜? 言わなきゃ分かんないよー?」

「由希ー……。デカすぎるから切って……」

「もう。しょうが無い子なんだからー」


 口ではほんの少し厳しめの事を言う由希だが、その顔も声も、同居人に頼られる事への喜びに満ちていた。


「はい。どうぞ」

「ん。いただきます」

「どう、美味しい?」

「美味しい」


 茜のリアクションは薄かったが、由希は彼女の声のトーンで、料理を気に入っているのが分かった。


「スープ熱いから気をつけ――」

「あっつッ」


 次にオニオンスープを飲もうとして、由希の忠告を聞いていなかったせいで、茜は舌を火傷やけどしてしまった。


「あー、ちゃんと話聞いてねー。はい氷」

「ありがと……」


 それを見て、すかさず冷蔵庫へと走った由希は、氷を取ってきて茜の口に入れる。


「今日はもう、シャワー浴びてすぐ寝た方がいいよ」

ほうはもれそうかもね……」

「そんな顔しなくても、明日休みなんだし、起きてから好きなだけでしょう?」


 ものすごくがっかり顔の茜に、クスリ、と笑いながらそう言った由希は、ペアのマグカップにお茶を注いでテーブルに持ってきた。


 水色のマグカップを茜の前に置き、彼女は自分のピンク色の方に口を付けて、


「あちち……」


 自分も茜と同じ様に、思いのほか熱かったお茶で舌を火傷した。


「あはは……。人の事言えないね」

「由希」

「なに? ――んっ」


 自嘲的に笑って自分の方を向いた由希に、茜は半分ほどの大きさになった氷を口移しした。


「……別に、自分でとってきたのに」

「もっかい立ち上がるのも面倒かと思って」

「嘘ばっかり。キスしたかっただけでしょ」

「バレたか」

「そういうのはご飯食べてからにしなさーい」

「はーい先生ー」


 どちらともなくクスクス笑った2人は、その後、それぞれの職場であったことを話しながら、ゆったりと夕食タイムを過ごした。


 食べ終わると、2人でキッチンに入って、食後の腹ごなしにと後片付けを開始した。


 茜は食器を軽くすすいで、由希はそれを食器洗い機のカゴにテンポ良く並べていく。


 全部詰めてスイッチを入れた茜は、その流れで、中に入らない調理器具を手洗いして、シンクの台に置かれた水切りカゴに入れた。


「ふう。やっとこれでゆっくり――」

「まだだよ茜ー」


 手を拭いてから居間に来た茜が、そう言ってソファーに座ろうとしたが、ドアの前に居る由希が廊下の方を指さしつつ止める。


 その先は、茜がちょっと前に物を散らかして通過した廊下だった。


「あー、そうだった……」

「洗濯物片づけるから、茜はかばん回収したりとかしてね」

「了解……」


 キビキビと洗濯物を回収する由希の一方、茜は座ったまま廊下をズルズルと移動して、ちんたら鞄の回収と玄関に脱ぎ散らかした靴をそろえる。


「あ」


 彼女は廊下と三和土たたきとの段差に置かれた、小さくて黒い無地の紙袋を見て、はたとある事を思い出した。


「ん? 忘れ物でもした?」


 口から思わず出た声に反応して、由希が洗面所からひょっこりと顔を出してそう訊く。


「あー、うん」

「どこに忘れたの?」

「ここ」


 茜は痛恨、といった感じの顔をしながら自分の頭を指さした。


「これ欲しがってたでしょ? ほら、一緒に住んで1年経つからさ」


 すっくと立ち上がった茜は、手にしていた紙袋の中身を見せながら、少し照れくさそうにそう言った。


 中身は最近出たばかりのスキンケアセットで、由希がCMで流れる度に欲しそうにしていた物だ。


「わー! ありがと! そっか、もうそんなになるんだね」


 中を見て驚いた顔をした後、満面の笑みを浮かべつつ茜に抱きつき、感慨深そうにそう言った。


 由希は茜を解放すると、鼻歌交じりに洗面所の向かいにある寝室へ向かった。


「おお。まるでセレブになった気分!」


 ベッドの横に置いてあるドレッサーに、早速、化粧箱から中のボトルを取り出して並べ、由希は目を輝かせながら茜を横目で見つつそう言う。


「そりゃ良かった」


 大はしゃぎする由希を見て、茜はご満悦まんえつな様子で小さく笑った。


「じゃ、やることは済んだし、居間あつちで映画でも見よう。由希」

「あれ、疲れたから寝るんじゃなかったの?」

「由希が喜んでるの見たら疲れが吹っ飛んだ」

「そっか。ならそうしよう!」

「で、何見たい?」

「B級サメのがいい!」

「うーん。配信してるかな?」


 2人は指を絡ませて手を握り、再びリビングへと向かった。



                    *



 2人が出会ったのは、現在から1年と数日前の事だった。


「はあ……、また終電か……」


 中堅広告代理店に勤める茜は、何事も人より要領よく出来るおかげで、中学から大学までずっとエリートで来ていた。

 そして会社に入ってからは、成果重視主義の方針のおかげで、たった数年で月収が50万主任クラスにまで達していた。


 だが、そのせいで彼女は、適切な量を超える仕事を回されている上、同じグループの社員に仕事を丸投げされ、ほぼ毎日終電の時間まで残業して帰る日々を送っていた。


 あと数分で電車がやって来るが、この日は偶然乗客が少なく、ホームは閑散としていた。


 ふと笑い声が茜の耳に届いて、彼女は向かいのホームを見る。

 すると、ギターやエフェクターケースを持った、いかにもバンドメンバーといった感じの若者集団が3組ほどいた。


 大学生ぐらいの彼らは、嬉々ききとした様子で今日のライブの感想を語り合っていた。


 ……あの子達、人生楽しんでるなあ……。それに比べて……。


「生きがい……、ないよなあ、私……。仕事ばっかりだ……」


 そんな彼らをまぶしそうに眺めていると、場内アナウンスで電車の接近が知らされ、茜から見て左手の方向から電車が入ってきた。


 ない物をうらやんだって仕方ない……。帰って寝よ……。


 そんな事を考えながら、茜はバンドメンバーから目を逸らし、黄色い線にゆっくりと近づいて行く。


「ちょ! ちょっと待ってええええ! まだ諦めちゃダメええええ!」


 すると、階段の方から焦ったような大声が聞こえ、黒いショートヘアの女性――由希が全速力で走ってきて、茜の身体をがっしりとつかむ。


 それと同じくして、車体の正面と左右に青い線が入った、地味な銀色の電車が停車する。


「なっ、なっ……。悩み事が……、あるなら……、まず、誰かに、相談……」


 由希は茜が投身自殺をしようとした、と勘違いしていて、すさまじく必死な面持ちでゼエゼエ言いながら彼女を諭す。


「……いやいやいや。そんな気全然ないですから」


 それを察した茜は少し呆れた顔をしてそう言い、ちょっと落ち着いて下さい、と続ける。


 すーはー、と由希が深呼吸を始めたタイミングで、


「あ」

「あ」


 電車のドアが閉まって発車してしまった。


 2人はしばし唖然あぜんとした表情で、最後尾の赤いランプを見送るしか出来なかった。


「すっ、すいません……。私が早とちりしたせいで……」

「……まあ、勘違いは誰にでもありますよ」


 それが視界から消えたところで、由希はペコペコと頭を下げて平謝りしだし、茜は半分困惑した様子で苦笑しつつそれを制止する。


「まあ終わったことを言っても仕方ないですから。まあタクシーででも帰ります」

「本当にすいません……」


 ため息を吐きながら乾いた苦笑いを浮かべる茜は、由希を一切責める事無く、重そうな足取りで階段を降りていった。


「うーん。こういうときに限って居ないか……」


 タクシー乗り場までえっちらおっちら移動したが、ものの見事に1台も待機してはいなかった。


 電話するか……。


 深々と白いため息を吐いた茜は、スマートフォンでタクシー会社の番号を検索しようとした。


「あれ? どうされたんですか?」


 そのとき、暖かい飲み物を持った由希が、駅の出入り口から現れて、そんな茜に話しかける。


「見ての通りです」

「あー、なるほど」


 また苦笑いしながらそう茜が返すと、察した由希も同じ様な表情でそう言う。


「あまり、根詰めてお仕事されないで下さいね佐藤さとうさん。健康が1番ですから」

「はい。……あれ? 何で私の名字を……」

「ああ。ほら、時々あなたの部署にお荷物の配達でお伺いしてまして」

「……。……あー! いつもいらっしゃる業者の」

「はい、大林おおはやしです」


 ぺこり、とお辞儀した彼女は、それじゃあ、と言って歩道の方へと向かって歩いて行こうとする。


「……タクシー、乗られないんですか?」


 自分と同じ様に待っている、と思っていた茜は、ついそう言って由希を呼び止めた。


「はい。バンドの追っかけする資金に回したいんですよ。お給料安いもので……」


 彼女へそう言った由希は、上着の袖をめくって、腕に巻かれたラバーバンドを見せて、少し苦々しそうに微笑んだ。

 ちなみにそれは、界隈かいわいでは有名になりつつあるガールズバンドの物で、連弾のハーモニカを模したデザインになっている。


 ……この人にも、生きがいがあるんだな……。


 そんな由希の活き活きとした笑顔に、さっきホームにいたバンドマン達を見るときの様な眩しさを茜は覚えた。


 でも私には、あんな風に笑わせてくれる様なものはないよな……。


「……えっと、どうされました?」

「……なんで、仕事しかないんでしょうかね、私……」

「えっ、ちょっ。大丈夫ですかっ!?」


 少しぼうっとしていた茜が、突然ボロボロと泣き出し、由希はあわあわと駆け寄って、使わなかったタオルを差し出した。


「これで拭いてください」

「ありがとうございます……」

「……お話、聴きますよ。少しはすっきりするかもしれませんし」


 グスグスと涙を拭う茜の両肩に手を置いて、由希はにこやかに笑ってそう提案する。


 それをのんだ茜が、とりあえず、あんまり人の居ないところがいい、と言うので、2人は駅前のビルにあるカラオケボックスへ向かった。

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