シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈15〉
シモーヌ・ヴェイユはその生において、一つの高みに達したのだ、とギュスターヴ・ティボンは言う。では彼女は一体、どのような場所に「到達した」と言えるのだろうか?
たとえばアルチュール・ランボオは、「詩人以外のものではありえないような精神」を抱えて生きた。彼は、もしたとえ一行の詩を書くことがなかったとしても「詩人」だった。それでも彼は実際に詩を書き、その作品が残った。しかし彼が「実際に詩人として生きた」のはほんのわずかな期間にすぎず、やがて彼は「詩人として生きること」を拒み、「作品」を彼自身から切り捨てて、砂漠の無明へと消えていった。だが結局は彼自身が消えてしまった後でも、「彼の作品」が後の世に残り、彼の書いた詩が「アルチュール・ランボオという詩人」を世に残すことになった。あたかもそれが彼自身であるかのように。
一方でシモーヌ・ヴェイユは、結局その生涯において、革命家にも、教師にも、哲学者にも、労働者にも、信仰者にも、病人にもなれなかった。女であることも、女になることもなかった。それが「何」であれ、彼女は「何者かになる」という領域には全く達することがなかった。もちろん彼女自身がそれを拒んだとも言えるが、一方ではただ単に達しえなかっただけだとも言える。
たしかに彼女の生涯は、いかにも波乱に富んでいて、苛烈な経験に満ちていたかもしれない。しかし一方で見れば、純粋にその内面的な動機にもとづいているかのような彼女の行動原理も、実は単に思い込みの思い上がり、身の程知らずで観念的な自己判断によって、ただ衝動的に突っ走っていただけにすぎなかったのではなかったのだろうか?彼女はその生涯において支離滅裂に迷走・暴走を繰り返して、挙句として「何一つ成し遂げたものがない」のであり、その全てが中途半端に終わってしまっているのだ、とは言えないだろうか?
あるいは彼女は、「何者かである」のには何かが不足であったというのではなく、むしろ何事においてもあまりにも「過剰であった」と言うべきかもしれない。しかしそれも結局はどちらでもよいこと、同じことなのである。要するに「この人」は終生ただ、「シモーヌ・ヴェイユであっただけの人」なのだ。
アランには「人の良いあの子供」と憐れまれ、トロツキーからは「反動」と罵られ、ド・ゴールにいたっては「狂気の沙汰だ」とあきれられ突き放されたヴェイユ(※1)。最後は自ら絶食して、衰弱しきって息絶えた。一体、何の理由があって?その真意は彼女の他に理解できる者はない。結局最後まで彼女は、自分自身を独占しきったのだ。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)冨原真弓『人と思想 ヴェーユ』
◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)
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