書店男子。 ーもりわき書店関西空港店ー

高梨 千加

第1話 渡部玲奈と本田仁の場合 1

「桜だ」


 思わず声がでた。

 電車のドアに寄りかかり窓から見ていた街の景色に、桜の花がゆっくりと流れていく。

 目を離したいのに、離せない。渡部わたべ玲奈れなは、その場で息をのんで見つめた。


 やがて、桜が見えなくなると、ようやく肩の力を抜いて、息をついた。

 桜は嫌な記憶を呼び起こす。決してまだ過去にはなっていない痛々しい記憶。

 一瞬で脳裏に刻まれてしまった桜の映像を追い出そうと、桜の見えない景色を再び見る。

 桜は嫌いだ。少し前までは大好きだったにも関わらず、今ではトラウマになりそうで、桜とどう向き合えばいいのかわからなかった。


 そうこうするうちに、電車はりんくうタウン駅に着き、幾人か乗り込むと再び出発する。ビルの並んだ街並みが通り過ぎ、緑が見え、そして、海と空になった。鉄橋の柵が海の邪魔をする。それもやがてなくなり、視界が開けた。まだ朝の六時すぎとはいえ、日は昇り明るくなった空と海が視界いっぱいに広がっている。


 ところどころ、雲が色濃く浮かび、海に近い部分は朝焼けで薄オレンジにも黄金色にも見える色で輝いている。

 深い色をした水面はその光を受け、キラキラと反射している。


 電車は海の中を突き進む。

 先ほどのことも忘れ、見惚れていた。


 玲奈は大学を卒業してから五年働いた会社を辞め、四月から関西空港にあるもりわき書店でアルバイトを始めた。

 全国に展開する大手チェーンの書店だ。


 朝一の勤務が決まり、朝が苦手な玲奈には少し憂鬱なことだったのだけれど、この景色を見ると、関西空港で勤めて正解だったと思う。

 帰りに見る昼間の海も綺麗だけど、朝焼けに輝く海はわずかな時間しか見れない。

 周りには同じように朝に出勤する人が大勢乗ってはいるけれど、こうやって窓に貼りついて海を見ているのは玲奈くらいだ。みんな、もったいない。でも、この景色を独り占めしているんだと思うと頬が緩む。


 ずっと海を見ていると、やがて海の景色は終わり、関空島に切り替わる。建物と緑、近くを走る車。やがて、トンネルをくぐるようにグレーの壁に変わる。関空島の景色に戻ったと思ったらすぐ視界はグレーに戻り、電車は駅に滑り込んだ。

 ドアが開くと、冷たい空気がなだれ込んでくる。それに反するように、玲奈は外に踏み出した。すぐに混みあうエスカレーターを避け、横の階段を上り、改札を抜ける。


 改札から左手に向かうと、書店のある第一ターミナルへ続く渡り廊下がある。ANAやJALの国内線カウンターや国際線カウンターも第一ターミナルにあるので、電車を降りた人のうち多くは第一ターミナルへ向かう。

 玲奈も速足で渡り廊下を通り抜け、第一ターミナルの入り口の自動ドアのところで、肩を叩かれた。振り返ると、同じ書店でアルバイトをしている篠原しのはら愛実まなみが息を切らしながら立っていた。


「おはよう。渡部さん、足早いね。ホームで見つけたのに追いつかなくて、走っちゃった」

「え、すみません、全然気づかなくて」

「ううん、気にしないで」


 愛実は嫌な顔一つせずにっこりと微笑んだ。笑うとえくぼができる。化粧っ気はないのだけれど、そんなもので誤魔化さなくても笑顔の可愛い子だな、と玲奈は密かに思っている。

 働き出したばかりの玲奈にも気さくに話しかけてくれるし、今のところ嫌な従業員という感じの人はいない。働き出すと意外と体力仕事で大変だけど、人間関係が良い職場なので楽しく働き続けられそうだ。


 二人は他愛もない話をしながら、従業員エリアにある更衣室に向かう。

 従業員エリアに立ち入るためのIDはまだできておらず、玲奈一人であれば先に店へ向かって、誰かに連れて行ってもらわないといけないので、こうやって愛実に見つけてもらえて良かった。


 着替えを済ませ、店のある三階にエレベーターで昇ると、フロアに出る。店の周りや一部の通路はシャッターを下ろしてあり、立ち入れなくなっている。ちょうど書店のフロアの辺りに従業員の出入りの扉があり、そちらを見ると、スーツ姿の男性の後ろ姿が見えた。どうやら鍵を開けているところのようだ。


「おはようございます」

「おはようございます、本田さん」


 玲奈と愛実が挨拶をすると、男性はちらっと振り返り、「おはようございます」と言った。接客業であるにも関わらず、その顔はにこりともせず、無表情のままだ。

 少しくらい笑えばいいのに。

 そう思って、玲奈も口を引き結んでしまう。


 銀縁メガネから覗く細い目は冷ややかで、玲奈はこの男性、本田ほんだじんが苦手だった。意地悪されることはなく丁寧に仕事を教えてくれるので、嫌な人ではない。ただ無愛想なだけだ。

 それでも、人当たりの良い人の方が接しやすいと思ってしまうのは仕方ない。


 本田が扉を開け押さえると、先に玲奈と愛実に通るように促す。頭を下げてお礼を言いながら通ると、事務所に向かう。

 レディーファーストというのか。

 こういうところは意外すぎて、戸惑ってしまう。事務所に入る寸前、玲奈は振り返って本田を見た。


 ……本田さんって何歳なんだろう。


 そんな疑問が脳裏をよぎる。四十歳くらいの店長とそれほど変わらない歳に見えるので、恐らくアラフォーか。だからどうしたって話だけど、結婚しているという話は聞かない。彼女はいるんだろうか。

 本田の顔を思い浮かべ、無理無理無理!と思う。


 別に太ってるわけでもないし、体臭がきついというわけでもなく、髪が薄いとかそういうこともない。顔は平凡、ただそれだけ。それなのに、平凡すぎて恋愛対象としては無理と思ってしまう。

 扉を開けて待ってくれたり、態度は男前なのに、そういう対象としては全く見れないことがおかしくて、出勤簿に時間を書き込みながら笑いがこぼれてしまった。


「どうしたの?」

「あ、すみません。思いだし笑いです」


 出勤簿を愛実に回しながら、玲奈は適当に誤魔化した。さすがに本人の前でこんな話はできない。

 今までの彼氏だって別にイケメンではなかったし、顔で選ぶつもりはないのだけど、どうしても無理な顔もあると思う。

 そんな考えに至ったところで、嫌なことを思いだし、ため息をついた。


「わたし、外で待ってますね」

「はーい」


 愛実に声をかけ事務所を出ると、入れ違いに本田が入っていく。

 フロアの隅で壁に囲まれた事務所は三畳ほどで、事務所内の半分近くは本のストックを置く棚で埋められているので、中はとても狭い。朝一の仕事は倉庫に今日発売の雑誌を取りに行くことだけれど、一人ではまだ倉庫まで行けない。他の人が出勤簿の記入を終えるまで待つ必要があるのだ。かといって、事務所で待っているのは狭苦しいので、用が済めばフロアで待つ方が良い。


 もりわき書店の出勤簿は珍しく、タイムカードを打つ機械がなく、手書きだ。縦に名前、横に日付の並んだ表が印刷された用紙に、出勤時間、退勤時間、休憩時間を書き込み、あとでパソコンに入力していくんだとか。

 出勤時間の書き込み自体はすぐに終わるはずだが、二人はなかなか出てこなかった。本田は雑誌売り場のリーダーを勤めているので、事務所で何か仕事があるのかもしれない。


 やることもなく、玲奈はぼうっと売り場を眺めていた。今日発売の雑誌は前日に夜番が売り場から引いてくれているので、雑誌売り場のところどころが歯抜けのようになっている。

 今日は発売の雑誌が多そうだなと思っていると、ドアが音を立てた。そちらを見るとジーンズ姿の男性が入ってきた。初日に紹介してもらった近藤こんどう琢己たくみだ。


 もりわき書店は、女性がブラウス、ベスト、スカートの制服なので、私服で出勤してから着替えるが、男性は私物のワイシャツ、ネクタイ、スラックスで出勤して、そのまま働いている。そんな中で、近藤は一人だけジーンズ姿なので、覚えやすかった。

 近藤は返品作業を仕事としている。売り場には出ないし、返品は汚れやすい倉庫での作業となるので、汚れても構わないようなラフな格好で働いているのだ。


「おはようございます」

「おはよ」


 近藤は玲奈をちらっと見ると、余計なことは何も言わずに事務所へ向かった。

 一番に顔と名前を覚えることができた近藤だけど、話す機会はほとんどなく、未だにどんな人なのかわからない。

 他の従業員とはにこやかに笑っているけど、自分から積極的に話しかけるタイプではないのかもしれない。玲奈自身も人見知りなところがあり、話題に困る。

 力仕事をしているだけあって体格のよい近藤の背中を見送ると、再びドアの開く音がした。

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