蟹のいる社会『蟹好きカミングアウト考』

『カミングアウトしちゃえばいいんだよ』

 友人から返ってきたメッセージを見て、俺は手を止めた。

 簡単に言ってくれる。

 蟹が好きでたまらない、蟹のことを考えていないと落ち着かない、常に蟹のことを話していたい、俺は蟹が好きすぎる人間なんだ、なんて、言われたって困るだけだし第一引かれるだろう。

 俺が蟹が好きすぎる人間であっても、向こうは蟹に興味などない。むしろ嫌っている。

 蟹反対運動が起こるこのご時世、友人たちが話す蟹ヘイトを聞いているとまるで自存在が否定されたかのような気分になる。

 好みの対象を自存在と同一化させることの是非はともかく、そういった蟹ヘイトを聞く度に自分がここにいていいのかどうか不安になるし、蟹好きと知れたら絶交されるのではなどというどうしようもない恐ろしさをぐるぐると持てあます。

 こんなことはもうやめたい。居づらさに耐えかねるし、いっそ、俺がここにいてもお前たちは許してくれるかなんて訊いてしまいそうになってさすがにヤバいと思った。

 それで、遠くに住む友人に相談したのだ。

 相談するような流れではなかったのだが、久々に雑談していたらたまたま蟹の話になり、うっかり蟹が好きなんだと漏らしたところ友人も蟹が好きだとわかり、盛り上がった結果そういう話になったのだ。

 それなりに長い付き合いなのだが、お互いに蟹好きとは知らずずっと過ごしてきたもので驚いた。というそれはまあ別の話。

 蟹好きの友人の方は周囲に蟹好きであることをきちんと認知されており、たまにどこかで居づらさを抱え込んだときも「周囲は自分が蟹好きであることを知っているのだから大丈夫」と持ち直せるらしい。

 だから信頼できる人にカミングアウトすればとのことだったのだが、そう簡単にできたら苦労はしない。だいたい俺の周囲には蟹ヘイトの色が濃い。

 そんな友人たちと接していても自尊心が削られるだけだというご意見もあろう。だが俺は友人たちのことが好きだし、縁を切ってしまったら話す相手がいなくなりとても寂しくなると思う。

 難しい問題なのだ。ひょっとして受け入れてもらえるかもしれないと思う気持ちもあるのだが、あいつらあのとき蟹を悪く言ってたな、なんて思うとしゅんと気持ちがしぼんでしまう。

 今この友人と蟹好きを共有できていなかったら、俺はもっと苦しんでいただろう。

『考えておく』

 そう答えて、蟹好きあるあるなどで盛り上がった後にやり取りは終わった。


 次の日。

「また蟹に選ばれていなくなったってよ」

「マ? 今度は誰よ」

「生物科の教授。必要な資料とか書きかけだった論文とか授業の準備物ごと消えて、ゼミ生が騒いでた」

「学生だけじゃなく教師まで選ばれていなくなるとか迷惑な話だぜ。何考えてんだか」

「蟹に人間のことなんかわかんないべ。蟹だし」

「ハハハ」

「ハハ……」

 愛想笑いをしながら心がしくしくしてくるのを感じる。とても言い出せるような雰囲気ではない。

 蟹には蟹の大学があって、選ばれた教授もたぶんそこで研究や講義の続きをするのだと思うのだが、しかしそんなこと人間側にとっては知ったことではない。

 迷惑、確かにそうなのだが、その教授も追い詰められていたからこそ蟹に選ばれたのであって、そのつらさを放置した周囲がとやかく言うことなのだろうか。いなくなってからああだこうだ言っても遅いのだ。その教授だって蟹がいなかった頃なら蒸発していた。蟹に選ばれる、というのは人間界からの蒸発とほぼ同義の現象なのだから。

 そう思ったのだが、言わない。言えない。言ったらどう思われるかわからない。


「はあ……」

 落ち込んだ気分のまま家に帰ってきて、ベッドに鞄を放り出す。

 蟹好きの友人に連絡しようかと思ったのだが、そう毎日連絡しては迷惑だろうから我慢する。

 ベッドに寝転がってぐるぐると思考を回してみても、浮かぶのは蟹好きの自分を責める言葉ばかりだし、蟹なんて好きにならなければよかった、嫌いになってしまいたいと思っても、救いを求める自分が蟹に惹かれるのは世の必然なので止めることもできない。

 もう蟹に選ばれてしまえば楽なのかもしれない。でも俺はまだ人間界で生きていたいのだ。

 蟹好きの友人や家族、蟹嫌いの友人たち、大切な存在が人間界にはまだたくさん残っている。それら全てと別れてしまってただ蟹とだけ生きる人生というのは、俺にはたぶん耐えられない。

 おそらく俺は、救いを求めてはいるが選ばれるには向かない人間なのだろう。または、その時期でないだけ。

 全てに絶望しきって友情を憎み、誰も信じられなくなったそのときがきっと選ばれるとき。

 蟹は好きだけど、当分そんなことにはならないでほしいなあと思いながら俺はチカチカ光るスマホを開いた。

『今日もお疲れ』

 蟹好きの友人からのメッセージだった。

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