片翼恋理の幸福論

歌うたい

『竜の恋』



 飽きる、というのは恐ろしい。


 例えばいかに高尚な食事であろうと、どれほど高価なワインであろうと、恒常的こうじょうてきに口にし続ければやがて、一滴の毒に等しくなる。

 旅路が長ければ長いほど、見飽きることは苦痛を呼び込み、舌の上を苦くする。



『懲りもせずに』



 地面から空へと、落ちていくような逆さまの浮遊感は、そんな飽きというものとは隔離されたように、いつだって心地良い。

 風の便りだけを頼りに泳ぐ、そんな感覚に総てを預けてしまいたいとさえ。


 倒錯的な感情のまま行う遊覧飛行は、けれども遠く真下で鈍く響いた雑音によって、また一滴、黒いインクを落とされる。

 嗚呼、"また"か。



『もう、飽きたのだ。貴様らの醜い争いは』



 不細工な鉄の音々と、苦悩と悲鳴と焦燥。

 白い感情の一つすら余分だと渦巻き続ける戦乱のアンサンブルは、ふわふわの雲が翼に触れるほどの高くを飛んでいても、優れた聴力が拾ってしまう。


 飽きもせず、懲りもせず、よくも。黒ずんだ血の雨を、幾つも幾度も振り撒いて。

 星も屑になる紅い夜を、一体何度招けば彼らは事足りるというのだろうか。


 人と人とが、争い合う。

 長い長い彼女の生の旅路の中で、幾度となく見掛けた光景だった。

 争い合う理由など、彼女は知らない。知りたくもない。



『妾の気を害しよってからに』



 使命感などではない。

 公平に云うのなら、優れ過ぎてる聴覚を持つ竜の遥か下で争いを起こしてしまったという不運だった。

 澄んだ青空という、彼女の安らぎを侵害した愚かな者達への仕置きに過ぎない。


 紅い夜を招くのならば。

 鋭牙えいがの並ぶ顎から、灼熱の太陽を吐き出して、朝にするまで。



『灰にしてくれようぞ』



 情景ごと裂いてしまいそうな急降下に、その巨体の影が覆った大地は、這い回るいくつもの塵芥ごと抉れる。

 前触れもなく現れた巨大な災害に、敵も味方もなく、鈍い鉄の争いは恐慌のオーケストラへと演目を変えた。



『フン……ここに至って死を恐れるならば、最初から争わねば良いものを』



 だが、もう遅い。

 そんな時ばかり足並み揃った調べを奏でた所で、竜の機嫌をしずまらない。

 火竜は言葉を持たず、備わるのはただ、総てを灼く業火のみなのだから。




────



【片翼恋理の幸福論】



────





 竜は、空が好きだった。

 蒼く伸びやかで冴えた色に、不定形の空白を至るところにはべらせたような、変哲のない青空が好きだった。


 そこに特別な理由などなく、彼女自身、必要としていない。

 一所ひとところに留まらなくとも、仰げばそこに安らぎを見つけれる。

 翼を翻し、碧青の中を駆ければ、満たされるものがあったから。


 高尚で高潔故に気まぐれな、巣を持たない竜の中で芽生えた感情だった。

 異種どころか同族にすら心を許さない、孤高で孤独な竜が持ち得た約束事だった。


 唯一で壮大な空の青は、いつだって彼女の心を灼いてくれる。

 けれども、いつか。

 この青にさえ、なんら想うことがなくなるのではないか。

 気が遠くなるほどの不平等を生きている彼女は、それゆえに恐れていたのだろう。



──だから、なのか。




「く、そっ……こんなところで死んで……たまるか……」



 唯一で壮大に比べれば、あまりにちっぽけで弱々しい虫の吐息が、儚く聞こえた。

 身の丈にすら不釣り合いな長さの剣は、何をせずとも砕けそうな程にひび割れて。

 そんな頼りのないモノにすら、すがるしかない矮小な少年が、竜を見上げる。



『……、──』



 唯一で壮大な蒼穹が、矮小の彼の瞳に収まっていた。

 見上げなくとも、見下ろすだけでそこにある。


 竜からすればちっぽけで、小粒な青が二つ。

 自責と苦渋、或いは憎しみを爛々と灯しながらも青めくその色が、余りにも彼女の心の置き所と似ていて。



「僕は、お前……を……」



 呪詛のように吐き出した少年の憎しみは、続きを綴る前に大地が塞いだ。

 折れた剣の傍らに、竜の心を揺らがせた青が閉じる。

 死んでは……否、殺してはいない。

 決死の表情で切っ先を向けてきた彼を一目見たその瞬間から、竜は己の力を満足に振るえなかったのだから。


 そして今、彼が倒れた瞬間を見届けて、あまねく生き物に恐怖ばかりを与えてきた凶竜の喉鈴から、脅威が剥ぎ取られていく。

 人間でいえば、安堵の吐息を静寂に溶け込ませた竜は、自らの心情に戸惑いを隠せなかった。



『何故……妾は』



 遠くの方から訪れた、木々森林を駆け抜ける春風が空へと背を伸ばす若草達を撫で付ける。

 ざわざわとした音色が、今ばかりは竜の心と近い。

 その空映しの青が閉じられて、安堵の気持ちと、なにかを惜しむ気持ちとが半々に別れてる。



『……なんだというのだ、これは』



 理解が出来なかった。いや、それ以上に彼女はきっと知らなかったのだ、永い時を無造作に、あるがままに生きていた彼女には。

 仮に知っていたとしても、認める事は出来ないだろう。


 もっと、その青を見ていたかったという切望。

 そして、切望の先に墜ちてしまう事への恐怖。


 まるでそれは、彼女が見下す人間で言うところの──



『…………小僧めが』



 竜は、翼をはためかせる。

 どこからか沸き上がる、なにかの声を掻き消すように。

 心を掻き乱す偽物ではなく、本物の空へと逃げ場を求めるように。

 高く深い青へと、この不理解を預けておきたかった。



 今までに刃向かって来た者など、悉く葬って来たというのに。

 何故、彼だけは違う結果となったのか。

 何故、違う結果のまま立ち去ったのか。



──父上と兄上の仇……討ってやるぞ、レッドドラゴン!!



 孤高で孤独で、生涯初めて臆病になった竜の心に、耳鳴りが残る。

 少年が口にした決意だけは、忘れる事など出来ない。





 その確信だけが、色濃く。





◆◇◆◇



 竜にとってみれば、二年という星霜ほしじもは、瞬きの中で過ぎる程度の刹那だった。


 日々も月々も、季節の変わり目も、性懲しょうこりもなくやって来る世界の衣替えに過ぎない。

 特に、青ではなく灰色が着飾る冬なんて、さっさと過ぎ去ってしまえと願う始末。


 一つ変化があったとすれば、夜。

 紺碧が手を伸ばし、細々とした彩りが黒に層を作る空と、顔の角度を変えては微睡まどろみ誘う月の夜も、欠伸越しに見送るだけだったのに。


 まぶたの裏で、青空が浮かんでしまうのだ。

 本物ではなく、偽物の青。

 飽きる事に期待してみても、星霜が積み重ねれば、鮮明さに拍車がかかるだけ。

 夜に見る白昼夢は、白むことなくただ人の形をした青だった。



「あの日、僕を生かした事を……後悔させてやる!」



 再会の場所は、二年の月日を経たという以外に変わりはない。

 あの日の焼き回しみたく、背を伸ばす若草の草原と、遠くの木々と鮮明な青空。

 変わったのは、少年の方だった。


 背丈と顔付き、身体付きは雄々しさを纏い、それが単なる成長ではなく、血の滲むような鍛練を過ごした事の証明に他ならない。

 竜を討つために、彼女を殺す為だけに、彼は強く成った。



『だから、何故、妾は……』



 それでも。瞳の青は変わらない。

 変わってはくれなかった。変わらないで、いてくれた。

 願い事が叶ったみたく目を細めている自分に、取り繕うだけの自問が浮わつく。


 いつかに抱いた切望と恐怖は、天秤に乗せればどちらに傾くのだろうか。



「行くぞッ!」



 それでも。彼と彼女を別つ溝も壁も、変わらない。

 確かに少年は強く成ったが、それでも竜には届かなかった。

 だというのに、敗者は静かに草花を枕にし、勝者はそれを見下ろすだけ。



『……妾を討つ。その為だけに、二年も費やしたか……』



 見下ろした少年の身体には、竜の強靭過ぎる攻撃によって出来たばかりの傷の他に、幾つもの傷が残っている。

 二年前の決意を嘘にしない為の、彼だけの物語の痕。

 例え討つ為だとはいえ、竜の事だけを視野に馳せた何よりの証だったから。



『……馬鹿めが』




 竜が、翼をはためかせる。

 かき乱れる心を巡り巡る透明なモノに、名前がついてしまう前に。

 戦いの行く末だけは明確なのに、己が心だけは不明瞭なのはどういうことか。


 そうして彼女は、渦巻いた疑問と暗礁を払う為に、また空へと逃げ出す。

 まるで不理解のあまり、母へと泣き付く子供のような一目散の有り様で。

 けれど、その長い尾を引く誰かの声が、彼女の上昇をピタリと阻んだ。



「だ、大丈夫ですか?!」



 孤高で孤独で、生涯二度目の臆病を重ねたばかりの竜の心に、耳鳴りが残る。

 年若い娘のソプラノが、誰かを気遣うように揺れていて。

 振り返れば、金色の髪をなびかせたエルフの少女の声が、空の下の青をもう一度咲かせていた。



「──っ……君は……う、ぐっ」


「あっ、じっとしてて下さい。今、治療しますから!」




 光輪が、舞い上がった若草の葉脈を撫でるように煌めく。

 ヒュルリと一陣の紳士風が黄金の自然を紐解いた、この刹那。



 世界の中心は、間違いなく其処だった。



 出逢うべくして出逢うのだと。

 運命というものの、美しい進み方はこうなのだと突き付けられたような気がして。

 事実、それを美しい光景だと少しでも思ってしまったなのなら。



 夕映えはまだなのに、途方に暮れている。

 ただ独りの竜は、い止められたようにその場を動けなかった。




◆◇◆◇




 それからの月日を、数える事すらしなかった。

 どれだけの時が流れたのか、正確さを求めるには、ぼやけた昼と薄れた夜が多過ぎる。

 行き先もなく思うままに飛んでいた空も、今では脅えるように低くを飛ぶ。



 高くを飛べば、生温い透明なツタで絡まれて、翼が重たくなるのだ。

 壮大な青に包まれる度に、胸に杭を打たれて、息苦しさのあまり溺れているような錯覚に陥るから。

 


 だからこの夜も、嫌味なほどに澄んだ紺碧コンペキの空を飛んでいた。



『……』



 人々に恐れられ、あまねく命の頂に立つ竜種である我が身が、なんて不様なことか。

 原因を探る度に、思考は袋小路へと迷い込んでしまう。

 繰り返した自問自答を積み立てれば、それこそ空に触れる高さにまで届いてしまいそうなほど。




「……どうしても」


『!』



 また一つ、意味のない問いが重なりかけた所で耳にしたのは、あの日から耳の奥で残響したままの少女の声。

 息が詰まる。弾かれたように首をもたげて、彼女が響きの源を辿れば。


 月光によって青白く染まる岩肌を晒した、山の崖下。

 そこだけ巨人のナイフでくり貫いたみたく出来た剥き出しの空洞に、仄かな灯りと二つの影を見付ける。



『──、……』



 枯れた枝で出来た即席の暖炉の前で、寄り添うほどに隣合うシルエットが、誰と誰であるかなど言うまでもない。

 ただ一つの静かな光景。眠りについた世界の片隅で微かな焔が、甘く揺らめく。


 願ってすらいないのに、巻き戻しを始めた記憶が再び囁いたのは、あの日見た光景と痛み。

 弱々しく羽ばたく竜は、それでも小さな焔に誘われるように、彼らの居座る岩山の頂点で翼を休めた。



「どうしても、戦うんですか」


「……仇、なんだ。父上と、兄上の」


「でも、相手は『紅い女王』です」


「……君たちエルフの間でも有名なのか」


「……はい。私たちの村が出来る前から語り継がれてる伝説の古竜です。いくら貴方が国で一番の戦士さんでも……」



 空洞を反響する二人のやり取りは、不思議なほどに自然だった。

 すらすらとそらんじる、それこそパキリと鳴る枝の悲鳴に混じれる程に軽い。


 そこには、確かにそれなりの月日を共に送ったが故の自然さがあって。

 竜の頭の奥で灯る暗い火種が、立ち上る火柱に育ちたがっていた。



「……それでもだ」


「勝てる見込みなんて……」


「見込みとか、そういう問題じゃないんだよ、これは。アイツは僕が討つって……その為だけに生きて来たんだ。例え、刺し違えてでも……」


『……』



 だというのに、育ったのは別の火種だった。

少年が、自分という仇を討つためだけに生きてきたという、混ざり気のない告白。

 歪んでいる、どうかしている。

 あの青い瞳は、まだ自分を映してくれているのだと。

 すがるように、竜はその言葉を噛み締めていた。



「……戦士さんの、お母様は?」


「……ちゃんと、生きてるさ」


「……みたい、ですね。この道具入れ、お母様がお作りになったものでしょう?」


「どうしてそれを……いや。たしか君は、物に宿る思念を読み取る力を持っているんだったか……」


「……はい」



 朗々と続く語り合いは、やがて少女の力に行き着いた。

 確かエルフの中には、そういう特殊な力を持つ者が産まれる事もあるらしい。

 とはいえ、何かを為し得るにはその程度では物足りない。


 いつしか畏怖と共に囁かれた『紅い女王』という忌み名を持つ竜は、せせら笑うように鼻を鳴らす。

 だがそれが驕りきった誤りだと気付くのに、星霜が積もるほどの時を必要としなかった。



「伝わって来ます。貴方のお母様の悲しみが。戦士さんのお父様と、お兄様を失ってしまった悲しみが」


「…………」


「そして、貴方さえも喪うかも知れないって……貴方を止めたくて、それでも止まってくれなくて。ただ祈るだけしか出来ない自分が……許せないって、泣いてます」


「…………ッ」


『──、……』




──飽きる、というのは、本当に恐ろしい。


 慣れの後にやがて訪れる、無情な物の集積体。

 竜は飽きたのだ。人が争い合うのを見るのも、"命"を灼くことにさえも。


 竜は、知らない。

 少年が、青を宿した少年が。

 総てをなげうってでも剣を取る理由。

 いつ、どこで、どんな顔をしていたのかさえも。


 竜は、知らなかった。知ろうとも、しなかったのだ。



「"刺し違えても"だなんて、言っちゃダメです」


「……あぁ」


「せめて、勝って下さい」


「あぁ」


「本当に分かってます?」


「本当だ」


「じゃあ……私も、付いていきますから。回復とか、援護くらいしか出来ませんけど」


「お節介だな、君は」


「……よく、言われます」



 愚かなのは、自分の方だ。

 何かを為し得るのに、あの少女は充分なものを持っている。

 紅い女王に"過ぎない"竜には、持たないものばかりを、持っているではないか。


 少女は、強かった。

 傷付く誰かの為に戦えるのだから。

 臆病な竜では敵わぬほどに、少年と少女は強かった。 



『……道理よな』



 価値観の違いとか、種族の違いだとか、そんなものじゃない。

 ただ、分かりきった有り様をなぞっただけに過ぎない。



 人が紡ぐ御伽噺おとぎばなしにおいて、竜は悪役だ。

 強く邪悪で強欲のフレームに押し込まれては、最後に退治されるもの。

 そんなものは所詮、弱者の夢見事だとかつて嘲笑っておいて、だからどうしたと吐き捨てておいて。

 この期に及んでキャストの変更を望むなんて、虫が良すぎるだろうに。



 仰いだ月は、清廉せいれんなほどに大きく丸く、嘘の一つすら紡がせないほどに白銀だった。

 見下ろす全ての輪郭を浮き彫りにしてしまう夜に、彼女はようやく────これほどまでに"少年に惹かれた"理由に気付けた。



『空っぽ、なのだな……妾は』



 彼女にとって。

 きっと、空は『墓場』だった。

 独りで強く在れる為に、捧げた弱音の葬儀場。

 何もかも呑み込んでくれる様な青に、甘えただけだった。


 人とて、竜とて。独りで在ればがるのだから。永ければ永いほど。 

 拾う事はせず、捨ててばかりだったのだから、何も残らない、残せない。



 飽きる前に、どこかで終わりを求めた。

 だからこそ、あの少年に惹かれたのだと。

 畏れを上回る憎しみでもって、ただ真っ直ぐに自分を見上げるあの青に。



『道理よな……全く』



 そんな想いを紡いだところで、垂らしただけに過ぎない糸は、結び付くことはない。

 紅い色をしたそれは、けれど運命にそっぽを向かれてる。

 不服を申し出るには、竜は、思うが儘に生き過ぎた。



 嗚呼、ならば。

 きっと"次で"最後だろう。


 皮肉なほどに軽さを取り戻した翼を、竜は強く羽ばたかせて。

 彼女は初めて、世界に微笑んでみせた。



 比翼連理この初恋に終止符を。



◆◇◆◇




 凶爪と鍔を競り合う大剣に、短命の火花が散る。

 初めて出逢ったあの時からは、見違えるに厚く、そして力強さと巧みさを兼ね備えた腕が、竜の爪を弾いた。



「ッ!」


『ククッ……やるように、なったものだ』



 終焉の場所は、やはり変わる事はない。

 あの日の焼き回しみたく、背を伸ばす若草の草原と、遠くの木々と鮮明な青空。

 挑むような、彼の瞳の青もまた。


 けれども、変わったものも多い。

 幼さを残した面影こそあるものの、青年期へと手を伸ばした顔付きは逞しくなり。

 竜の心もまた、いつしかかき乱されてばかりだった戸惑いは、もう無い。



 何より──彼女が居た。



 爪を弾いた拍子に態勢を崩し、再び彼を襲う竜の凶爪の前に飛び出した、エルフの少女が居る。

 魔力で編んだの風の盾で、彼を護らんとする存在が居る。



「くぅっ……──せ、戦士さん! この隙に!」


「分かってる! これでッ!」


『!!……翼を、斬られたか』



 連携によって、斬り飛ばされた片翼が無惨に草原へと横たわる。

 狂おしい程の激痛、しかし、それでも竜は悠然と彼らの前に立つ。

 息を荒く、大剣を支えに竜を睨む青年。

 ふと沸いた懐かしさすら、今はもう、無用なのだ。



『全く、恐れ入る。たった一人、増えただけでこの様か。妾は衰えたのか、それほどまでに強くなったか……』



 例えば、人の言葉を使えたとして。

 竜は想いを伝える事が出来ただろうか。

 肉を裂くための爪で、鎧の様な鱗の身体で、臆病な心で。

 彼の為に何が出来たと言うのだろうか。



 綺麗な言葉ひとつ言えやしない口からは、総てを拒む焔だけしか出てこないのに。

 見下ろすだけ見下ろし、見上げる唯一に総てを押し付ける。

 そんなモノが、一体何を伝えれるというのか。



「────ッ!」


『……来い』



 もし、運命とやらの気が変わって。

 やがて竜と人とが結ばれる、そんな未来があったとして。



「これでっ……、終わりだぁぁぁぁぁァァ!!!!」


『    』



 それでも。いつか結ばれる事よりも。

 このたった刹那の共有を、何よりも竜は欲しがった。



◆◇◆



 霞む景色の中で、若草が歌う。

 色を喪い視界の端から白んでいく世界は、静寂しじまに肩を叩かれているように静かだった。

 終わりを迎える時とは、こういう風に穏やかなものであるらしい。


 直ぐ目の前にあるのは、死力を尽くして意識を失っているであろう男の顔。

 亜麻色の髪が数本掛かった彼の顔は、目を閉じると存外に幼いのだと。


 青は映らなくとも、そんな些細なことを見付けれただけで、充分だった。

 最後の最後で落ちてきた幸福の欠片に、満たされるものがあったのだ。



「そういう……こと、だったんですね……」


『……嗚呼。そういえば、そんな力を持っていたな、この小娘は』



 どこか覚束ない足取りで、視界の隅に現れた少女の顔は陰っていた。

 何を哀れむ事があるのかと、浮かんだ問いは直ぐに晴れる。

 少女の力。物に宿る思念を読み取る力。

 復讐に囚われた彼を、救ってみせた魔法。


 竜の断たれた片翼から、自分の想いを読み取ってしまったのだろうか。



『全く……素直に小僧を起こしてやれば良かろうに』



 彼女が違和感を覚えたのも、致し方ないのかも知れない。

 咆哮と共に突き立てられた刃を、竜はどこか甘んじる様に、受け入れたのだから。

 全くもって、目敏さまで持ち合わせるとは、嫌味な恋敵だと。

 動かす事すら難しくとも、竜は小さく喉鈴を震わせる。



「……私は」


『良いのだ、これで。どうせ叶わぬ片方のモノ。締めくくりの幕としては、これ以上とない』


「私は……ダメだと、思います」


『恋を知れた。空に焦がれる以上に、惹かれる者に出逢えたのだ、妾は』


「──だから」


『──だというのに』



 色が、風景に溶けていく。光が負ける。


 それでも。瞼の裏に描く青は鮮明で色濃く。

 あの頃と今も変わらず、褪せないままに。

 だから彼女は、その隣に金色が並ぶことを許せたのかも知れない。




『…………全く、お節介の上に、頑固者か。ククッ、精々尻に敷かれるが良い……なァ?』



 唯一で壮大に焦がれた竜は。

 唯一で矮小な人間に恋をして。

 捨ててばかりだった空に詫びるように、彼女は微笑む。



 空っぽだった竜の心は、あの青空のように澄んでいた。







◆◇◆







「お母様、また心配していましたね」


「……多分、他より少し心配症なんだよ」


「心配症にさせてるのは、間違いなく貴方が原因ですよ」


「……それでも、だ。今まで散々、自分の為に戦ってきた。だから今度は、国の為に、護る為に戦う。そう決めたんだ」


「……この戦いで、今度こそ終わるんでしょうか」


「終わらせてみせるさ。僕が。いや────」



 重々しい鉄同士の鈍い音を、風が運ぶ。

 苦悩と悲鳴と焦燥が飛び交う、戦場のアンサンブル。

 いつかどこかで竜が嘆いた、星も屑になる紅い夜は懲りもせずに訪れている。


 その光景を小高い草原の丘から見下ろす青年は、隣に立つエルフの少女に微笑みながら、背に備えていた"紅い"大剣を手に取った。



「僕達で終わらせるんだ。そうして平和になった上で、嫌味ったらしくコイツを磨いてやるのさ」


「……はい」



 青年となった彼の身の丈すら超えるほどの、"紅い竜の片翼を象る鉄塊"。

 青年は光輪を浴びて静かに煌めく鉄塊の刀身を優しく見つめると、その翼の根元をあやすように撫で付ける。


 エルフの少女が教えてくれた、"彼女"の秘めた願い。



『一度で良いから、優しく撫でて欲しい』



 とっくに叶い過ぎたその願いに、そろそろ彼女は飽きてしまうかも知れないから。

 彼女が恋した青の瞳で見下ろして、高らかに叫ぶ。



「──さぁ、行くぞ!! 戦いを終わらせる為に!」


「──はい!」





 草原に響くは、勇壮の音。

 青き空へと掲げられた紅の片翼は、ギンとくろがねに勇ましく。



 青く蒼い碧青へきせいの彼方へ。

 焦がれた空の下、求めた男の手の中で。

 強く鳴るのは、竜の福音。












『片翼恋理の幸福論』────FIN.

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