毒入り珈琲の謎

Kan

事件編

 山形県のとある観光地の山岳へと向かう山道の中途に、実に風変わりな洋食屋があった。

 古びた洋食屋で、レトロな雰囲気が漂っていた。店内には、ランプのような電灯がほんのり赤く灯っていて、厨房横の棚にはいつぞやのブリキのおもちゃが並んでいた。

 店主の自慢の大きなステレオからは、客が来た時にだけ、繊細でリリカルなモダンジャズの音色が奏でられた。店主は、ビル・エヴァンスの曲が好きであったが、どんな客のリクエストにも応えられるようにと、ジャズであればどんな曲でも仕入れて、棚にCDとレコードのコレクションを積んでいた。

 この洋食屋の看板メニューは、1000円と少しの金額で食べられる本格的なサーロインステーキと、店主こだわりのブレンド珈琲であった。

 実にこの珈琲が、この事件の最大の謎を醸し出すこととなるのであった。


 店主は和辻行彦わつじゆきひこという四十代ちょっとの男で、元々、この観光地付近の出身者である。

 付近の観光地である山岳へと向かう観光客に、山形県産の牛肉と、本格的な珈琲を味わわせてあげたいという気持ちにかられて、何をどう勘違いしたのか、携帯の電波も届かない山の中腹よりも大分標高の高いこんな場所に店を構えてしまった。

 こうなっては、経営も厳しく、ウエイトレスなど雇う余裕はない。それでもどうにかひとりで店を切り盛りしているのだった。


            *


 山道を猛スピードで駆けめぐる一台の車があった。その車を運転していたのは、山形県警の鬼刑事と恐れられる黒石くろいし警部であった。そして、その助手席には名探偵の羽黒祐介はぐろゆうすけの姿があった。


「祐介君、君もそろそろ結婚しろよ」

「いえ、まだそんな予定は」

「しかし、君だって、もう三十になるんだろ」

「ええ、今年でそうなりますね」

「君のお父さんの羽黒警視は、ずいぶん結婚が早かったぞ。いつの間に結婚したんだと思ったよ。そしたらなんと、俺と羽黒さんが会う前から結婚してたんだなぁ」

「はあ」


 黒石警部は、もう五年も前に殉職した祐介の父親の羽黒龍三警視の部下であった。その黒石警部のことが、祐介は少し苦手であった。会う度に、祐介の結婚の心配をするか、訳のわからない見合い話を持ち出してくるのであった。

 今日はそんな話を聞くために、わざわざ東京から山形までやって来たのではない。この付近の観光地となっている山岳で、ずっと以前に失踪した男性の死体が見つかったということで、その再調査に付き添うことになっているのだった。ただし、この失踪事件は、本編の毒殺事件とは一切関係ないことを予め述べておくこととする。


「しかし、腹が減ったなぁ……」

「ええ」

「腹は減ったが、こんなところでは何も食うものがないぞ。どうするんだ。えっ?」

「お昼は我慢して、目的地まで行ったらいいじゃありませんか」

「何だって? 昼を我慢? それは俺の体型を見て言っていることか?」

 祐介は、うんざりしながら、黒石警部の丸々とした体型を眺めた。

「俺が昼を我慢できるというのは、正しい分析か? 正しい判断なのか?」

「いえ……」

「空腹感は敵だ」

 黒石警部は、そう言うと、腹立たしそうにアクセルを踏みしめた。


            *


 洋食屋の店主は、カランカランという音を聞いて、客が来店したことを知った。

「いらっしゃいませー」

 見れば、頬のこけたひどく不健康そうな男が入り口に立っていた。

「おタバコは吸われますか?」

 この店主、小さな店のくせにして、生意気にも、禁煙席と喫煙席を分けているのである。


「吸わない」

 ぼそりと男は言った。禁煙席は、入り口の近くのテーブル席である。

「こちらへどうぞ」

 男は、テーブル席に座って、メニューをチラリと見ると、サーロインステーキとライスを注文した。食後には、珈琲を持ってくるようにと付け加えた。

「かしこまりました。どちらからいらしたんですか?」

「東京から」

「観光ですか? 山の方にはもう行かれましたか?」

「いや」

 東京者は愛想がない。こんな雑談はまったく求めていないのか、目も合わせようとしないので、店主は仕方なく、ステレオに向かって、適当な曲を流した。そして、厨房へ引っ込むと牛肉を焼き始めた。


 またカランカランと音が鳴る。見れば、今度は少し堅いの良いサングラスの男が立っていた。

「いらっしゃいませ。おタバコは吸われますか?」

 サングラスの男は頷いた。そこで、店の奥のテーブル席に案内した。

「ご注文は?」

「珈琲で良い。あと、サンドイッチでも、軽く食べられるものを」

「サンドイッチですね。かしこまりました。どちらからいらしたんですか?」

「神奈川から、観光でね」

「ここには車で?」

「バスでそこまで来て、歩いてきた」

「歩きで山頂まで行かれるんですか。遠いですよ」

「そこが良いんだ」

 男は、そう言って、にやりと笑った。


 店主は、厨房に戻ると東京の男の為にステーキを焼き、神奈川の男の為にサンドイッチを作った。

 厨房からは店内の様子がよく見えたので、店主はふたりの男の様子が気になって、チラチラ見ていた。

 神奈川の男は、喫煙席に座っていながら、一向に煙草を吸わなかった。ぼんやりとして、サングラスごしに、テーブルの上の珈琲用のミルクと、角砂糖を眺めていた。

 最初にサーロインステーキが焼きあがったので、ステーキの鉄板と、ライスを盛った皿を持って、東京の男に持って行った。

 東京の男は、別段嬉しそうでもなく、少し緊張した面持ちでステーキを見ていた。店主はそれが拍子抜けであった。


 次に、神奈川の男に、サンドイッチを持っていった。これも、何か考えごとをしているらしく、サンドイッチにすぐには手をつけなかった。

(両方とも変な客だなぁ、お金ちゃんと払ってくれるかなぁ)

 と店主は嫌な予感がして、ふたりの様子を見ていた。

 ふたりは案外早く、出された料理を食べ終えた。そうなると、次は店主自慢の珈琲である。これには自信があったから、この料理に無頓着な二人の客でも、良い反応が見れるのではないかと楽しみであった。


 珈琲を、まず先に食べ終えた神奈川の男に出した。男は珈琲に何も入れずにそのまま一口飲んで、

「美味い」

 と誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。それが何よりも店主には嬉しかった。


 後は、あの東京の男だ。この男を唸らせれば、自分の勝利だ。店主は上機嫌になって、珈琲を持っていった。

 東京の男は、じろりと珈琲を見て、頷いた。そして、ミルクを少し注いで、角砂糖をひとつ入れた。それをかき混ぜるでもなく、一口、口に含んだ。

 どういう反応をするだろうか、店主は食い入るように見つめた。その時だった……。


 男はうっと苦しげに呻いたと思うと、突然、バネに弾かれたように立ち上がった。喉を伸ばして、そこに手を当てた。

 何が起きたのだろう。店主は唖然としてそれを見つめていた。

 男の口から一気にあぶくが溢れ出た。男は苦しげに宙をもがいていた。掴めるものは何も無かった。激しい発作が起きているようであった。男の体は痙攣しているように、何度も弾かれた。

 男はそのまま倒れて、息苦しげに床をのたうち回った。間もなく、男は静かになった。


           *


 店主は、男の持病の発作が起きたのだと思った。慌てて、男の鞄を探るが、薬らしいものは見つからなかった。

「大丈夫ですか?」

 神奈川の男が近づいてくる。

「とにかく、水を飲ませましょう」

 店主はそう言って、厨房に走っていくと、水をコップに並々と注いで、倒れている東京の男に飲ませようとした。しかし、倒れていて、上手く飲ませられそうもないので、途中で中断し、半分以上を残してテーブルの上に置いた。


「救急車を呼んだ方がいいのでは?」

「そうですね。わたし、救急車を呼びます」

 店主は、レジ横にある電話の元へと走った。しかし、受話器をとって、ボタンを押しても繋がらない。何だこれは、と思ったが、すぐに電話機が壊れているのだと思った。

 ここは携帯も圏外であるから、車で十分程度、山を下ったところにある民家まで電話を借りに行かなければならないと店主はすぐさま判断した。


 神奈川の男は、二時間に一本のバスでここまで来ているのだから、自分が行かねばならないと店主は考え、

「私、そこの民家まで車で行きますから、ここで待っていてください」

 と神奈川の男に告げて、ドアを開いて、外に飛び出た。


 外に飛び出ると、黒い車が走ってきた。

 天使が舞い降りたような気持ちにかられて、店主は車に近寄った。

「すみません。今、お店で急病人が出まして……」

「急病人?」

 運転席に乗っていたのは、達磨のように太った中年男で、助手席に乗っていたのは若々しい印象の爽やかな美男子だった。

 実はこの二人というのが、先ほどの黒石警部と羽黒祐介なのであった。

「そりゃあ、大変だ。もう救急には連絡しましたか」

「それが、店の電話が壊れていまして、下の民家まで電話を借りに行こうと思いまして」

「ああ、すぐに行った方が良いですよ。わたし、県警の者です。ですから、お店の方は任せてください!」

「警察の方ですか! それは良かった。では、すぐに行ってきます」

「はい」


 黒石警部は、適当にその場に車を停めて、祐介を連れて、店内へと入っていった。

 店内に入ると、そこには呆然と立ち尽くすサングラスの男と、床で泡を垂れ流してうつ伏せに死んでいる男がいた。

「警察の者です」

「えっ、警察……」

 一瞬、サングラスの男はしまったというような口調になった。しかし、すぐにまた押し黙った。


「亡くなられてますな」

「ご病気でしょうね」

 サングラスの男はそう言ったが、死体を眺めている黒石警部はそうは思わなかったようだ。

「アーモンドの香りがしますな。いや、あまり吸わないように! それにこの体の反応……。青酸カリによる毒殺の疑いがある」

「青酸カリ……?」

 サングラスの男は、ギョッとして繰り返した。

「ええ、もし私が言うように、死因が青酸カリだとすると、あまり死体に近づかない方が良いでしょう」

 淡々と語る黒石警部は、いつになく格好良かった。


 羽黒祐介は、すでに無言で死体の様子を観察し始めていた……。

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