第9話 越鳥南枝に巣くい、胡馬北風に嘶く (=北✖ことわざ✖魅惑的な枝+偏愛モノ)

「どいて斬らんかったやか?」



 口の中の血を土の上に吐き捨てて、崔之介さいのすけは男の問を頭の中で反芻した。


 一度では、問が呑み込めない。血を失い過ぎたからだろう。右肩が熱い。



「わしも剣にはちぃっとばかし自信があったけんど、おまさんの方が強かった。じゃき、さっき、わしを斬れたじゃろうて。どいて斬らんかったやか?」



 ぼさっとした髪をかきながら、土佐の男は、つまらなそうに尋ねる。


 宿屋の小さな庭。場には、三人の男が集まっていた。1人の男の提灯の明かりが、夜を照らす。


 後ろ手で縛られた縄は簡単に抜けられそうもなく、仮に抜けられたとしても、この男達から逃げられそうにもない。


 先ほど、土佐の男は、崔之介の方が自分よりも強いと言ったが、それは間違いだと崔之介は思う。正面から戦えば、どちらが勝ったかわからない。


 だから、こうやって夜襲を行った。


 土佐の脱藩浪人の始末。


 最近流行りの大義に囃し立てられたわけではない。そもそも崔之介は、頭がよくないので、世の流れなどはわからなかった。


 ただ幕府筋からの依頼で高額だから引き受けた仕事だった。たかが脱藩浪人を斬るだけの楽な仕事だと。


 その結果が、これだと言うのだから、笑う気も起きない。


 崔之介は、かるく息を吐いてから答えた。



「盆栽を斬りたくありませんでした」


「盆栽?」



 ここで死ぬだろう。嘘をついても仕方がないと、崔之介は正直に告げる。



「あの位置で刀を振ると、盆栽の松の枝に当たりました。ゆえに、刀を振れませんでした」


 一振り目を避けられたときに諦めるべきだったのだと、崔之介が呆ける一方で、土佐の男は眉をひそめた。


「いや、わからん。わしを斬らんとおまさんは死ぬき言うちょるのに、盆栽なんぞ気にしちょる場合じゃなか?」


 あぁ、なるほど。


 それを不思議に思ったのか。


 ただ、刺客の事情に、これほど興味を示すこの男も変わっている。雇い主を吐かせるためならばわかるが、こんなどうでもいいことを問うなんて酔狂が過ぎる。


「そういえば、そうですね。俺にもよくわかりませんが、咄嗟に手が止まりました。もしかすると、父を思い出したかもしれません」


「ほう?」


「父が、松を好いていました。俺の故郷は、北の小さな村で、松を愛でるなんて、そんなたいそうな家柄でもなかったんですが、何でも将軍様の庭の松の株を分けたものらしく、それはもう大切に面倒を見ていました」


 それこそ我が子のように。


「それはもう狂っていました。松が枯葉の病にかかると、父は刀も着物も売って薬を買いました。ただ所詮無理な話でして、生活はだんだんと苦しくなり母は病に伏せました」


 もともと母は身体が強い方ではなかった。


「しかし、松に狂っていた父は、母のために何もしませんでした。生活は苦しくなる一方で、母の体調は益々悪くなりました。俺も子供ながらに父を説得しようとしましたが聞く耳をもちませんでした」


 なんとかしなければならない。崔之介は子供ながらに腹を決めた。


「ちょうど月のないこんな夜に、俺は、父の松の木に火をかけました。そのままでは燃えませんでしたので、油と葉と枯れ木を足しました」


 火は高く昇り夜空を焦がした。


「きっと、父は松の木に取り憑かれているのだと思いました。松の木さえ失われれば、父は元に戻る。そう信じていました。しかし、父は燃え上がる松の木を見て、その身を顧みず、火の中に飛び込みました」


 その後ろ姿は今でもはっきりと覚えている。


「程なくして、父は息絶えました。俺には今でも理解できませんが、あの松の木は、父にとって半身のような存在であったのだと思います。だから、といっても、確かではありませんが、俺が松を斬るのを躊躇ためらったのだとすれば、それが理由です」


 土佐の男は、黙って聞いて、それから、うんと頷いた。


「得心いったぜよ。確かに親は斬れんにゃ」


 そして、土佐の男はもう一つ尋ねる。


「おかっつぁんは、生きとるんがか?」


「え、えぇ。ただ病がひどくなり、薬を買うために金が必要で」


「そいでこげんなことしとんかえ? ぶきっちょじゃのう」


「剣しか取り柄がないもので」


 すると、土佐の男は大いに笑ってから、庭の奥の方へと歩いていった。


 戻ってくると手には小さな盆栽が抱えられている。


「これじゃったか? どれも同じに見えるき、ようわからん」


「あの、何を?」


「こいを、おまんにやるき、故郷に帰れ。銭は少ないけんど、お母つぁんに、精の付くもんをうてやり」


 理解が及ばず、崔之介は言葉を探す。代わりに、周囲の男が尋ねる。


「坂本さん、いいんですか?」


「いいき、いいき。わしは、こいつを気に入ってしもうた。もう殺せん。じゃったら、手打ちするしかなか」


 土佐の男は、腰を落とし、崔之介の前に松の木を置いた。


「どうするか? ここで死ぬか、故郷へ帰るか?」


「いいのですか?」


「殺されそうになったわしがいいと言うんじゃき、いいに決まっとろうが」


「しかし、何で松を?」


「ん? おまんはこいをおとっつぁんじゃと言ったじゃき。親なら連れて帰るのは当然ぜよ」


 それに、と土佐の男は続ける。


「刃を止めたのがこの松の木なら、お父つぁんは人なんぞ斬らんと故郷に帰れと言うちょるってことやき」


「……かたじけない」


 崔之介は、自らの弱さと、男の心の広さに、思わず感極まり、涙を流した。


 目の前には松の木が置かれている。昔、父と共に燃やした松の木は、あれほど憎く思えたのに、今では少しだけ親身に感じられた。


「あぁ、なんといったかの。こういう故事を先生から聞いた気がしたんじゃが」


 まぁいいか。


 高らかに笑う土佐の脱藩浪人の背中は、やけに大きく見えて、もしも世の中を動かせるのだとしたら、こんな人なのだろうなと崔之介は思った。

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