第52話その後5



「——だからですね、ループがフガッ。私、何度も殺されてその度にフガッ」

「お前、本当に大丈夫か。顔をぶつけて鼻が曲がったのか」


 執務室への移動中、試しに兄様にループについて話してみようと試みた。けれど、ループで得られた断片的な情報は口にできても、ループのこと自体について説明しようとすると、なぜか「フガッ」と豚が鼻を鳴らすような声が口から漏れて、続く言葉を遮られてしまう。

 もしかしなくても、これは署名したあの怪しげな契約書の効果だろう。それ以外に原因が思いつかない。


 言いたいことが思うように口にできなくて、どんどん苛立ちが募っていく。


「ああもう、じれったい! だから私、ループの起点だとかで同じ夜をフガフガフガフガッ」


 前を歩く警護の領兵がブォフッ! と吹き出した。それに引きずられるように、他の領兵たちもゲホゲホ咳き込んで、そのあとそれぞれ気まずそうに明後日の方角へと視線を向けた。

 ぐうぅ、屈辱。あんな契約書、簡単にサインするべきじゃなかった。


 兄様は笑いもせず、「うわぁ」と心底引いたような顔をする。


「お前、それ間違っても婿殿の前でやるなよ。折角掴んだ奇跡を踏みにじるような真似はやめておけ」

「奇跡って失礼な。公爵様は6年も前から……」

「こちらが、執務室になります」


 私が夫婦の熱々な馴れ初めを語ってやろうとしたところで、先ほど吹き出していた領兵が立ち止まった。領兵は扉を開け、それから私を見て、笑いを堪えるようにぶるぶると震え始めた。


「わ、我々は、廊下で、待機しておりますので。どうぞ、な、中にお入りください」


 領兵は所々つかえながらも、辛うじてそう言う。

 この人の顔は覚えておこう。そして、今後なるべく関わり合いにならないでおこう。


 中に入ると、入り口すぐ脇にファロー執事長が佇んでいた。執事長は、私に気がつくと頭を下げ、そして視線で部屋の奥を示した。

 そこには、公爵と壮年の領兵数人がいて、何やら書類を広げて話し込む姿があった。公爵の表情は、朝とは違って険しい。更に奥にはライゼルさんが、壁紙の模様に溶け込むように、しゅんと小さくなって立っていた。

 ライゼルさんは私と目があうと、申し訳なさそうに会釈する。その左頬は、赤く腫れあがっていた。


 ……私、ライゼルさんの顔も蹴ったっけ。


「あれは、クリュセルド様がライゼル様を殴りつけた痕です」


 そそそ、とファロー執事長が私のそばによって、小さく囁く。


「え。ここで喧嘩をしたんですか」

「喧嘩ではなく、ライゼル様のお話を聞いたクリュセルド様が大層お怒りになりまして、その……一方的に」

「公爵様が……」

「差し出がましいお願いではございますが、この話題には触れないで頂けますか。先ほども、クリュセルド様をお宥めするのに大変苦労いたしまして」

「——では、その通りに。これから彼らと話がある。一度持ち場に戻ってくれ」


 話が一区切りついたようで、公爵が領兵たちにそう言う。

 それと同時に、執事長は音もなく私から離れて、元いた扉の脇へと戻った。


 領兵たちは公爵に向かって一礼し、ぞろぞろと扉の外へと出て行く。

 部屋の中には、公爵とライゼルさん、ファロー執事長、そして私と兄様が残された。


「カトレア」


 公爵が手に持っていた書類を机に置いて、歩み寄ってくる。そして私の両手をとり、強く握りしめた。同じことを、セレニアちゃんにもされたっけ。

 ちらりと見ると、公爵の右手の甲は少し赤く擦り剥けていた。


 剣の扱いには慣れていても、人を殴ることには慣れていないのだろう。子供の頃、トリス兄様とエド兄様が取っ組み合いの喧嘩をしていたとき、「下手くそが殴り合うと手の骨を折るから気をつけるんだぞぅ」とモル兄様が教えてくれた。

 公爵の手を守るためにも、執事長の言う通りライゼルさんの顔の腫れについては黙っておいた方が良さそうだ。

 顔が痛む者同士、ライゼルさんにミジンコ程度の同情心が湧かないこともないし。


「ライゼルから、詳しい話を聞いた。本当に、君にはなんと詫びればいいのか。全ては、城館に暗殺者の侵入を許した私の責任だ。私の監督不足のせいで、君やセレニアを危険に晒すことになってしまった」

「そんな。今回のことは、公爵様のせいじゃないです」


 慌てて首を振る。

 普通に見れば私も被害者なのだろうけれど、アージュさんの話を聞いた後では、なんだか被害者ぶる気になれなかった。肉を求めてぎゅるぎゅる雄叫びをあげていたお腹も、今は一時的にしんと静かにしている。


 私の否定を優しさと受け取ったらしい公爵は、手を握る力を強めて、更に続けた。


「君の父君に使いを向かわせている。今後については、サイラス殿とも相談して決めようと思う。だが、その前に……」


 公爵は私から手を離し、振り返らずに「ライゼル」と小さく呼びかけた。

 部屋の隅で棒のように立っていたライゼルさんが、遠慮がちに前へ進み出る。


「君と義兄上には、まだ事件の詳細について、断片的な説明しかされていないと聞いた。不快に思うかもしれないが、君は当事者だ。彼の話を聞くべきだと思う」

「それって……」


 ライゼルさんへと目を向ける。彼は腫れあがった顔を頷かせ、覇気のない声で言った。


「私がどうして君の暗殺に使われたか。その経緯を話したい」


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