JENNY JOKEY APARTMENT

小町紗良

The lady of the Crowd

 それは暗い嵐の夜だった――っていうのは、イギリス的には物語の書き出しとして超ダサいらしい。けれど今は陽の光降り注ぐ昼下がりだし、ここはイギリスじゃなくてデタラメ・リトル・ヨーロッパだ。


「家具が揃っていて、出来うる限りお家賃が安くて、今日からでも入居できるお部屋を探しているんです」

 地下鉄の駅から地上に出て、大通り沿いに見つけた不動産屋の扉を開き、客人用の席に腰をおろして、淀みなくそう言った。

 この頃には二日酔いの気持ち悪さもすっきりしていたし、きわめてレディらしい振る舞いができたと思う。しかし、不動産屋の小太りなおばちゃんは「あらまあ」というような顔を隠しもせず、つぶらな瞳をぱちくりさせた。


 泣き痕が消えてない? すっぴんが見るに耐えない? それとも髪型がひどいのかしら、持っていた鏡という鏡をこっぱみじんに割ってしまったから、確かめようがないのよ。着古したワンピースの毛羽立ちがみっともない? それわよりもっとズタボロな、母のおさがりのヴィトンのトランクがいけない? ひょっとしてまだお酒くさい? なんにしろ、物件を紹介するに足る客ではないと思われては困る。通帳の残高を開示するべき? あまり豊かな蓄えとは言えないけれど、部屋を借りられるぐらいの貯金はあると思うのですけれど、マダム?

 という心の声を抑え、おだやかな笑みをたたえる。


「ええ、はい、お探ししますわ。お待ちになる間、こちらの書類に必要事項を……」

 実際のところ、彼女が「あらまあ」な顔で私を見ていたのはほんの一瞬だったかもしれない。私の自意識が鋭敏になりすぎているのだ。

 まったく、みんな私のことなんてどうだっていいって分かってるのに。誰とも目の合わない通行人A。そうじゃなきゃ、こんなフザけた町で暮そうとはしない。


 おばちゃんは付箋だらけの分厚いファイルを忙しなく捲る。目が悪いのか、紙面にものすごく顔を近づけては、家具付き低賃料即入居可の物件資料を引き抜く。私は書類を書き終え、彼女の結婚指輪についた細かい傷や、マグカップの縁にうつった濃いピンク色の口紅を見ていた。


「ご記入ありがとうございます、お預かりしますね。早速ですが、ひとまず数件、ご紹介いたしましょう」

 おばちゃんは何枚かの資料を私の前に滑らせ、ひきかえに私が書いた書類を手に取る。そしてキスしそうなぐらい紙面に顔を近づけ「あらまあ」と口にした。

「ジェニー・ブライトマンさん? あらまあ、あなた、ジェニーっていうの」

「はい、そうですが」

「あらあらあら、まあ!」

 いったいなにがそんなに面白いのか、おばちゃんは豊満なバディを揺らして小躍りする。


「ジェニー、あなた、とっても運がいいわ!」

「そんなはずはないのですが」

 レディな笑顔を留めている自信もなくなってきた。ジェニーなんて、ありきたりな名前がなんだっていうの。同じ名前の女性、ひとまわり以上年上の人が多いから、シブい気がしてあんまり好きになれない。


 私の気を知りもせず、おばちゃんは「ついさっき、募集依頼がきたばかりなのよ」と声をはずませ、ファイルの表紙にクリップで留められた封筒を手に取ってひらひらさせた。

「他の候補も紹介して差し上げるけど、ジェニー、絶対ここにするべきだわ」




「はじめまして、ジェニー。ようこそ、ジェニー・ジョーキー・アパートメントへ」

 数件の内見を経て、最後に連れてこられた――意図的にこの順番にしたとしか思えない――物件にて、家主のソフィア・ボガードさんから熱烈な歓迎を受けた。

 ソフィアさんと不動産屋のおばちゃんは同級生だそうで、顔を合わせるなりワーオとか言ってハグをした。ソフィアさんもおばちゃんに負けず劣らずの肉付きだけれど、おっとりとしたおばちゃんとは対照的だ。胸元の開いたセクシーなファッションとブロンドのショートヘアも相まって、溌剌とした印象を受ける。


 デタラメ・リトル・ヨーロッパ記念公園の向かいに鎮座する煉瓦造りのお屋敷は、丁重に保全されるべき歴史的価値がある建築物にしか見えなかった。しかし、トンチンカンな名前のついた賃貸アパートなのである。

 ここに到着する前に見て回った物件は、どこも似たり寄ったりな手狭な部屋だった。おまけに雨漏りのシミがひどかったり、隣の部屋の生活音が丸聞こえだったり、手指までタトゥーぎっしりのいかつい男たちが廊下でたむろしていた。


「もうすこし家賃のグレードをあげれば、こういう物件は減るわ。でもジェニー、今朝シュドウェストを発ったばかりなんでしょう?」

 おばちゃんが運転する社用車の後部座席で、去ったと思い込んでいた睡魔に襲われながら相槌を打つ。長年暮してきたその地名の響きは、とてつもなく遠い異国であるかのように聞こえた。

「ええ。出掛けに大家さんに鍵を返して、職場の郵便受けに辞表を放り込んできました」

「あらまあ」

「大家さんには違約金と部屋の回復にかかりそうなお金と、心付けをお支払いしたから、けっこうゴッソリと……ああでも、初期費用はじゅうぶんにありますから」

 カーラジオからはカーペンターズの『トップ・オブ・ザ・ワールド』が流れていて、それが私のぼんやりとした気だるさを助長していた。

「分かってるわ、気にしなくていいのよ。あなたは真面目で義理堅いお嬢さんに見えるもの」

「そんな、まさか」自嘲の声が漏れる。「何か罪を犯して、逃げてきたのかも」

「あらあ、それはそれでエキサイティングだわね」

 バックミラー越しに微笑んでみせると、思っていたよりも疲れた顔をした自分と目が合った。


 窓の外に視線を移す。おもちゃみたいな西洋風の街並みは、指でつついたらパタンと倒れそうだ。どうしてそう見えてしまうのだろう。偽物だという先入観のせい? 

本物がなんなのかも、わからないのに。

「ねえジェニー、ホントはお客様にこういうことを訊ねちゃダメなんだけど……」

「昨日の夜部屋に帰ったら、彼氏と同僚がベッドインしてました」

「わかった、よくわかったわ、もう何も聞かない。ごめんなさい」




「百年ぐらい前にはね、この国ではイギリス貴族の真似事が流行ってたの。金持ちはデタラメ・リトル・ヨーロッパをロンドンに見立てて、社交シーズンを定めて集まってた。その時期にこの土地にいるってことが、豊かさの証だったわけ」

 エントランスホール中央の木彫りの大階段は、踊り場を起点にして左右へと伸びている。映画などに出てくるこの手の建築のイメージと比べると、ややこぢんまりとしたかんじではあるものの、庶民の私からすればじゅうぶんにご立派だ。


 それでいて、妙に親しみ深いような気分にもなる。深く息を吸い込むと、愛されてきた建物にしか醸し出すことのできない、ほのかに甘いにおいがした。ながい間、幾人もの生活を包んできたことがわかる。ボロボロのヴィトンのトランクも、ここでなら味わい深いヴィンテージのようで、ちょっと誇らしげに見えた。


「ホンモノのボンボンは、別荘を建てたり買ったりしてた。これから成り上がろうとしている小金持ちは、間借りの別荘を利用していたんだけれど、誰もが見栄を張りたくて必死だったのよ。そこに商機を見出して出来たのが、このタウンハウス」

 ソフィアさんの語り口は、幾度もこの話を繰り返してきたのがわかる滑らかさだった。おばちゃんも、ききなれたフェアリーテイルに耳を傾ける風情でにこにこしている。

「お屋敷自体はとても素敵でしょう? でもね、そりゃあヒドい貸し方をしてて。衝立を置いただけのしょっぱい間仕切りをして、セミデタッチド・ハウスを謳ってたの。最盛期はセミどころかクォーターぐらいに仕切ってたらしいのよ。ガワだけ良けりゃ構わない、プライドが高いのか低いのかわからない、小金持ちのためにね」

「えっ、それじゃあ、今も衝立で住空間の間仕切りを?」

 バカ正直に問うと、ソフィアさんは愉快そうに笑ってみせた。「まさか、そんな……」と彼女が言いかけたのを遮って、男の声が降ってくる。


「そんなわけないだろう。気の利かない冗談だな」

 見上げると、その青年は踊り場に立っていた。彼がソフィアさんの息子であることは、髪の色と居ずまいからして明らかだった。キャメルのスーツジャケットのポケットに手をつっこみ、名状しがたい威光を放っている。背景も相まって、ファッションマガジンの1ページのようにすら見えた。


 呆気に取られているうちに、青年はよく磨き上げられた階段の手摺にひょいと横向きに腰かけ、そのまますーっとこちらへ滑り降りてきた。軽々と着地し、ずけずけと私たちの間に割って入ってくる。トランクの柄を持つ手が、とつぜん汗ばんでくる。

「あんたねえ、いくらお世辞が言えないからって、初対面の女性に失礼よ」

 ソフィアさんがあきれたように言う。並ぶとますます似ていた。肝がすわったかんじの眼光や、シャープな線を描く鼻筋やフェイスラインは元より、利発さや鋭さのあるオーラがまるで同じだ。つまり、私には太刀打ちできないタイプの方々である。

 ちょっと怖気づきはしているものの、ソフィアさんの言うとおり、彼の失礼な態度にむっときた。謝罪の一言ぐらいあるだろうと思いながら、じっと睨みつける。


 すると、青年も品定めをするような視線を寄越してきた。幸いにも私は高身長であり、わずかに彼のほうが高くはあったものの、威圧的に見下ろされることはない。それでも、無言で眺められるのに耐えかね、目を逸らしかけたときだった。

「脚の浮腫みがひどいな、長時間列車に揺られてきたのなら無理もない。夏めいてきたとはいえ、この土地ではまだ肌寒い日もある。フレンチスリーブを着ているということは、常に温暖で日差しの強い土地から出てきたんだろう。普段は対策を念入りに行っている為に肌は白いが、なりふり構わず飛び出してきて日焼け止めも塗らなかったせいで、頬が赤らんでいる。そのゴツいシルバーのロレックスは明らかに君の趣味ではないし、男物だ。こっちで売って金をつくろうという魂胆で、ろくでなしの恋人からかっぱらってきたな。やるじゃないか。しかしその年季の入ったヴィトンは、ここじゃ金にならない。メンテナンスに出せば見栄えするはずだ、後生大事に持っておけ」


 言い当てられるごとに、脚の重さや頬の火照り、ロレックスと手首の隙間を滑る汗の感触がより如実に感じられた。完膚なきまでに図星である。

「無言なら肯定と受け取るが」

 不躾な名探偵から似たような仕打ちを受けた、すべての推理小説の登場人物たちに同情しながら、口をあんぐりとあけたまま棒立ちになった。「いつもこうなのよ」とおばちゃんが私に耳打ちしてくる。

「アイザック」まさに叱る時の母親の口調で、ソフィアさんが呼び掛ける。「彼女は私のお客様なのよ?」

 ソフィアさんの引きつった笑みを受け、アイザックは悪びれる様子もなく肩をすくめる。そして、わざとらしく吐き捨てた。

「これはこれはお嬢さんリトル・ガール、大変な失礼を」


 アンタ絶対私とそんなにトシ変わんないでしょうが!

 と、金切り声を上げて胸倉をつかむ、或いはトランクを投げつける、足の甲をヒールで踏んでやる、そんな類いの暴力を胸のうちで押しとどめる。なんてったって私はお嬢さんではない、淑女レディなのだから。


「……午後の予定は?」

 ごめんなさいね、というようにソフィアさんが私の肩をぽんぽんと叩き、アイザックに問う。彼はすでに私たちに背を向け、玄関へつかつか歩いていくところだった。

「ライナスの地理の課題をみてやってから、彼が所属するバスケチームでシュートの指導、夕方はミスター・ジェラルドの代理で商店連盟店長会議の書記。その後はカフェ・ミストラルのコーヒーマシーンの三台中一台をメンテナンスして帰る」

「そう、気をつけてね」

 アイザックはこちらに一瞥もくれず、片手を挙げてソフィアさんに応えると、両開きの扉を押し開けて出ていった。ぎいいい、ばたん、とエントランスに音が響き渡る。


「なんの商売よ」思わずつぶやくと「ま、よろず屋ってとこね」と、同じくソフィアさんがひとり言のように答えた。

「ここの入居募集再開を申し入れてきたのも、彼よ」呆れ半分、関心半分でおばちゃんが言う。「ジェニーが来店する30分ぐらい前かしら、ウチのはす向かいに彼の馴染みのマフィン屋があるんだけど、そこに行くついでに寄るかんじで来たのよ」

 ソフィアさんが続く。「そう。前住人が退去したのもホントついさっき。私や他の入居者が別れの挨拶を交わしてるのを横目に、足も止めず『では、お元気で』とか言って通り過ぎてったと思ったら、必要書類揃えて不動産屋に直行ってわけ。まったく、せわしないったら」

 マダムたちが「ねえ?」と顔を見合わせ、揃ってため息を吐いたかと思うと、一拍置いてふたりとも笑い出した。


「まあ、とにかくジェニー、あなたはとっても運がいいのよ。人気物件だから、募集情報出すと内見希望殺到が殺到するの。それを公開前にいち早く知ることができたんだから、ほんとうにラッキーでハッピー!」

 仕事を思い出したおばちゃんが、ニコニコとセールストークを再開する。

「しかも、なんたって、ジェニーって名前の人は賃料割安なんだから!」

「あはは、そうですね」

「ああだこうだ言ってても仕方ないわ、お部屋をお見せしましょう」

ソフィアさんがどこからともなく取り出したアンティークゴールドの鍵が、シャンデリアの灯りを鈍く反射した。

「ええ、お願いします」

 オトナな対応を弁えたレディである私は、愛想を保ちつつ、あーあ今日はもう疲れちゃった安いバルで飲んでテキトーな宿取って部屋探しは明日ビジネスライクな不動産屋に頼もう、とか思っていた。


 


 ――という具合で、私の冗談みたいだけど冗談じゃない新生活がはじまっちゃったんだけど、ジェニー・ジョーキー・アパートメントで暮らしてきたジェニー達に代々伝わってきたジェニーズ・ダイアリーに、そのまま記すかはまだ決めかねている。少なくとも、イギリスでいちばんダサい書き出しは免れてるけどね。

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