旧タイトル閨房のこと

 「閨房けいぼう」という言葉には寝屋、女の寝室といった意味合いがある。似た言葉に「房中」というものがあるが、ほぼ同義のものといってよいのかもしれない。


 閨房という言葉を使ったものには、サディズムの語源となったマルキ・ド・サドによる「閨房哲学」があり、房中には「房中術」というセックス気功ともいうべきものがある。


 要するに「セックスしながら健康になろうぜ?」みたいな話である。



 これらの言葉は宗教や戒律と関係がある。



 チベット仏教のことを調べれば、性的要素の強さが判るだろうし、閨房哲学は無神論のもので、不倫や近親相姦を肯定するなどの戒律に対する挑戦的態度を感じるものだが、房中術と関係する道教は、男女和合に即するとして推奨的な態度である場合も多い。


 古代インドにも「カーマ・スートラ」という愛を研究することの重要性を説く有名な書物がある。



 ところで性は童貞や処女であるほど想像力を残すところがある。性というもの自体はそれほど秘密なものではなく、ただ秘密にしておくことがエロスを創る仕組みとなる訳だ。


 「はじめて」という立場は、既に公開されているものを秘密にされている。


 即ち、人ははじめてのひとを馬鹿にしたりもするが、はじめてのことを羨ましくもおもう。


 一方で性に対して開けっぴろげに語ってしまえば、青春は置き去りにされ、エロスは消えてしまう。

 風呂上りのいい歳をしたおばさんが、全裸で家中を駆けまわっていても、エロスを果たすことは困難である。



 ギャグもやり過ぎると萎えるもので、緩急が大事なものだ。引き際を違えると一気につまらないものになってしまう。


 よく言われることだが、よかれと思って胸を強く揉みしだく男性がいるが、気持ちいい訳ねえだろと嘆く女性も多い。


 そのような男性は、女性に叱られた挙句にベッドの上でソフトタッチの指導を受ける羽目になり、その不愉快はセックスレスへの架け橋となるのかもしれない。



 性を知り尽くしたような顔をする者もいるが、実際は自身の性の側にだけ溺れていることも多く、かえって異性をないがしろにしていく場合も多い。


 このような連中は性別の違いを対立項目にする傾向があり、すぐさま争いの種にして、ジェンダー論を戦わせることは、よくみられる行為である。



 だからといって判り合い過ぎても、自分の性の魅力が消えていってしまう場合も多い。

 異性と話していても性を感じることが出来なくなってしまう。


 こんな風に判り合うことは美徳とされる場合が多いが、そこまで良いこととは限らない。

 それに判ってもらおうとする努力は、ひとつの我儘であることも多い。



 そのような理解との戦いの中でエロスを喪失した人々は、常道を捨て、余計な意志と感情のない性具にもたれかかるようになり、恋愛というものを捨てて、単なる性感帯の開発や性的嗜好の追求に向かう場合もある。


 つまり秘密の矛先を変えてしまったのである。


 性の道は、人間が社会生活を維持しながら、秘密裏に常識を捨てることの出来る比較的、手軽な場所なのかもしれない。



 性は現代において、スケベなテーマというよりもお堅いテーマとして語られることも多くなった。


 感じることよりも、理解を求められることのほうが大きくなったのだ。



 だから当作品でいう「閨房」という言葉は、性行為をし終えた男女が、その余韻の中で性にまつわるくだらない身の上話をしている――といった体裁で用いることにする。


 従って語られる話の形式は問わないことにして、虚実綯い交ぜとしてお届けするものとした。

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