40:一座の誘い4(星空の下で)

 ニースとマシューは、ほとんど言葉を交わす事なく、数日を過ごした。ニースは夜もなかなか寝付けず、ベッドの中で眠くなるのを待つ日が続いた。


 微かな月明かりが、カーテンの隙間からこぼれ落ちる。眠れぬまま考え続けていたニースは、焦りを感じて目を開いた。


 ――手紙が来てから、もうすぐ一週間だ。リンドたちが来ちゃう……。


 ニースは気持ちを落ち付けようとベッドを抜け出し、上着とランプを手に部屋を出た。


 日中はポカポカと暖かい春の陽気だが、夜はまだまだ冷える。玄関扉を静かに開けると、冷んやりとした空気が上着越しに感じられ、ニースは小さく、ぷるりと震えた。

 庭では、犬小屋からシェリーが顔を出していた。ニースは人差し指を口に当て、静かにするよう、シェリーに頼んだ。シェリーは心得たとばかりに、わんと……吠えようとしてやめると、尻尾を振って、ニースのそばへとやってきた。

 ニースはシェリーをひと撫でし、庭へ降りると、鳥の巣箱がくくりつけられた大木の下へ、腰を下ろした。夜露に濡れた草はしっとりと冷たく感じられ、寄り添うように伏せたシェリーの温もりが、ニースには心地よかった。


 ランプをそっと木の根元に置くと、シェリーの背を優しく撫でながら、ニースは膝を抱えて空を見上げた。

 空は広く、星は数え切れないほど輝いていた。春の夜空は柔らかな空気を纏い、星々の瞬きも冬の頃より落ち着いて見える。二つある月はどちらも細く小さな三日月で、ほんのりとした月の光と、ゆらゆら揺れる小さなランプの光以外、一人と一匹を照らすものはない。

 ニースの目には、心なしかいつもより星の数が多く見えた。


 ――考えても考えても、答えが出ないなぁ……。


 ため息を吐き、ぼんやりと星空を眺めていたニースは、背後から近付く足音に気が付き、振り向いた。


 ――おじいちゃん……。


 夜闇の中、慣れた足取りで、マシューが湯気の立つマグカップを二つ持ち、歩いていた。マシューは、ニースが外に出たのに気付き、ヤギ乳を温めて持ってきたのだった。


「ニース。眠れないのか」

「うん。おじいちゃんも?」

「ああ。わしもだ」


 マシューはカップを手渡すと、シェリーを挟んでニースの隣へ腰を下ろした。シェリーが尻尾をパタパタ振って、マシューの顔を見上げた。マシューは、シェリーの首すじを優しく撫でた。

 ニースは、温かなカップを両手で包み込むように持った。カップからほかほかと立ち上る湯気をじっと見つめると、ふーっと息を吐いて湯気を飛ばす。

 白い湯気はニースの吐息に乗って、柔らかな春の夜気に紛れて消えた。ニースは、手を伝う温かなカップの温もりに目を細めた。


 少しずつカップに口をつけるニースを見て、マシューは、ふっと笑みを浮かべた。


 ――未来あるこの子を、わしのワガママで縛りつけていてはいかんよなぁ……。


 マシューは目を伏せ、ふぅと息を小さく吐くと、夜空を見上げた。


「なあ、ニース。お前さんは、わしと最初に野宿した晩を覚えているか?」


 マシューは星空を眺めながら、ニースに問いかけた。ニースも、マシューの視線を追って空を見上げた。


「うん。覚えてるよ。あの日の晩も、ぼくは眠れなくて、おじいちゃんに話をねだったんだ」

「ああ、そうだな。あの夜、ニースが初めてわしをと呼んでくれたなぁ」


 マシューは、その時のことを思い出したように、頬をゆるめた。


「わしはな、ニース。お前さんが、どんな道を行こうとも、お前さんのだぞ」


 ニースは目を、パチリとひとつ瞬き、マシューに目を向けた。マシューは、じっと星空を見つめ、話を続けた。


「お前さんがもし残ってくれるなら、これほど嬉しいことはない。リンドたちが帰ってきても、わしの一番大好きな孫はニースだよ。滅多に会わなかったリンドの子より、こうして一緒に暮らしたニースの方が、何倍も大事な孫なんだ」


 マシューは、ふっと笑みをこぼすと、ニースの顔を見た。ニースの黒い肌は夜闇に混ざり見え難かったが、吸い込まれそうな黒い瞳は、星の煌めきのようにキラキラと輝いて見えた。


「もしも、もしもだ、ニース。お前さんが、旅に出ると決めたなら……。お前さんが帰るまで、わしは生きておれんかもしれん。だがそれでもな、たとえどんなに遠く離れていても、もう二度と会えなくても、お前さんは、わしの大切な孫だ。どこかでお前さんが楽しく歌を歌っていてくれるなら、それでいいと、わしは思う」


 マシューは、くしゃっと顔を歪めると、また星空に目を向けた。マシューの目にはうっすらと涙が溜まっていた。

 ニースは、マシューの言葉を噛みしめるように、瞳を閉じた。


 ――おじいちゃんは、こんなにぼくのことを考えてくれていたのに。おじいちゃんが、ぼくを見なくなっちゃうかもなんて。バカだな、ぼくは……。


 ゆっくり目を開けると、ニースは空を見上げた。


 ――ぼくは、どうしたいんだろう。ぼくが本気でしたいことを、ちゃんと伝えなくちゃ。おじいちゃんは、ぼくの大切な家族で、一番の味方なんだから。


 ニースは自分の気持ちを確かめようと、星を見ながら口を開いた。ニースの口からは、言葉ではなく、歌がこぼれていた。


 春の夜空に、歌声が響く。透き通った歌声は、寂しく、切なく、しかし慈しむような暖かさを含んだ歌声だった。

 マシューは驚いたが、ふっと笑みをこぼすと、ヤギ乳をぐいと飲んだ。白い温もりが喉を伝って、腹の底からマシューを温めた。マシューは飲み干したカップを木の根元に置くと、ニースの歌に耳を澄ました。


 ニースは歌い終えると、カップに口を付け、ついと一口飲んだ。温もりを含んだ息を吐くと、ニースの息は白い靄を形作り、すぐに解けて消えた。

 ニースはゆっくり飲み干し、カップを傍らへ置いた。ニースはそのまま俯き、膝を両手でぎゅっと抱え込んだ。


「ねぇ、おじいちゃん。ぼくね、リンドが……お母さんたちが来たら、おじいちゃんを取られちゃいそうで、怖かったんだ」

「……そうか」


 マシューはじっと星空を見つめたまま、静かに答えた。ニースは、若草についた夜露が落ちていくのを見つめながら、話を続けた。


「でも、違ったね。ぼく、間違ってた。お母さんたちがこっちへ来ても、おじいちゃんは、ぼくのおじいちゃんのままだ」


 ニースは力強く言うと、にっこり微笑み、星空を見上げた。


「ぼくね、歌が好きだよ。歌の力なんか関係なしに、歌を歌うのが好きなんだ」


 マシューは、ニースの横顔に優しい眼差しを向けた。


「ああ、そうだな。わしもお前さんの歌が好きだよ」


 ニースは星空を見上げたまま、話を続けた。


「ぼくね、歌の力を取り戻したいのかは、本当のところよく分からないんだ。でも、メグたちと一緒に舞台で歌ったのは、すごく……すごく楽しかった。色んな人や色んな楽器と合わせて歌うのが、こんなに楽しいなんて思わなかった。世界って広いんだって、ぼく思ったんだ」


 ニースの脳裏には、先日の広場での公演がありありと思い出されていた。

 舞台に立つ直前の緊張感。自分の歌声に合わせて舞う、メグの美しい姿。即興で、バイオリンやオルガンと合わせて歌った高揚感。たくさんの拍手を浴びて感じた達成感……。

 ニースは胸に込み上がる想いを掴むように、きゅっと拳を握りしめ、マシューと向き合った。


「おじいちゃん、ごめんなさい。ぼく、おじいちゃんのこと大好きだし、離れたくない。でも、歌をもっと、たくさん歌いたい」


 マシューは、返事をしなかった。ただ、優しく目を細めて、ニースをしっかり見つめていた。ニースの目には、うっすらと涙が滲んでいた。


「もう、二度と、おじいちゃんと会えないのかもしれない。学校での勉強が何年かかるのかわからないし、歌の力を取り戻した後、自分がどうしたいのかもわからない。でも、ぼくはそれでも歌いたい」


 マシューは、ゆっくりと頷くと、ニースの頭を優しく撫でた。ニースの目から、ぽろりと一粒、涙がこぼれた。


「ぼく、父さまに……伯爵さまに剣を向けられて、ずっと怖かった。悲しかった。でも、おじいちゃんと出会って、また歌を好きになって、マーサおばさんやウスコさんや、町のみんなと出会って、もっと歌を好きになった」

「ああ、そうだな」

「そして、メグたちと出会って、もっともっと、歌を好きになった。外の世界には、もっとたくさんの楽しい歌い方がある気がするんだ」


 ニースは、頭を優しく撫でるマシューの手を取ると、マシューの目をじっと見つめた。ニースの目からこぼれた涙が頬を伝って落ち、草の上を跳ねた。


「おじいちゃん。ぼくに歌う楽しさを思い出させてくれて、ありがとう。……ぼく、旅に出るよ」


 ニースは、言い終わると同時に、マシューの胸へ飛び込んだ。ニースは、涙で頬を濡らしながら、マシューへしがみつくと、わっと声をあげて泣いた。

 マシューは、夜闇に溶けてしまいそうなほど黒いニースの髪をひと撫ですると、しっかりとニースの身体を抱きしめ、優しく背を撫でた。シェリーが、さりげなく身体を寄せ、涙をこぼすニースの膝へ顎を乗せた。


 静かな春の夜に、すすり泣く声が響く。涙はニースの目からだけでなく、マシューの目からもこぼれていた。

 空には、まだ昇りきらない細く弧を描く三日月が、二つ並んでいた。寄り添う二人のように並ぶ月の下を、ついと星がひとつ、涙のように流れていった。

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