恋愛する男、結婚する男
山本 風碧
1 七色の光と永遠の約束
照明を抑えた薄暗い店内で、ダイヤモンドが光を七色に分けていく。
わたしは、左手の薬指に嵌められた輝く指輪を半ば呆けて見つめていた。
テーブルの上を見ると、赤い革張りのケースに描かれた有名ブランドのロゴが誇らしげに自己主張をしている。
憧れのフランス製だ。指のサイズを知りたいと言われたときにこんな日が来るのではと期待して待っていたけれども、ようやくやってきたらしい。
「
目線を上げると、涼しい眼差し。目が合うと彼はニコリと笑った。右頬だけにえくぼができる、端正だけどどこか可愛い笑顔。
肩越しに大都会の夜景を背負っても全然負けないような華やかな顔立ちだ。
わたしの自慢の恋人、
三年前、友人の紹介で付き合い始めた、背も高く、高学歴、もちろん給料も高い、女友達がこぞってうらやましがる理想の恋人だ。
彼の腕には、誰もが羨む高級腕時計。ブランド物のスーツをそつなく着こなし、でも嫌味に見えない。
中身だって負けていない。総合商社の若手の出世頭で、すでに管理職に付いている。上質な紙に印刷された名刺を見るたびに、きっとわたしは彼よりも誇りに思っている。
自慢する点を挙げだしたらきりがない――けれど、一つ欠点を上げるとすると。彼の隣に並ぶにはかなりの努力が必要なのだった。
今日のわたし、ちゃんとイケてるかな? 化粧室に行くたびに入念に化粧を直し、服の皺をチェックする。彼の前に戻るときは戦場に向かう心地さえする。
それでも、こんなプレゼントを貰えば、疲れも吹っ飛んでしまう。努力が報われたと嬉しくなる。
ああ、とうとう、ここまでたどり着いた。
わたし、
「でもよかった、加奈子が前の会社、無事に退職できてさ。おれ、奥さんには結婚しても仕事は辞めないで欲しいんだよな。あの会社にいたら、とてもじゃないけど家事と両立できないだろうし」
そんな拓巳の声で、指輪に見とれていたわたしは我に返った。
あれ、わたし、今、はいって、返事した?
あまりに普通に話が進められていることに戸惑う。だけど、口に出ていたのだろう。だって、わたし、すごく嬉しかったから。うん、きっとそう。
「そうだよ、ね」
頷きながらも、彼の言葉を頭のなかで反芻し、ほんの少し引っかかりを覚えた。
仕事は辞めないで欲しい? 家事と両立?
浮かび上がる違和感を打ち消すように、拓巳はシャンパングラスを掲げた。
「退職、おめでとう。お疲れ様。よく頑張りました」
そうなのだ。今日、わたしは会社を退職した。そのお祝いのディナーだったのに、突然のプロポーズで忘れかけていた。
退職祝っていう歳でもないのに何故祝うかというと、転職先がすでに決まっているからだ。
待遇は格段にいい。今までが残業残業で終電に毎日乗るような限りなくブラックな仕事だったから、これで少しは人間らしい生活をできるとホッとしている。
郊外の工場に詰め込まれ、深夜に帰ってきて、休日もほとんどとれなくて。食生活の偏りと、ストレスで体重はずいぶんと落ちてしまった。
あまりに辛くて、結婚して専業主婦になれたらなって思ったことも多かった。
だけど拓巳はそんな申し出をしてくれることはなく、代わりに転職を薦めてくれたのだ。そこに転がり込んできたのが、今回の転職話だった。
竹本さんという元上司が、自分の勤める会社に移らないかと誘ってくれたのだ。
竹本さんはわたしの勤めるプログラミング会社のプロジェクト主任だった人だ。その人が新鋭の通信会社にヘッドハンティングされて退社したのだけれど、人手不足でわたしにも声がかかったのだった。
仕事内容は大規模な顧客管理システムの製作。今までが製造系だったので畑違いではあるけれど、幸いわたしの得意なプログラミング言語を使っていて、システム構造も似ていると聞いた。
会社は資本金から従業員まで、何から何まで今の会社より規模が大きい。オフィス街に自社ビルがあって交通の便も良い。なんといっても残業が少ない。同じような仕事で待遇が上がるならば、この機会を逃すのは惜しいと思った。
ただでさえ給料の上がらない業界なのだ。転職を繰り返して技術を磨く人も珍しくない。そうやってキャリアを積んで管理する側に回るのだ。そうしなければ、いつまでも馬車馬のように働き続けることになるよ。――竹本さんはそう言ってわたしを誘ったのだった。
突然の退職はさすがに揉めに揉めたけれど、うまく人員の補給ができたおかげで、なんとか認めてもらえた。望み通り退職願を提出した一ヶ月後に無事に離職が決まった。
それが今日、6月30日。
長い戦いだったと思う。引き継ぎで有給もほとんど取れなかったから、ひと月だけゆっくり休んで、来月から転職先に就業する予定だった。
「しかも今より給料上がるんだろう? 新居は分譲マンションにしたいしさ、物入りだから助かる」
拓巳は時計の文字盤を専用の布で拭いだした。誰もが知る高級ブランド名の時計のサファイアガラスは、わたしの指のダイヤが霞むくらいに光っている。だというのに拓巳は磨くのをやめない。
その仕草が少しの汚れも許さないと言っているように思えて、わたしは妙に落ち着かなくなった。
いつものことなのに、どうしてか、違和感が抑えられない。
「で、加奈子、来月の連休は空いてる?」
時計を磨き終わった拓巳は、顔を上げるとわたしに尋ねた。来月の連休というと、7月の海の日。わたしは目を見開く。
「従妹の結婚式があるから実家に帰るって……、言ってなかった?」
いや、何度か言ったし、彼も頷いていた気もする。だけど、そうだ。いつも、彼はわたしよりも自分の都合を優先するし、そのたびにわたしはこらえてきたのだった。
拓巳は不満そうにシャンパンを飲み干すと顔を窓の方へとそむけた。
「あー、そういや……。親に紹介しようかと思ってたんだけど。ま、しょうがないか」
口ではそう言いながらも怒っているのが横顔からだだ漏れてきて、わたしは焦る。
「ごめんね。それ以外ならいつでも空けられるよ? 平日でも大丈夫だし」
「……ん、おれがなかなか休み取れないんだよな」
機嫌を直さない拓巳はそのまま食事を始めた。
それ、おれよりも大事か? そう言っているように見えて、うんざりした気持ちが泡のように浮かんでくる。
けれど、無理に押し込める。たまにだけど、拓巳はこんな風に子供っぽい。だけどそこも可愛いところじゃない。こんな小さなことで喧嘩なんかして、せっかくの夜を台無しにしたくない。
わたしは少し悩んで譲歩することにした。
「じゃあ、結婚式、日帰りしようかな。そうしたら連休の半分は空けられるし」
わたしの実家は福岡にある。
東京から飛行機で一時間半、福岡空港から一時間ほど電車に乗らなければならないけれど、日帰りできない距離ではない。
朝一番の飛行機に乗って、最終の飛行機に乗ればいいだけの話。
それは学生時代を福岡で過ごした拓巳もよく知っている。だからこそこんなふうに拗ねるのだろう。
うん、実家の父母には悪いけど、結婚式で会えるんだし、家でゆっくりするのはお正月まで待ってもらおう。
ため息を堪えるわたしの前で、拓巳はぱっと顔を輝かせると、不機嫌さを一掃して「じゃあ、それで調整しておくから」とすぐにスマホでメールを打ちはじめた。
わたしがしたのはちょっとの譲歩だ。けれど、憂鬱な気持ちが浮かび上がるのを抑えきれない。
もう一人のわたしがぬっと顔を出して尋ねる。
――これで、いいの? この人で、本当にいいの?
拓巳の行動に不満を抱えるたびに浮かび上がってきた問い。
だけどわたしは質問をいつも踏み潰してきた。
だって、不満は本当に喧嘩するのも馬鹿らしいような些細な事ばかり。だからいつもと同じように踏み潰す。
そんな時、わたしの耳にはある言葉が響いている。
『加奈子ってさ、なんつうか……外見と中身ギャップひどくねえ?』
何度言われたかわからない。付き合う人全てに言われたかもしれない言葉だ。
わたしは、身長168センチという長身で、目鼻立ちが派手な、少しだけ目立つ女子だった。
そのせいなのか、相手から申し込まれて付き合う事が多かったのだけれど、外見に釣られて寄ってきた男の子たちは、たいていわたしの内面に違和感を抱いて去っていった。
当時付き合っていた友人たちが明るくて、話題の尽きない楽しい人たちばかりだったから、わたしも快活な人間だと思っていたのだ。
だけど、実際のわたしは、そういう可愛らしい女の子たちとは程遠かった。
外を出歩くよりは家に引きこもって本を読んだり映画を見たりするのが好きだし、話をするよりは聞くほうが好きだ。
おしゃれも必要以上に飾ることには興味がなく、サイズがあっていて着心地が良ければそれで満足してしまう
だけど、二度と振られたくない、傷つきたくないという思いから、わたしは内面の改造に挑んだのだ。
ほんの少しだけ無理をして外に出て。ファッション誌を見ておしゃれをして。テレビを見て気の利いた話題を探して。
いつも笑顔を絶やさず、小さなことでは文句を言わず、相手が望む浜田加奈子であろうと努力した。
そのおかげもあって、拓巳のような
ふと頭のなかに一つの声が割り込んだ。
『ねえ、そういうのって、疲れない?』
もう十年以上前のことなのに忘れられないのはなぜだろう。まっすぐにわたしを見つめて、斬りこむように問うてきた男の子の顔。太い眉と印象的な力のある目。
「そういえば、ちょっと、疲れたな……」
気がついた時には口からこぼれ落ちていた言葉に、わたしはぎょっとした。
「疲れた?」
拓巳がスマホから顔を上げて、聞き返す。
ちょっと、わたし、何言ってるの! 口、緩み過ぎでしょ!
「な、なんでもない!」
「おまえなんかおかしいぞ? 疲れたんなら、上、部屋とってるから、もう行くか?」
甘く笑われて胸が跳ねる。プロポーズに合わせて高級レストランでの食事、高級ホテルの部屋という最高のシチュエーションを用意してくれている。
そう思うと、多幸感が胸の隅にあった憂鬱を瞬く間に塗りつぶす。
左手を見下ろして石の輝きを確認する。プラチナの華奢な台に載せられた石は、入れられていたケースと同じくきちんと存在感を振りまいている。大丈夫。大事にされてる、わたし。だから、幸せになれるに決まってる。
そう思い込むと、わたしは小さくうなずいた。
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