第8話 緋色ひとひら その二



 キシキシと廊下の木の板の軋む音がして、暗がりから人が現れた。

 白地に赤い花模様の着物を着た女だ。きれいに黒髪を結って、大人びて見えるが、まだ二十代の初めではないかと思える。


 いや、というより……。


「冴子さん?」


 思わず口走ってから、龍郎は自分の間違いに気づいた。一瞬、似ているような気がしたが、よく見れば違う。冴子は現代風のキュートでコケティッシュな顔立ちだった。だが、今、目の前にいる女はもっと古風で、能面の小面をリアルに人間にしたようだ。美人ではあるものの、なんとなく怖い。


 そもそも、冴子は死んだ。

 こんなところにいるはずがない。


「あっ……すみません。こちらは旅館ですか? 湯巡りをやってるとこなら、入らせてもらいたいんですが」


 龍郎が湯巡りの木の手形を見せると、女はうなずき、「どうぞ」と、ひとこと返した。どうやら温泉はあるらしい。しかし、客商売とは思えない愛想のなさだ。


 招き入れられるままに、龍郎と青蘭は屋内へ入った。


 宿なのか、日帰り温泉なのかもわからないが、建物のなかは無人のように静かだ。ほかに客がいないらしい。女のこの無愛想さと地の利の悪さを思えば、しかたないのかもしれない。


 廊下から中庭が見えた。ガラス張りの戸の外は、竹林にかこまれた椿の庭だ。赤や白やピンクや、いろんな色の花が咲いている。揚羽あげは黄揚羽きあげは、オオムラサキのような珍しい蝶が飛びかい、天国のような風景だ。

 廊下は回廊になっている。

 家屋にかこまれた小さな極楽だ。


「やあ、きれいですねぇ」


 女は黙って頭をさげた。無口な女だ。客あしらいがひどすぎる。


 しかし、回廊から続く奥の戸口から入った温泉は素晴らしかった。黒川温泉の宿は、どこも自然と一体化した美しい景色が売りだが、ここは、とくによくできている。岩場を利用した露天風呂はほのかに白いにごり湯で、赤い椿の花が、ほとり、ほとりと浮かんでいる。


 露天風呂には、ほかに客がいない。

 龍郎と青蘭、二人きりだ。


「こちらをどうぞ」と言って、案内の女は去っていった。


 龍郎たちは女を見送って、その姿が見えなくなるのを待つ。

 そして自分たち以外、誰もいなくなると、昭和風のレトロな板場で、いきなり抱きあう。青蘭は浴衣のすそがめくれあがるほど激しい動作でとびついてきた。


「龍郎さん!」

「青蘭」


 去年の今ごろは自分に同性の恋人ができるなんて、思ってもいなかったが、これはこれで、なかなか便利だ。なぜなら、温泉で同じ男湯に入れてしまう。


 天空の隠れ里のようなこの温泉につかりながら、透きとおる白い肌の青蘭の裸身をながめていると、この世ではないどこかにいるようだ。目の前にいるのは天使なのだ——と、強く思う。


 見とれていると、とうとつに青蘭が、ふふっと笑った。白く半透明に濁った湯のなかに手を入れてくる。するっと指の感触が下腹をなぞったので、龍郎はあわてふためいた。一瞬、おぼれそうになる。ブクブクしていると、くすぐるように青蘭が笑った。


「ね? 龍郎さん。今なら、誰もいないよ?」

「青蘭……」


 二人が同性である利点を最大限に利用して、湯のなかで、くちづけをかわしていたときだ。急に風がざわついた。ぽとぽとと何かが肩や頭を叩く。けっこう痛いので目をあけた。瞬間、まわりじゅうが血の海に見えた。


「わッ!」


 おどろいたものの、よく見ると椿の花だ。赤い花が首ごと大量に落ちている。

 ちょうど散る時期なのだ。風でいっせいに落ちてきただけ。

 儚く美しいのだが、龍郎の実家はもと武家だ。先祖が一人、切腹したという。なので、椿には、あまりいい印象がない。


 ちょっと気分が萎えて、ため息をついた。おとなしく湯につかる。それでも、白濁した湯の下で、ずっと手をにぎりあっていた。指と指をからめたり、手の向きを変えたり、親指の腹で手の甲をなでたり、そんなことをしているだけで幸せな気分になる。


「いい湯だったね。あがろうか?」

「うん」


 露天風呂をあがり、板場に戻った。

 青蘭の全裸は磨かれた大理石の像のように、一分のすきもない。


 でも、この純白の裸身は、アンドロマリウスとの契約が表面上、ほぼ完遂かんすいしている証拠でもある。青蘭がアンドロマリウスに譲り渡したという身体は、どこまでが青蘭のもので、どこからがアンドロマリウスのものなのだろう? そして、全身のすべてをアンドロマリウスに手渡してしまったとき、青蘭はどうなるのだろう?


 少し、不安がよぎる。


(これからは、なるべくアンドロマリウスの力を借りずに悪魔を退治しないとな)


 龍郎はぼんやりしていた。

 ふと我に返り、急いで浴衣を身にまとう。そのとき、ふと、姿見に目が行った。さっきまで入浴していた露天風呂が見えていた。


 しかし、見間違いだろうか?

 どうにも不条理なものが見える。

 ここは男湯ではなかったか? いや、たしかに男湯だ。案内されてきたとき、入り口が二つにわかれていた。


 では、なぜだろう。

 そこにあるはずのないものが見える。

 女がこっちに背をむけ、入湯している。肌の色つやから言って、若い女だ。


 それが非常識にも、長い黒髪を湯にひたしている。そればかりか、女は赤い着物を身につけたままだ。たぶん、緋色の長じゅばんだろう。女が着物の下につける下着のようなものである。


(なんだ……? あの女……)


 女が、ゆっくりと立ちあがった。

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