第6話 ラビリンス その三
このままではアンドロマリウスの弁術に屈してしまう。
これ以上、コイツと話していてはダメだ。
そう思った瞬間、ふと龍郎は思いだした。アンドロマリウスの論理に矛盾があることを。
「……違う。おまえは嘘をついてる。さっき青蘭が言ってた。アスモデウスが堕天したのは、賢者の石を盗んだからだ。悪魔と恋をしたからじゃない」
アンドロマリウスの顔から瞬時に笑みが消える。つかのま無念そうな表情が浮かんだ。が、それもすぐに見えなくなった。
「ふん。まあ、いいさ。機会はまだある。龍郎。覚えておけよ。おまえの正義が青蘭のためになるとはかぎらない。おまえは、いつか必ず、青蘭を傷つける」
言いすてると、アンドロマリウスはきびすを返して部屋から去った。
龍郎も退出した。
ここにあるのは天使の残骸だけだ。
龍郎が今、守らなくてはならないのは青蘭だ。五歳の、子どもの青蘭。なんとしても、火事にあう前に屋敷から脱出させないと。
(あっ、しまったな。アンドロマリウスから聞きだせばよかった。実験で何をしてたのか。あの火事はなぜ起こったのか。あいつの仕業じゃなかったのか)
しかし、もうアンドロマリウスの姿は見えない。
なんだか、さっきとは屋敷のふんいきが変わっている。急速に時間が移ろったようだ。急がないと、そのときが迫っているのかもしれない。
「青蘭。青蘭!」
再度、子ども部屋に行ってみたが、青蘭はいなかった。どこかへ遊びに行ってしまったのだろうか?
こんなことなら、アンドロマリウスに奪われないよう、青蘭を離さなければよかった。
なんだか雲行きが怪しくなってくる。
あんなに晴れていた空が薄暗い。
青蘭を探して走りまわりながら、龍郎は窓の外をながめた。
崖下の海面から、何かがこっちに向かってきている。
(なんだ? あれ?)
海が妙に黒いと思えば、点々とゴミのようなものが浮いている。それが、だんだん、波打ちぎわに打ちよせられてきているのだ。外国から流れよった漂着物だろうか? 案外、魚影だろうか? 魚の大群が海面下を泳いでいるのかもしれない。それにしても魚だとしたら、ものすごい大群だ。
しばしのあいだ、龍郎はそれに釘づけになっていた。なんだか気になってならない。予兆のようなものを本能的に感じる。
(……魚じゃない。あれは——)
やがて、それらが海岸線にたどりつき、上陸してきた。それは魚などではない。もっと禍々しいものだ。
全身を鱗に覆われた、不気味な姿。水かきのある手足。長い尻尾を持ち、カエルのようにピョンピョン跳ねるやつもいる。
冨樫の娘の末期のころ。
あれにとてもよく似ている。
鈴子よりもさらに完全に人間性が失われ、手足のバランスや顔つきも変容していた。ハッキリ言えば、半魚人である。伝説上の化け物にそっくりだ。クトゥルフ神話的に言うなら、インスマス人。
それが海から次々にあがってきて、崖をのぼってくる。この屋敷をめざしているのだ。
(この時間。このタイミング。まさか、そういうことなのか? この屋敷が滅びたのは……)
アンドロマリウスの実験のせいか、人為的な火事のせいだと思っていた。だが、そうではないのかもしれないと、ここに来て新たな可能性を思い知る。
クトゥルフの邪神の襲撃。
そう言えば、痣人神社を襲い、焼きつくしたのも、クトゥルフの邪神だった。
まさにそう考えていた矢先、龍郎は屋敷の上空に燃えさかる火の玉が近づいてくるのを目撃した。
痣人神社を焼いた、あの炎の化身だ。
クトゥグア——
灼熱の炎を噴きだす目玉の集合体。
(屋敷が襲われる! 火事の原因は、アイツだったんだ!)
龍郎はけんめいに青蘭の名を呼びながら、屋敷中をかけまわった。
やがて、ドン——と、激しい衝撃音が
まもなく、きなくさくなる。
どこからか火の手があがった。
「青蘭! 青蘭! どこだッ? 青蘭ァーッ!」
屋敷のいたるところから悲鳴が聞こえてきた。化け物だ、化け物だと叫ぶ声が。
屋敷に半魚人が迫っていた。ビッシリとスキマなく窓に張りついている。窓を押しやぶり、内部に黒い滝のように侵入してくる。
屋敷には大勢の使用人がいた。人間は半魚人に見つかると、よってたかって手足をひっぱられ、八つ裂きにされた。あふれる血で床が真っ赤に染まる。
阿鼻叫喚だ。
まさに、地獄絵図そのもの。
インスマス人の侵攻のなか、炎は勢いを増し、またたくまに屋敷のあちこちに飛び火する。炎じたいが生きているかのようだ。熱風が吹き荒れる。
「青蘭! どこだ? 青蘭! 返事をしてくれ!」
屋敷の人たちの一人ずつも助けたい。だが、この人々を救うことはできない。龍郎は歯をくいしばり、ただひたすらに青蘭の姿を探し求める。
そのうち悲鳴も聞こえなくなった。
みんな、インスマス人に殺されたのだろう。
インスマス人じたいの影も見えなくなってきた。やつらは何かを探しているみたいだったが、炎が苦手なようだ。撤退したか、ヤツらも死んだのかもしれない。
息をするのも苦しいほどの熱気と踊り狂う炎のあいまを縫って、龍郎は子ども部屋をめざす。
たしか、以前、結界のなかで青蘭を見つけたとき、一階の窓ぎわの部屋の近くに倒れていた。今度も、きっと、あそこに……。
オレンジ色の炎に、視界に映るすべてのものが侵食されていく。轟音とともに屋敷が崩れおちる。
そのとき、廊下の端を走る人影を見た。アンドロマリウスだ。遠目に見てもわかるプラチナブロンドの人物を腕にかかえている。自分の恋人を守ろうとしているのだろうか?
悪魔のはずなのに、なんだか彼は人間くさい。必死に恋人を炎からつれだそうとする姿は、妙に同情をそそる。
だが、そんな場合ではない。
龍郎だって、青蘭を助けなければならない。アンドロマリウスたちのことは無視して、青蘭を探す。
「青蘭! 青蘭!」
ガラガラと音を立てて、燃えながら梁が落下してきた。この屋敷はもうおしまいだ。龍郎の身も危ういかもしれない。
ようやく、弱々しい子どもの泣き声を聞いた。龍郎がかけつけると、青蘭が倒れていた。
いつか見たときと同じ。
燃えがらのように全身の焼けただれた青蘭を。
昼間に見た、おどろくような美貌は影も形もない。
龍郎は涙がこぼれてきた。
救いたかったのに、どうやっても運命を変えることができない。けっきょく、こうなってしまう。
龍郎の涙が、青蘭の赤黒く皮膚のめくれあがった頰の上に落ちた。
青蘭は目をあけた。
そして、明朗な声音で宣告した。
「違うよ。これは、過去のことじゃない。僕の記憶のなかだ」
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