第1話 終末の音 その三



 唇をかさねると、しびれるような甘さが脳髄をとろけさせる。からみあう甘美な舌が夢心地に誘う。

 青蘭は龍郎の首に両腕をまわし、愛撫に応えてくる。言葉では伝わらない想いも、そのやわらかな受け応えでなら伝わった。


 かなり長い時間、抱きあっていたと思う。

 ようやく離れると、青蘭は濡れた目で龍郎を見あげていた。


「……大切なのは、おまえだけだよ。あのときだって、もしも、おまえが危険だったなら、決して離れなかった」

「……嘘じゃない?」

「嘘じゃない」


 急に従順になって、青蘭は恥ずかしそうに、うつむく。

 龍郎はその髪をなでた。


「もう帰ろ? な?」

「うん」


 まわりのホストたちがグチる。

「なんだ。痴話喧嘩かぁ。迷惑だなぁ」

「ちぇーッ。青蘭ちゃん、狙ってたのに」

「お持ち帰りしたかった!」


 まあ、文句を言いたくなるのは、いたしかたない。彼らは青蘭を美女だと勘違いしているようだから、なおのこと。


「はいはい。すいません。これで許してやってください。はい、これね。はい、これ」


 龍郎がみんなに札束を二、三個ずつ渡すと、キャリーケースはきれいにカラになった。すっかり軽くなったキャリーケースは店で処分してもらうことにした。

 龍郎は青蘭と二人、店を出る。犬になってくれていた二人が外まで見送ってくれた。


「また来なよ。歓迎するよ」

「青蘭ちゃんになら飼われたいなぁ。わんわん」


 タフだ。

 腹が立たなかったんだろうかと思ってながめていると、二人は笑う。


「もっと嫌な客はいくらでもいるよ。しつっこい、めんどくさい客とか」

「青蘭ちゃん可愛いから、何しても許すよぉ」


 ニカッと笑う彼らに手をふって別れる。まだ腕時計は六時半だ。二時間ほどで五千万を使いきった。


「清美さんには悪いけど、もしも、青蘭と清美さんが同時に助けを必要としてたら、おれは迷わず、おまえを助けに行くよ。青蘭」

「うん」


 薄汚い街路に明かりがともる。

 電飾のけばけばしい光が、赤やピンクや金色に、はきだめを飾る。

 これはこれで美しい。

 悪いところを隠して、精いっぱいおめかしした夜の街。

 にわかに人通りが増してくる路地を、肩を組んで歩いていく。

 龍郎の胸に頭をのせて、幸せそうにすがりつく青蘭は、誰が見ても相思相愛の恋人だろう。これで真実、青蘭の心をつかめたのどうかはわからないが。


 ゴミゴミした通りを歩いていくと、派手な門構えのラブホテルの前に行きついた。青蘭は妖しく誘う目で、龍郎の視線をからめとる。


 動悸が激しくなるのを龍郎は感じた。

 今しかない。今なら青蘭も乗り気だ。

 青蘭の肩を抱く手に、グッと力をこめる。


「せ——」


 青蘭、いいよね?——と言おうとしたその瞬間、二人のすぐそばを何かが走りぬけていった。突風がまきおこり、立っていられない。龍郎は青蘭を抱いて壁に押しつけた。

 とつぜん、右手が痛んだ。風がやんでから見ると、手の甲が切れている。


「いてッ……カマイタチかな?」


 青蘭はグシャグシャになった髪を、あわてて両手でなでつけている。龍郎に見られないように顔をそむけているのは、ひたいにあるケロイドのせいだろうか? 気にしているのだ。

 そんな仕草も、すべてが可愛い。

 愛しさで心臓が止まりそうだ。


「なんだったんだろうな? あれ」

「嫌な感じの風でしたね。ものすごい音だった」


 青蘭は長々とため息を吐きだす。

「なんでかなぁ。龍郎さんと、こうしようとするとジャマが入る感じ」

 言いながら、青蘭は龍郎の胸にすがりついてきた。


「ねえ、龍郎さん」

「うん。何?」

「ほんとに僕が一文無しになっても、ずっとそばにいてくれる?」

「もちろん」

「僕が……ほんとは化け物でも?」

「どんな姿でも、好きだよ」


 もちろん、青蘭の美貌は魅力だ。でも、龍郎が惹かれたのは、そこじゃない。


「じゃあ、僕といっしょに、あの場所に行ってくれる?」


 あの場所……青蘭が子ども時代をすごした屋敷の焼け跡のことか。


 龍郎は力強くうなずく。

「いいよ。行こう」

 青蘭も決意を秘めた目で、龍郎をのぞきこんでくる。


 青蘭がこんなにためらうなんて、いったい、何がその場所にあるのだろうか?

 五歳の子どもにとって両親を亡くした火事の記憶はツライ。その記憶が消えるほどのトラウマを負うのもわかる。

 だが、青蘭のようすを見ていると、それだけが原因ではないような気がする。その場所に行きたくない、もっと深いわけがあるような?


「どこにあるの? その場所」

「薩南諸島から東に小さな名もなき島があって。そこに……」


 南の島か。

 それがただのリゾート地であれば、どんなにか心が弾んだものを。


「もう帰る?」

「うん。龍郎さん、傷の手当てしないと」


 ラブホテルの前で抱きあって、ぼそぼそとしゃべる二人は、たぶん通りすがりの人が見たら、ほんとに入ろうかやめようかと悩むゲイのカップルだ。禁断の道にふみこむべきか迷っている——と思われたことだろう。


 急に恥ずかしくなって、龍郎は急いで、その場を離れた。


 歓楽街の外れまで来たときだ。

 穴抜けに点灯するネオンの看板と看板のあいだの細い路地裏に女が立っていた。フード付きのコートを着て、顔を隠している。コートはボロボロで、胸から下はフリンジのようになっていた。


 そのとき、ヒューッと轟音とともに強い風が吹きぬけた。

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