Scene 62. 任務と、自由。
手すりの向こうの三人が階下に降りて来るために身を翻したのを見て、ヴァースは座っているベンチの後ろにいた人物に声を掛けた。
「ディーリー、この後は部門長会議だけだったな?」
「ええ……」
ディーリーと呼ばれた女性は、腕にはめられているバンドを胸元でかざし、手首を返すように数回振った。手の甲あたりをジッと見ると、再度口を開く。
「緊急の連絡も来ていないようです。会議までは予定は入っていません。」
「そうか……」
ディーリーはヴァースの秘書としてフラーが任命した人物だった。頭の後ろできちんとまとめられた金髪、薄茶の目に、メガネを掛けている。顔を合わせてまだ数日だが、ヴァースを前にして少しも動じず媚びるところがなく、ヴァースは自然と数年前まで側近だった面々を連想した。直ぐに上手くやっていけそうだと安心したものである。
部門長会議は数時間後、特別区画で行われる。ヴァースは数秒考えてから立ち上がって、再度ディーリーに声をかけた。
「俺は先に休憩に入る。君は先に帰っていてくれ。会場に向かう前に一度執務室に寄る。」
「かしこまりました。」
防護部門の事務員用の制服姿のディーリーは答えながら一礼する。ヴァースは今度はその隣に立っていたスポーツウェア姿の男性に右手を差し出して握手を求めた。
「ガーマー殿、案内はここまでで大丈夫だ。急に来てしまったのに、時間を取って頂いて感謝する。」
「と、とんでも御座いません!い、い、いつでもいらしてください!!」
ガーマーと呼ばれた男性はどもりながらも、前マザー・グリーン艦長であり現艦長補佐であるアクレス准将の握手をしっかりと両手で返した。
准将として着任したヴァースにフラーが最初に割り当てた任務はといえば、艦長代理の名目で行う各艦内施設の視察−−−という名の、要するに四年ぶりに戻った艦内の状況把握だった。
とは言っても、かなり前もっての通達無しに前艦長でもあるヴァースの訪問を受け入れられる場所は限られており、殆どの通知先は訪問日の再調整を要求して来た。無論、部門内、部門間での根回しをする為であろう。空挺軍の組織は巨大だ。全て現艦長の意向に沿って事が運んでいるなんて事は有り得ない。万一艦長補佐という立場であるヴァースに醜態を晒せば、それはそのまま艦長に伝わるのだから、各部署の担当は今頃体裁を整えようと躍起になっているに違いない。
もし自分がまだ艦長の立場であったなら、ここで強行的に踏み込んでそれを暴いてやってもいいとも思っただろうが、実際に艦長であった時はそんな事をする暇は無かったし、今はあくまで補佐という立場だ。自分の権威を主張するつもりもなかった。それに、追い詰められて行動を起こしているなら、その尻尾が出る機会も増えるはず。必要となればそこを拾えばいい。と、言っても組織全体の混乱を招くのは得策ではないし、今の自分の目的は改革では無い。無理を通す必要は全くなかった。
時間をかけたいだけかけるがいいさ。そんな風に考えながら、各施設の受け入れ希望日までのんびり待つことにしている。
そんな訳で、あたふたしながらも訪問日の再調整無しで視察を受け入れられた施設は限られていた。その一つが、ヴァースが艦長を退いて不在の間に完成したこの真新しいジムだ。大掛かりな建設計画で、ヴァースが艦長に就任する前からプロジェクトは進んでいた。主要な目的は艦内の住人達の健康維持で、職位に関わらず誰でも使用できる。勿論、そこで得られるデータはプロジェクトを共同で仕切った研究部門の格好の調査対象だ。空士達のパフォーマンス向上の為の、である。
ガーマーはジムの総合責任者を含めた小さな会談の後、現場の案内を任された人物だ。空士では無く、地上からジムの監督として直接雇用された人物である。これで急に任された大役から解放されると知ってか、幾分ホッとしている様子だ。ヴァースは一通り施設を回った後、搭載されている技術の品質確認を兼ねて、シュミレーター相手の腕試しをしていたところだったのだ。
艦長であった頃はこんな気安い振る舞いはした事が無かったな、と思いながら、准将という今の立場の気楽さをしみじみと感じていた。
「先ほどの会談で統括が言っていた懸念事項は私からも関連部門に伝えておこう。我が空士達の健康、ひいては軍にとって非常に重要な施設だ。これからも宜しく頼む。」
「はいっ!本日はご案内出来て光栄でした!!」
大役を負担に感じていたことは明らかではあったが、ガーマーの返した言葉には真摯さが溢れている。笑顔と握手を交わしてから、ヴァースは駆け寄って来る元教え子達に向き直った。どうせいずれは忙しくなる。今のうちに自由をたっぷり味わっておこう、と決意しながら。
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