第五章

第五章

蘭はぱくちゃんとマーシーがレッスンしているのを眺めながら、マーシーの誰に対しても態度を変えずに話せるという能力にすっかり感動してしまった。あのおじいさんにも、この頭の悪そうな外国人にも、たのしいレッスンを提供出来るというのであれば、もしかしたら、あいつに何とかして自分の思いを伝えてくれるかもしれない!

蘭の頭の中でぼやぼやしていた物が、少しずつはっきりしてくる。もう自分が伝えようとしても、青柳教授を始め、ほかの人たちはただのうるさい男としか自分をみないだろうから。だって、もう製鉄所にはいけないのだから。でも、この思いはどうしても伝えたかった。其れは自分だけではないと、蘭は勝手に思っている。由紀子さんだってそうだろうし、風来坊の杉ちゃんだってきっと同じ気持だ。だから、それを伝えてもらわなければ!奴のしていることは絶対にまちがっている。人間は、何があってもそれに立ち向かうように生きていかなければダメだと思う。諦めてはいけない。打てる手立てがあれば、どんな事でも、たとえそれが高額な費用が必要だとしても、何でもする。それが、人間という物である。

蘭はそう思っていた。それが一番だと。

だから言ってもらうんだ。お前はまちがえている。なんでも手立てがあったら、何でもしなければならない。死を待つような生き方は、人間のすることではない。人間は、与えられた命を全うするように生きなくちゃ。そう伝えてもらうんだ。

そんな思いが頭の中をぐるぐると回った。

一方そのころ、製鉄所では。蘭がそんな思いをめぐらせているとは、ぜんぜん知らない杉三たちが、いつも通り、水穂の世話をしていた。

杉三が、食堂でお皿を洗っていると、声がした。

「こんにちは。」

「あれ、誰だろ。」

丁度、庭を掃除していた由紀子は、急いで箒を掃除用具入れに入れて、すぐに玄関に向かっていった。玄関にいたのは、天童先生だ。

「こんにちは。みんな元気してる?」

そういう言い方をされると、なぜかありがたく感じるのである。水穂さんだけではなく、由紀子や杉ちゃんなど、看病している人たちも疲れている事を知っているという事だ。

「ええ、おかげさまで。大丈夫です。」

「そう、よかったわ。水穂さんはどうしている?」

由紀子が答えると、天童先生は聞いた。

「はい、今のところ、眠っていますけど。」

「そっか。ちょっと講演会があってね、市民会館まで行ってきたんだけど、心配になったので寄ってみたのよ。ちょっと上がってもいいかしら?」

「はい、勿論です。どうぞいらしてください。」

由紀子は天童先生を四畳半へ案内した。丁度皿を洗い終わった杉三と合流した。天童先生は、廊下を歩いている間、最近の様子はどうかなど、これまでの事を聞きたがった。由紀子は、比較的安定していると答えたが、杉三の寝てばっかりで、ちょっと外へ出てもらえんだろうかという方が、答えが近いと思われた。

「水穂さん天童先生がみえたわよ。頑張って起きて。」

と、由紀子がそういってふすまを開ける。同時に聞こえてきたのは返答ではなくて、弱弱しく咳き込んでいる声であった。

「大丈夫?」

そういってみたが、水穂は答えない。ただ弱弱しく咳き込んでいるだけである。

「水穂さん。」

呼びかけても駄目であった。

「あーあ、だめだこりゃ。また出すもんを詰まらせて綺麗に咳き込んでら。これではまずいよ。僕、痰取り機を出してくるよ。」

杉ちゃんが、そういって、枕元においてあった、痰取り機の箱を取り出そうとするが、

「お願い、それだけはやめて!」

と由紀子は言った。だけど、こうしなきゃ出すもんは取り出せないぞと杉三はいうのだが、痰取り機を使うのは、可哀そうだと由紀子は反対した。

「まあそうね。痰取り機は本人も苦しいからね。意識が混濁した人でさえも、痰取り機をみせると嫌がるのよ。もうちょっと、楽になれる道具を発明してもらえないかと思うわよ。」

天童先生が、ヨイショと水穂を抱きかかえるようにして起き上がらせ、静かにその背中をなで始めた。

「お、出た出た、天童先生のシャクティパット。多分、人が見ていたら、困ると思うから、ちょっとお外へ出たほうがいいな。」

と、杉三が言ったが、由紀子はそばにいてやりたかった。天童先生はそんな事は気にしなくていいといった。なので杉三たちはその場に残った。

「はいはいはい、一度に全部吐き出そうとしないでゆっくり吐き出してごらん。そうよ、ゆっくり吐き出してね。そうそう、上手よ。」

まるで、子どもをおだてる様に、天童先生は咳き込む水穂にそういうのだった。水穂も、天童先生に背中をなでて貰って、やっと楽になってくれたのだろうか。苦しそうな表情が次第に和らいできた。

天童先生が、タオルを水穂の口にあてがうと、水穂は三度咳き込んだ。これによって、やっと、杉三たちが期待していた中身が、顔を出してくれたのである。

「よし、上手くいったぜ。シャクティパットは大成功だよ。これで詰まった物は全部取れた。」

「そうねえ。」

杉三がそういうと、天童先生は、ちょっと不安そうに言った。

「だいぶ弱っちゃったのかしら。かなり疲れている様だわ。もうちょっと、ゆっくり出来る環境があればいいのだけど。」

天童先生は由紀子にちょっと手伝ってくれという。由紀子と天童先生は、二人で水穂さんの体を支えて、そっと布団に寝かせてやった。

「そんな場所あるかよ。こいつは、何処へ行ったって、良い顔される身分じゃないしね。病院へ連れて行っても、汚い部落からきた奴が又来たぞとか言って、問題になるんじゃないの。」

「そうね。環境を変えれば少し楽になるかなと思われる所も、彼にはないという事だものね。」

「そうそう。市役所や病院はその典型、言ってみれば大敵。」

杉ちゃんと天童先生はそんな事を言っている。

「私、出来る限りこっちに来るようにするわ。水穂さんの事を癒してあげられるように。」

天童先生は、そんな事を言い始めた。由紀子は、そんなこと、と耳を疑った。

「出来る限りってどれくらいだ?」

杉ちゃんが聞く。

「ええ。今は自宅でヒーリングサロンをしているから、それが終わり次第こっちへ来るわ。」

と、天童先生がいうのだから、水穂さんかなり悪くなってしまったのだろうかと由紀子は思った。悪くなったという現象はこれまでも何度も目撃しているのに、どうしてなのだろう、悲しい気持が増大してきてしまうのだった。

「由紀子さんどうしたの?」

杉ちゃんが又聞く。

「そんなに悲しそうな顔して。」

「う、ううん。何でもない。あたしも、天童先生が来てくださるのならお手伝いしますから。も、もうちょっと、もうちょっと強くならなきゃね。」

由紀子は、急いでそういうが、その裏では悲しい気持であることを、杉ちゃんに知られてしまったのではないかと不安になるのであった。顔は笑っていたけど、心はじめじめとした不安だったのである。

蘭は、ぱくちゃんを自宅兼店舗まで送り届けてもらうと、どこにもより道しないで、すぐに自宅に帰った。

「あらおかえり蘭。ピアノレッスンどうだったの?たのしかったでしょ?」

玄関を掃除しながら、アリスがにこやかに蘭を向かえたが、

「別に普通。」

としか、蘭は答えなかった。

「ちょっと、蘭。何もしなかった訳ではないでしょう?なにか弾いてきたんでしょう?」

アリスはそういうが、蘭は答える気にもならず、すぐに部屋にはいってしまった。

それでは、と、蘭はどうやって、水穂の事を伝えようかと考える。まずはじめにマーシーに水穂の事をどうやって伝えようという事を考えた。マーシーは、水穂の事を覚えているだろうか。覚えていたら、そこから、持っていけばいい。もし覚えてなかったら、それではどうしようか。水穂とマーシーが、関わっていたかをまず考えてみる。

たしかに、マーシーと水穂は同じ組であった。でも、二人が仲が良かったか。

ただ、蘭が覚えている限りでは、マーシーと水穂は、接点があったかどうかは全く不詳であるという事もたしかだった。でも、あれだけの美形男子だったんだから、マーシーも水穂の事は知っている筈だ。あの、周郎と言われていた水穂と言えば、もしかしたら思い出してくれるかもしれない。

そこから、話を切り出すことにした。そして、要点を切り出すために、急いでノートをだして、水穂が抱えている病名の事、現状の事、それらをすべて書き出す。最後の欄に、水穂にどうしても良くなってほしい、病気を治してほしいという事を書く。

「お願いだ。どうか、これらを、すぐに伝えてくれ、頼む!」

と、蘭はノートに向かって懇願するのだった。これを伝えてくれれば水穂だって、よくなろうという気持になってくれて、治療を受けようという気になってくれるだろう。それを告げるために、蘭は、何でもしよう、どんな手立ても使おうという気になった。それでは、と、蘭は、スマートフォンをとった。多分今の時間なら、昼飯時で、大体の者は、必ず家にいる時間だというのもわかった。それでは、と、蘭は、マーシーの電話番号をダイヤルした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る