05 レプリカ

 背の低い雑居ビルが立ち並ぶ猥雑なエリアだった。


 築四十年は超えているであろう古いビルに挟まれているせいで、細い道路には西からの茜色も届かず薄暗い。かすれた路面標示や白線は、地の底から溢れ出してきた夜に溺れていた。潰れた吸殻や吐き出されたガムが貼り付いたアスファルトは、この辺りの治安の悪さを物語っているようだ。


 そんな夕暮れ時。

 三階建ての古いビルの前に路駐された乗用車のバンパーを背にして隠れているいしたきけいいちは、想定外の状況を目の当たりにして思わず声を上げそうになっていた。


「(オイオイオイオイ! ふざけんなよクソッタレ、こんなの想定外だ! 俺に何とかできる範囲を遥かに超えてるだろうがっ!!)」


 誘拐。

 現実味が薄過ぎて、脳が理解を拒絶している。


 だが、顔面を蒼白にした黒髪ショートカットの少女の態度を見るに聞き間違いではないのだろう。目元に浮かぶのは大粒の涙。華奢な体を必死に振り回すも、腕を掴むスーツの男は意にも解さない。単純な腕力の違いに絶望したのか、縁なし眼鏡を掛けた顔には恐怖の色が広がっていく。


『えーと……さかいそらちゃんだっけ、この子』


 スーツを着た若い男が首に手を当てて、困り顔を浮かべた。彼の正面では、憮然とした面持ちのしずが腕を組んで視線を逸らしている。


『静菜ちゃんもさ、何も連れてくる事なかったじゃん。そりゃ一方的に絡んできたのは空ちゃんだけど、無視すれば良かったでしょ。腹が立ったにしても誘拐なんてリスクの高い事をしなくても……』

『別に良いじゃない。どうしようと私の勝手でしょ?』

『ふーん』


 興味なさげに呟いた男は、境目空と呼ばれた少女の腕を掴んだまま、バンと勢い良く後部座席の扉を閉めた。


『ならこっからは全て静菜ちゃんの自己責任でやってね。この件で学校とか警察と揉めたりしても庇えないから。何かの拍子にウチらとの繋がりが漏れたら、相応の覚悟をしてもらう事になるよ』

『脅してるつもり? 大丈夫よ、上手くやるから』

『ちなみに、空ちゃんをどうするつもりなの?』

『どうする、ねぇ』


 古い三階建てのビルを見上げた絵野は、唇の端を邪悪に歪めた。


『待機してる男共の相手をさせようと思ってね。みんな好きでしょ、女子高生』

『へぇ、静菜ちゃんも悪党だね』

『護衛って言って組織が押し付けてきた男共が五月蠅うるさいのよ。少しはガス抜きをしてあげないと背中を刺されそうで怖いの』

『なら、普段は静菜ちゃんが相手を?』

『冗談でもやめて。怒るわよ』


 スーツを着た男性は観念したみたいにヒラヒラと手を振った。


『……こんなの、絶対に間違っています』


 顔を伏せたまま、華奢な少女が震える声で告げた。


『私、知ってるんです……貴女達が変なクスリを生徒に配ってる連中の親玉だって事を。そのせいで私の友達は……っ! 許せない、絶対に……友達に、みんなに謝って、その罪を償い終わるまでは!!』

『大層な事を言うじゃない、まるで正義のヒーローね。その心意気だけは買ってあげる——でもっ』

『きゃっ!!』


 掃き溜めでも見たみたいに不快に眉を曇らせた絵野が、声を荒げた境目の肩を掴んでセダンに叩き付ける。その場にうずくまった華奢な少女を、錆びた瞳で冬の雨よりも冷たく見下ろした。


『正義と理想だけじゃ、どうしようもないのよ……この腐った世界は。正論を言っても負けるし、理想が綺麗でも成功するとは限らない。無意味なのよ、何をしたって。力がなければ、世界にとっての「何者」かにならなければ、絶対に目的は果たせない。それとも何? 貴女はこの最悪な状況をひっくり返せるだけの力があるって言うの?』

青い絶望ブルー・アンハッピー


 短く。

 そう、告げた。


『……呆れた、最後に縋るのが噂話なんて。信じれば願いが叶う程に世の中は甘くないの。存在するかも分からない奴に助けを求めるよりも、やるべき事があるんじゃない?』

青い絶望ブルー・アンハッピーは実在します。は、貴女達のような悪党を絶対に許しませんから』

『話にならないわ』


 興味を失ったおもちゃを捨てるよりもあっさりと、絵野はアスファルトにうずくまる境目空から視線を外した。


『だったら教えてあげる、「何者」になれなかった貴女の無力さを。その生意気な口から命乞いの言葉が出るまでね。果ての見えない空に手を伸ばす事がどれだけ虚しくて、愚かな行為なのか、後悔しながら理解すればいいわ』


 そう吐き捨てると、絵野はスマホを取り出して誰かに短く電話を掛けた。途端、ビルの中から複数の足音や話し声が聞こえ始める。建物内で待機していた仲間が外へと向かって来ているのだろう。


「(このまま隠れていれば、やり過ごせるか?)」


 ふと、脳裏を過ぎる可能性。

 辺りは薄暗くて、ライトでも浴びせられなければ見つかる事はない。そもそも誰にも気付かれていないのだ。物音を立てずにじっとしていれば、このまま何事もなくやり過ごせる。


 頭上から差し込む一筋の光明を受けて、安堵感が全身に広がっていくのを感じる。


 でも。

 だったら、どうして。

 窒息しそうな苦しさが、胸を締め付けているのだろうか。


「(悪いかよ、賢明な判断をしてるだけじゃねぇか。そもそも俺が出て行った所で何にもならねぇよ。怪我人が一人増えるだけだ!)」


 現実は無情だ。

 小説や漫画のヒーローみたいに、大勢の敵を相手に大立ち回りを演じられる訳でもない。状況を打破できる界力術が使える訳でもないし、都合良く隠された力が覚醒する事もない。


 根性論や精神論で、人は救えない。


 自分にできるのは、『耳』と『目』を使って情報を集めることだけ。そんなインチキ探偵に、一体何ができるというのだ?


「(クソ、どうして俺が罪悪感に苦しまなきゃいけねぇんだよ! 責任を感じる必要はねぇってのにっ!!)」


 ギチギチと、嵐の中で軋む船のマストと同じく理性に圧が掛かる。


 ――この世界は理不尽だ。でも、空っぽじゃない。


 それは、記憶の中の声。

 燃えるように真っ赤な『彼女』から聞いた数少ない言葉の一つ。


 そして、いつも折れそうになる心を支えてくれる言葉。


 ――逃げ出す事は否定しねぇよ。その決断に胸を張れるなら、全力でやり遂げるべきだ。うるせぇ周りの連中も法律も無視しちまえ。テメェが心の底から正しいと判断した事が批判されるなら、そん時は世界の方が間違っているのさ。


 気に入らない世界なら変えてしまえる『本物』らしい言葉。『偽物』には——彼女の背中を追い掛け続ける半端者には当て嵌まらない常識だ。


 だけど。

 そう理解しながらも、憧れてしまった。


 生まれ持った器と、手に入れたい理想に差があるチグハグな在り方。この胸を締め付ける罪悪感こそ、届きもしないと知りながら、それでも空に手を伸ばし続けてきた弊害なのかもしれない。


 歯軋りしながら、石瀧は背にしている乗用車から顔を出した。


 ビルの前に停まった黒塗りのセダン。その隣で、スーツの男性としずに挟まれて尻餅を付いているさかいそら。辺りに人影はなかった。街灯が少ないため、夜目が利かなければ遠くまで見通せないはずだ。


「(……助け出す事は、不可能じゃねぇ)」


 身体強化マスクルで『視力』を強化できるため薄暗いのは問題ない。むしろ姿を隠してくれるため好条件だ。しずもスーツの男も完全に油断し切っているため、不意打ちでさかいそらを抱えて走り去れば対応されない可能性が高い。ここは商業地区マーケットの古い雑居ビル街であり、細い路地を使えば車での追跡は簡単に振り切れる。


 どちらにせよ、あまり時間は残されていない。

 ビルの中から聞こえる話し声と足音が大きくなってきている。あと十秒もすれば数人の男が出てくるはずだ。そうなれば可能性の細い糸は完全に切れてしまう。


「(なるほど、確かに俺は『偽物』だ)」


 口許が小さく緩む。

 それは呆れから湧き上がる失笑ではなく、全身を駆け巡る炎にも似た興奮が溢れ出した闘争者の笑み。


「(口だけは達者で、理想だけは高いくせに、肝心な時は冷静で賢明? ふざけんな、逃げてんじゃねぇよクソッタレ! 中途半端である事を許容するな!! 前に進んでいる振りをして満足するな!! それじゃあ何時いつまで経っても変われねぇままだろうがっ!!)」

 

 積み上げてきたモノを信じろ。

 手に入れたモノを数えろ。

 自分自身の価値を正確に見積れ。


 蔑むべき『偽物』でしかない自らを受け入れろ。


 ここで動けない程度の憧れなら、逃げ出すような理想なら、さっさと捨ててしまえ。そんな重りにしかならない想いは必要ない。翼がなくて、飛べなくて、空に届かないというのなら、遙か遠くのいただきまで二本の足で歩いていくしかないのだから。


「(ちっぽけな一歩かもしれねぇ……『あの人』の歩幅と比べれば誤差にすらならねぇってのは分かってる。だけど、俺にとっては確かな一歩だ――『偽物』が『本物』に近づくための!)」


 深呼吸を一回。

 身体強化マスクルを再発動する。眉間の奥にあるすいたいに意識を集中させて、全身を循環する生命力マナの量を増加させる。総合的な運動性能の底上げ。『聴力』と『視力』以外の強化は得意ではないため、全開の状態は持って数十秒程度だろう。


 だけど、それで充分だ。


 強く、拳を握る。

 全身から溢れ出した青い界力光ラクスが、激しく夜闇を遠ざけた。


「……この世界は理不尽だ。でも、空っぽじゃない」


 助ける。

 救ってみせる。


 まだ本物に届かなくてもいい、偽物のままでもいい。『あの人』が立っていた高みは遠くて、全く手が届いていない自分が戦場に立つ資格なんてないのかもしれない。観客が舞台に上がる必要はないみたいに、世界にとって『何者』でもない自分は大人しく引っ込んでいるべきなのかもしれない。


 だけど、それでも、許されるはずなのだ。

 この『憧れ』という感情を、誰かを助けるために立ち上がる『理由』にするくらいは。


贋作レプリカくらいにはなりたいんだよ、俺だってなあっ!!」

 

 勢い良く立ち上がり、何年も整備されていないアスファルトの表面を蹴る。青い燐光を水飛沫みたいに撒き散らし、放たれた矢のように真っ直ぐ疾走した。

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