虹とトライフル

江山菰

虹を見る

六華ゆきはベッドサイドの箱から二枚ティッシュを掴み出し、大量の鼻水をかんだ。

 

「あ~、そろそろ熱が下がりそうな感じがするんだけど」


 膿の色の混じる鼻水に苦笑しながら、ティッシュを丸めてダストボックスへぽいと投げ入れる。

 目元の桜色。そして何度も洟をかんで、赤くなった鼻。

 どう見ても解熱直前の、一番体力を消耗している時期の風邪っぴきだった。


「で、つなぐ、元気?」


 結婚を視野にいれた同棲中の繋は、二週間前、何の前触れもなく新居へ戻らなくなってしまった。六華か、六華と親しい連中からの連絡だと思われれば電話にも出ない。



「まあ普通って感じ。早く出てってくんないかなー、兄貴。すんげー迷惑なんだけど」


 理佳りかは、見舞いに持ってきたプリンを一つ、ベッドの六華に渡した。

 もう一つのパッケージをぺりりと開けて蓋のフィルムを舐めながら心底迷惑そうな口調で答える。

  離婚してそれぞれ別の家庭を構えた両親のところにはさすがに行けず、繋の行き先は妹の理佳のところしかない。

 理佳にすれば、兄は邪魔者だ。最近できたばかりの彼氏との逢瀬も、兄がいるといろいろと不都合でしかたがない。

 六華は食欲のわかない胃にプリンを一匙一匙流し込みながら提案してみた。


「繋から家賃とったら?」


「家賃くれたって願い下げ。あいつほんと鬱陶しいんだよー。はやく六華っちのとこに帰れって言ってもだんまりだしさ」


 繋はあまり自分の感情をあれこれ説明せずにおとなしく他人の意見に従うタイプだ。

 対照的に、妹の理佳はしゃきしゃきとした明るい娘で、六華とも物おじせず喋った。だからこうやって、風邪を引いて一人で寝込んでいれば見舞いに来るし、兄の情報を流しに来てくれる。


「……結婚する気はないって気はないって、今からでもそう言ってくれればいいのに」


「言ってくれればって……」


「いつになっても本音言ってくれないのは地味に悲しいんだよ」


 熱のあるとろんとした目つきで、六華は掛布団の皺を眺めていた。


「しかたないよね……私ばっかりが押してばっかりでさ……強引で申し訳ないなってちょっと思ってたし」


「申し訳なくないって! こんくらい押さないとあいつほっといたら死ぬまで結婚できないよ! なに六華っちまで弱気になってんの?」


 理佳は兄嫁候補の寝ている布団を軽く叩いた。

 六華はこんな体調を押して髪を梳き、さすがにメイクまではしていないが眉毛を整えている。

 婚約者がいつ帰ってきても可愛く見られたいのだろう。

 生活の端々にあるオンナオンナしたところが繋に窮屈さを感じさせているとは六華は気付かない。

 理佳も、どう見ても高嶺の花である六華に歩み寄れない兄が理解できなかった。

 

「…………ほんと、うちの兄貴があんなやつで、ごめんね」


「理佳ちゃんは謝ることないよ」


「ほんとにあいつのどこがいいんだか」


 六華は、叔父の紹介で繋と知り合った。彼は叔父の部下だった。

 初めて叔父に繋を紹介された日のことだ。

 六華は約束の時刻に5分ほど早く、叔父から指定された喫茶店へやってきた。ドアに手をかけようとして、彼女は道端でぼんやり空を見ているくたびれたスーツ姿の男に目を留めた。


――何見てるんだろう、この人


 何となく視線を追ってみると、ビルの隙間の狭い空に、消えかけた虹があった。


 その一瞬、六華は雑踏のざわめきが消えたように思った。


――虹見るのって何年振りかな


 空に一刷毛塗られた弧には誰も気付いていない。

 その男と自分だけが気付いて、この光の魔法を眺めている。

 六華は小さな幸福を共有した彼に温かな親しみを覚えた。

 

 ややあって、虹は消えていき、向こうに叔父の姿が見えた。夢から醒めたように六華は自分の置かれた状況を思いだし、男を少し名残惜しく眺めた後喫茶店に入った。

 遅れてごめん、と言いながら叔父がまるで連行するように腕を掴んで連れてきたのは、その虹の男だった。

 六華は開口一番、浮き立つ口調でこう言った。


「虹、きれいでしたね」


 それが、独りで空を眺めていたつもりの繋にあまりいい印象を与えなかったことにも気づかずに。

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