第53話「まったく、艦長。貴方はジジイ使いが荒い」

「気分はどうだ。ユキ・シデン中尉?」


 懲罰を終えたユキを出迎えたのは、意外にも彼女にその懲罰を命じたタイラーだった。ユキはゆっくりと目を開けると、その焦点が定まらない虚ろな目で辺りを見渡し、ソレがようやく終わったのだという事を自覚した。


 アレからのユキの修行は過酷を通り越し、最早何が何だか彼女自身にも分からないものになっていた。


 ただ、確かなのはあの一度目の『千日回峰行』を行っている時、ユキは一度命をVR上で落としている。


 山中で熊と遭遇し、その圧倒的な存在に、自然の強大さを自覚しながらじりじりとその瞳に目を合わせながら後退している時、運悪く足を踏み外し断崖から滑落したのだ。


 即死したのは幸いだった。その熊は滑落したユキの死体を貪っていた。


 次に目覚めた時、ユキは最初の本堂にいた。全てやり直しになったのである。


 これほどの業があろうかとユキは思う。そこでユキはVR僧侶に直談判し、より厳しい修行を自分に与えてくれるようにと懇願した。その為に本堂を飛び出し、その本堂前の石畳に裸足で座禅を組み三日三晩寝ず、食わず、動かず、真言を唱え続けさえした。


 この頃になると、ユキは一人の僧として完全に出来上がっていたのである。


 ユキの熱意に根負けしたVR疑似人格の僧侶が、彼女を無理やり居室に上げ、畳みの上に上げてなお彼女は真言を唱える事を止めなかった。せっかくやり直しによって回復した彼女の体力がその行為によって既にすり減っていた。


 そこからである。彼女は驚くほど速やかに、そして自然にその修行を黙々とこなした。忠実に再現された本職の僧侶のコピーであるVR疑似僧侶を唸らす程である。


 そして宇宙歴3502年1月17日1000時現在。彼女の懲罰の全行程は完了し、その過酷すぎる時間圧縮の医療的なケアも終わって、ようやく彼女は現実に意識を取り戻したのである。


 ユキは二度三度と首を振り、ようやくタイラーへと視線を合わせた。


 修行中栄養失調でボロボロになったはずのそのオレンジ色に光沢を放つ髪も、健康的な爪も、痩せ細った筈の身体さえも全て元通りである。


「体が、軽い」


 自身の手を何度か握って開いてを繰り返し、彼女が最初に漏らした感想である。


「よくやったユキ・シデン。正直、途中でリタイヤするものだと考えていた」


 言いながら、タイラーは自身の軍服のポケットから、大尉の階級章を取り出してユキに握らせた。


「今この瞬間から貴様を大尉に任命する。以降はこの経験を忘れず、恥を忘れず、慎みを持て。私は何も貴様がクロウ少尉と交際する事を反対している訳ではない」


 ユキは、それを見て戸惑う。それを受け取る資格が自分にあるだろうかと。


「艦長、私は懲罰でこの修行を受けた身です。これを受け取る訳にはいきません」


「ユキ『大尉』教えてやる。有史以来この『千日回峰行』に挑んだものは数知れず。だがそれを成し遂げた者は、宇宙歴3502年現在たったの5人しかいない。無論これはVRであるので誰にも感知されない。だが私とこのジェームス医師は知っている。貴様は間違いなくその6人目だ。この名誉を私はこうして『形』でたたえる事しか出来ない事を残念に思っている。そして貴様のような部下を持ったことを誇りに思う。昇進を拒む事は許さん。無論下艦する事もだ」


 言われて、ユキは自分の手のひらに握られた大尉の階級章をしばし手の平の上でじっと眺め、そして抱きしめた。


「あ、りがと、うございますっ!!」


 ユキの目から涙が自然と溢れ出た。まるで生まれたての子供のように止めどなく。


 タイラーはその肩を抱きしめて、その仮面の下で涙した。誰が何と言おうと娘の偉業を喜ばぬ親など居ないと思いながら。


 拘束衣を解かれ、あらかじめミーチャの手によって用意されていた常備服に袖を通してユキは一度振り返り、タイラーとジェームスに敬礼して懲罰房を去っていった。


「まったく、艦長。貴方はジジイ使いが荒い。もう少し労って欲しいものですな」


 その背中が完全に扉の向こうに消えたところで、ジェームスはタイラーに小言を漏らした。


 無理もない事だった。ジェームスはこの数日この懲罰房と隣の尋問室を行き来し、捕虜の尋問のためのVRも行っていたのだから。


「すまないジェームス先生。これは私からの気持ちだ。とりあえず今はコレで、後で私の秘蔵のボトルも一本医務室に持っていく。夜にでもつまみを用意するから、一杯洒落込もう」


 言いながら、タイラーは自身の軍服のポケットから金属製のスキットルに入った秘蔵の酒をジェームスに渡した。


 乗艦している時、オーデルも散々に文句を言っていたが、この『つくば』はその乗組員のほとんどが未成年であるため、酒は禁制であり貴重品である。


 ジェームスなど、どうしても我慢できなくなった時などは、消毒用アルコールを希釈して飲む程である。それほどの貴重品なのである。


「ははっ! ありがたい! 後で月に繰り出して何本か調達してこようと思っていた所だ!!」


「外出した時に良さそうなのを何十本か買い込んである。子供たちの目を盗んで艦長室へ来てくれ」


 こうして、タイラーカフェにはこっそりと、成人向けのタイラーバーがオープンするのである。



 クロウとミツキがパイロットスーツに着替え終わり、ブリーフィングルームに戻った所で、続々と他の航空隊員もブリーフィングルームに集まってきていた。


「あれ? 皆も呼ばれていたのか?」


 その面々を見たクロウは、驚いて思わず感想を漏らしていた。てっきり自分とミツキだけが呼ばれていたと思っていたのだ。


「ああ、どうやら、航空隊は個別に呼ばれたようだね。どうやら全艦通信を使いたくなかったらしい。デックスの量産機の事なら知っているのだけど、何かあるのだろうね。俺達の乗っていたデックスの改良が終わったのかな? でも流石にそれにしては早すぎる」


 そう言いながら、ケルッコがクロウの肩を叩いて男子更衣室に入っていく。


「まあ、私達もどのみち呼ばれなければVR訓練室で訓練する以外に無かったし、刺激にはなるわ」


「クロウちょっと待ってて、私達もすぐ行く」


 トニアとアザレアも、クロウに声を掛けながら女子更衣室に消えていく。


「ま、そういうこった。あと、見ろよ出所開けの奴を連れて来たぞ。しかも階級が大尉に上がっていやがる。上手くやりやがったなユキ?」


 言われて、クロウは、その大尉の階級章に差し替えられた常備服に袖を通したユキに目を向ける。


「ユキ、さん」


 ユキからいつもの狂気が無い。だが、言い知れぬ迫力を感じるのは何故であろうか。今までとは別次元の彼女の迫力にクロウは面食らう。


 間違いなく数日前懲罰房に消えたユキそのものの姿である。彼女は変わらずその可憐とも言える容姿であると言うのに、その存在感が異質過ぎた。


 ユキはまるでビー玉のような澄んだ目で、クロウをじっと見据えた。


 これに反応したのがミツキである。


「なに、この女…… 医務室の時とは別人じゃない……」


 そのミツキの声に反応して、ユキはミツキも見据える。その底知れない迫力を持つ、全てを吸い込んでしまいそうな透明感を持つ薄茶色の瞳で、である。


 その視線にあのミツキがたじろぐ。


 クロウには分かった、ミツキはこのユキに対して畏怖しているのである。まるで、遥か昔、クロウ達が生きていた頃の、ミツキの祖父や父にミツキ自身が挑んでいる時にしか、こんな表情は見たことがない。


 それほどまでの存在感が、ユキからは感じられるのである。


 それを目撃したクロウはオーデルをデックスで運んだ日、格納庫でオーデルがその太刀の石割を床に叩きつけ、その存在感を格納庫全体に広げている様を思い出していた。


 だが、それとも違う。オーデルのそれは覇気とでも言おうか、まるで見る者を圧倒するそれであるが、今ユキが纏うそれは違う。まるで神社や仏閣のような、そんな静寂で清らかな気配さえするのだ。


 そのたじろぐミツキに、興味を無くしたかのように、彼女はクロウへと視線を戻した。


「そうだ。クロウ君はこういう顔だった」


 ユキはまるで、その場の空気すら動かさない自然さで、クロウの近くまで近寄るとそっと言葉を紡ぐ。


「ただいま、クロウ君。私の体感時間だとだいたい4年ぶりくらいだと思う。よく覚えていないんだ。顔をしっかり見せて貰っていいかな?」


「え、ええ。いいですけど」


 その得体の知れない気配に戸惑いながらも、クロウは頷く。


「ごめんね。ちょっと触るね」


 言いながら、ユキはクロウの顔を丁寧にその指先でなぞり始めた。


 今までとは、方向性が違い過ぎるそのユキの奇行に、ミーチャもどう反応したものか戸惑っていた。


「ああ。愛おしい形。コレが、私が守りたいものの形」


 ユキは言いながら。そっとクロウの頭を抱きしめた。


「ごめんね、ありがとうクロウ君」


「え、はい?」


 今までのユキの抱擁とは、何もかもが違い過ぎる。荒々しさは一切なく、クロウはまるで生前の幼いころ、その母に抱擁された穏やかな時を連想させていた。


「飛んだ穴馬だわ! まるでノーマークだったのにっ!」


 心底忌々しそうにミツキが言うのだ。この悪魔を退けられるだけの何かがこのユキにはあるのだろう。


「ありがとう。クロウ君、少し元気を貰えた。よし! じゃあみんな準備しよう! 兵は神速を尊ぶだよ!!」


 クロウをそっと離すと、ユキはいつもの声色で、元気よくそう言うのだ。

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