第2話

『明日の予報です。関東地方は明日以降もどんよりした天気が続きそうです。傘はもうしばらく手放せません。続いて東北地方は——』


 マイホームで汗を流したわたしは、薄紫のナイトウェアを着た体をクーラーで冷ました。リビングの三人がけソファに座ってテレビを眺める。和幸さんは今日も飲み会で遅くなるらしい。


 それにしても、世の中には迷惑な人がいるものだ。あの女。わたしをからかって楽しんでいたに違いない。人を見かけで判断するなとはいうが、あの女に限っては見かけ通りだと断言して構わないだろう。


 いや、今日のことはもう忘れよう。


 わたしは手当たり次第にテレビリモコンのボタンを押した。そのうちの一つに旅番組があった。


 澄み渡った空の下、若手女優がグアムの砂浜を歩いている。さんさんと輝く太陽と、心を穏やかにさせる潮騒しおさいの調べ。わたしはその風景に目を奪われた。


 番組が終わったと同時に、テーブルに置いたスマートフォンが鳴り出した。会社の後輩、桜井さくらいさんからだ。テレビを消して通話ボタンを押す。


『あ、たちばなさん。桜井でーす。いま大丈夫ですか?』


 そろそろ深夜にさしかかろうという時刻でも、彼女の声は明るい。


「どうしたの?」


『実は、あさってのコンペなんですけど』


「ああ、うん」


 わたしは姿勢を正した。


 近年ベビー業界では、赤ちゃん用音楽に注目が集まっている。幼い頃から英才教育の一環で音楽に触れさせたり、寝かしつける目的で音楽を求める親が増えているのだという。


 その需要にこたえ、ベビー用品の開発と販売を行ううちの会社は、独自の音楽ブランドを立ち上げた。そこでマスコットキャラクターが必要となり、わたしと桜井さんを含む五人のデザイナーがコンペで競うことになった。


『橘さんはもう完成してますか?』


「まあね」


『さっすが。仕事が早いですね』


「そっちはどうなの?」


『それが、まだイマイチというか』


「なら急がないとね」


『だからですね、コンペに勝つために、橘さんに聞きたいことがあるんですよ』


「なに? なんでも聞いて」


『主任にウケるデザイン、教えてください!』


「…………」


 主任とは企画部の和幸さんのことで、今回の音楽ブランドの責任者でもある。


「主任は橘さんの旦那さんじゃないですか。だからツボを知ってるかなーって』


「あのね、桜井さん」


 私は溜め息まじりに答える。


「小細工に力を入れるくらいなら、アイデアの一つでも出せるよう頭を使わないとだめよ。コンペの最終選考に残るのが当面の目標なんでしょ?」


 桜井さんは入社三年目だが、四ヶ月ペースで開催されるコンペには一度も採用されたことがなかった。


『う、痛いとこ突かれちゃった。反省して頑張りまぁす』


 その声に反省の気配は感じられない。


 頭が痛くなったわたしの気持ちも知らず、桜井さんがとろけそうな声で話す。


『でも今回の音楽ブランドの企画、面白いですよねぇ。考案者の橘主任、さすがって感じ。自分の子どもに素敵な音楽を聴かせてあげたい気持ちが、今回の企画につながったんでしょうね』


「……さあ。そのあたり、詳しくは聞いてないけど」


『そういえば、橘さんはいつお子さんつくるんですか? 私、橘さんの赤ちゃん早く見てみたいです』


「……いまはお互い忙しいから、ちょっとね」


『えー、でもぉ』


「もう時間がないんだから、集中して頑張って。それじゃ、切るからね」


『はぁい。おやすみなさい』


「おやすみ」


 通話を切ろうとしたら、先に切られた。


 二人暮らしには広すぎるリビングに、溜め息がよく響いた。クーラーの風が少し肌寒い。


 風を調整しようとリモコンを手にしたところで、玄関の方から音がした。窓がかすかに揺れる。わたしはナイトウェアの胸元を少し広げ、小走りで玄関に向かった。


「おかえり、和幸さん」


 わたしがカバンを持つと、ワイシャツ姿の和幸さんは「うん」とうなずいた。夏用のスリッパをはいて、さっさと廊下を進んでいく。いつもの凛々りりしい顔に赤みは見られず、アルコールのにおいも薄い。思いのほか酔ってはいないようだ。


 わたしは前を行く背中に声をかけた。


「ねえ、もうすぐ長期休暇でしょ」


「それが?」


「二人でグアムに行かない?」


「はあ? なんだよ急に」


 寝室のクローゼットの前で、彼はネクタイをほどきながら顔をしかめた。わたしはめげずに二の句を継ぐ。


「最近は二人で出かけることも少なくなったし、いい機会だから海外に行きたいと思って」


「海外旅行は色々面倒だぞ」


「じゃあ国内でもいいけど。草津とか」


「夏に温泉はなぁ」


「別に場所はどこでもいいのよ。旅行がしたいの」


「いまから予約も難しいんじゃないか」


「なら日帰りでもいいけど」


「考えとくよ。あ、起きてなくていいから」


 といって、和幸さんはお風呂に向かった。わたしもカバンを置いてあとに続く。


「久しぶりに洗ってあげる。和幸さん、いつも烏の行水なんだから」


 わたしは右手で和幸さんの髪を撫でた。


 その手を払うようにして彼は首を振った。


「悪い。今日疲れてるんだ」


 彼はそっけない態度で廊下のドアを閉めた。


「…………」


 リビングに戻ると、窓には娼婦しょうふのような女が映っていた。


 ふと、右の親指と人差し指に違和感を覚えた。あの女に触られた方の手だ。


 見れば、その二本の指先がふやけている。指紋が浮き上がってねじれたかのように、くっきりと細かいしわが刻まれていた。駅のトイレで四回、家に帰ってきてからも何度か手を洗ったから、そのせいだろう。


 指に目を落としているうち、嫌な想像をしてしまった。


 あの女がマスクとサングラスを取ったら、こんな顔になるのではないか。しわだらけの、化け物のような顔に。


 ぎょっとしたわたしは、ふやけた二本の指を、爪が白くなるほどの力で何度もこすり合わせた。


 指紋は整髪料がついた気配もなく、ぎゅっぎゅっと乾いた音を立てた。

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