第6話
日曜日。空にはついに太陽が現れた。昨日までの雨が嘘だったかのように、雲一つない晴天だ。
早朝の公園には、セミが命を枯らしながら大合唱を奏でている。それに負けず劣らず、十数人のお年寄り達がラジオ体操に励んでいた。
どちらも長くはない命を振り絞って生きている。改めて生命の尊さを実感する思いだ。
ラジオ体操が体を回す運動に差しかかると、彼らが公園のそばを歩くわたしを認めた。とたん、全員が腕をまっすぐ上げてかたまった。
「ほら、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんなわたしたちのこと見てるわよ」
わたしは鼻歌を歌いながら、交通量の少ない住宅街に入る。郵便局の隣に、クリーム色の外装をした三階建てアパートが建っている。及川さんに教えてもらった通りなら、304号室が桜井さんの部屋だ。
階段をのぼり、目当ての部屋までたどりつく。表札に名前はない。試しにゆっくりとドアレバーを引いてみると、ドアは大した音も立てずにひらいた。
玄関に外の光が差しこむ。見覚えのある二足の靴が脱ぎ散らかされていた。一方はパンプス。もう一方は黒い革靴。桜井さんの部屋で間違いない。二人共、鍵を閉め忘れるほど熱を上げていたらしい。
薄暗い廊下の先には、木製のドアがあった。半開きで、リビングが垣間見える。カーテンを閉じているのか室内は真っ暗で、うっすらと彼のいびきが聞こえてきた。
わたしはドアを閉めてから靴を脱ぎ、
「お邪魔します」
といって部屋に上がった。子どもがいる手前、あいさつをおろそかにしてはならない。
廊下を進み、ドアをあける。男女のまぐわいのにおいが鼻をついた。布団がもそりと動く。
わたしは布団の脇を通り、丸まったティッシュを蹴って、花柄のカーテンを引いた。
「おはよう、和幸さん。朝よ」
室内に心地いい陽光が差しこむ。
すっぴんの桜井さんが、わずらわしそうに体を伸ばした。
「ちょっと和幸さぁん。まぶしいんですけどぉ」
細められた目と、わたしの目が、ぴたりと合った。
数瞬あと、彼女は隣近所まで届きそうな絶叫を放った。布団から転がり出て素っ裸をさらす。朝日に照りつけられた太ももは白く輝いていた。
遅れて事態を察した和幸さんもまた、大事な部分を隠そうともせずに身を起こした。
「だ、誰だ、お前は!」
和幸さんはよく通る声でわたしに問いかけた。妻に誰だとは失礼だが、こればかりは仕方ない。
なぜならわたしはいま、顔にサングラスとマスクをかけ、体にはセーター、手袋、そしてロングスカートを身につけているのだから。
「わたしよ、和幸さん。おはよう」
和幸さんは、目を丸くしていった。
「お、お前、なのか。なんでここに……あ、いや、これはだな」
わたしだと理解したらしい和幸さんは、そそくさと枕で陰部を隠した。
その後ろで、桜井さんが立ち上がった。
「誤魔化さなくてもいいじゃないですか」
彼女は裸のまま布団をまたぎ、わたしの正面までやってきた。つんと張った乳房を見せつけるような姿勢でにらみつけてくる。
「勝手に人の家に上がりこんで、変な格好までして、これってあてつけですか? 私と和幸さんへの」
彼女は、「この際だからはっきりいわせてもらいますね」と勝ち誇った表情で宣言した。
「私たち、ごらんの通り、愛し合ってるんです。和幸さんは、もうあなたへの熱が冷めてるんですよ。子どものできないあなたと結婚したことを、後悔してるんです」
「おい、それは」
「和幸さんは黙ってて!」
彼はしゅんとうなだれてしまった。
「だから、いさぎよく身を引いてもらえませんか。これ以上あなたの身勝手で、和幸さんを苦しめないで」
わたしは話もそっちのけで、布団の上でしょげる和幸さんを見つめていた。いたずらがばれた子どものような姿で、少しかわいい。声を出して笑ってしまった。
それを勘違いしたのか、桜井さんは歯を剥き出しにした。
「なに笑ってんのよ!」
彼女の手がわたしのサングラスとマスクをつかみ、引きはがした。
次の瞬間、再び部屋が彼女の絶叫に染まった。フローリングに尻もちをつく音がはじける。
和幸さんが放心したようにわたしの顔を指さした。
「どうしたんだ、その、顔……」
わたしは布団の向こう側にある姿見に目を向けた。
その顔は、もはや顔ではなく、しわの塊と呼ぶにふさわしかった。しわの一つ一つが、模様めいてわたしの肌を形成している。
「これはね、わたしたちの子どもよ」
わたしは手袋に包まれた手で頬のしわを——我が子を、そっと撫でた。子どもたちは嬉しそうに身をよじり、わたしの顔をあたためてくれた。
昨夜、わたしの体はしわに支配された。顔も、腹も、足も、性器でさえも。しわの群れは赤ん坊が泣きわめくようにねじれ、伸び縮みし、かゆみを増長させていく。
その声なき声を聞いているうち、異変が起きた。
体がぽかぽかしている。
泣きわめく皮膚の下が、かゆくもありながら、じんわりあたたかい。それは朝の陽ざしの中で蹴伸びをしたときに広がる、あの心地よさに似ていた。
その奇妙な幸福感に、わたしは失禁してしまった。すると尿で濡れた股のあたりで、太もものしわが活発に動いた。湿りけを感じて喜んでいるのだ。親の笑顔を見てにこにこ笑う赤ん坊のように。
全身のかゆみで脳が溶けていく中、わたしはいつしか涙を流すようになった。
このしわは、わたしのおひさまだ。
不意にあの女の姿が脳裏に浮かんだ。もしかすると彼女は、この幸福をわたしにわけ与えようとしてくれていたのではないか。子どもができずにいたわたしに、救いの手を差し伸べてくれたのだ。
シャワーを浴びると、全身の子どもたちが満面の笑みを浮かべた。耳には聞こえないたくさんの笑い声が脳にこだまする。わたしはそっとしゃがんで、両腕でお腹を抱いた。
わたしはこのとき、母になったのだ。
「和幸さん。わたしね、たくさん子どもができたのよ」
わたしは子どもたちを傷つけないよう、衣服を丁寧に脱いでいく。ブラを外すと、桜井さんが情けない声を上げ、服も着ないで部屋を出ていった。
すべて脱ぎ終わり、姿見に映る自分の裸体を目にした。焼けた右手以外の皮膚という皮膚が、何度も丸めた和紙のようなしわで覆われている。
体中がてらてらと汗をかいていた。水分を舐めとる子どもたちはご満悦の表情だ。
わたしは声を弾ませて鼻頭のしわを指さした。
「この子が
「お前、なにをいってるんだ……?」
和幸さんは幽霊でも見たかのように顔を引きつらせている。
「なにって、わたしたちの子どもの名前よ。あっ」
わたしは大変なことに気づいてしまった。
「ごめんなさい、わたしが勝手に名前を決めちゃって。こういうのは二人で考えるものなのに」
「ち、違う。そういうことをいってるんじゃない」
「でも安心して。まだ名前の決めてない子もたくさんいるの。この子とか、この子もね。それに、これからもまだまだ増えるから」
和幸さんに歩み寄る。朝日に当たった足の子どもたちが、まぶしそうに顔を歪ませた。
「やめろ、なにをする気だ……」
「なにって、子づくりよ」
口角を上げると、顔中の子どもたちも頬を緩めたのが伝わった。
「だって和幸さん、子どもはたくさん欲しいっていってたじゃない。わたしも、和幸さんとの子どもが欲しい。いままで和幸さんを待たせた分、たくさんの幸せをあげたいの」
和幸さんの目の前に立つ。
「来るな……来るな、やめろ!」
「心配しないで。誰だって親になるときは不安でいっぱいよ。でも、和幸さんもこの子たちに囲まれて暮らすようになれば、そんなものはすぐに吹き飛ぶから」
四つ這いになり、彼の顔を火傷跡の残る右手で触れる。
「嫌だ、やめてくれ、頼む……」
「さあ、子づくりしましょう」
わたしは和幸さんに抱きついた。すかさず全身の子どもたちが、彼の汗ばんだ体をおいしそうについばむ。
男の人でも、自分の子どもが生まれたときは涙もろくなるらしい。わたしはそれを目に焼きつけながら、夫の涙声を愛おしく聞き続けた。
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