第二章:例え偽りの平穏だとしても/01

 第二章:例え偽りの平穏だとしても



「あら、おはよう翔一。寝ぼすけのアンタにしては早いお目覚めね」

 それから暫くもしない内の早朝。カーテンの隙間から差し込んでくる朝日にいざなわれるようにして翔一が目を覚まし、布団から起き出して自室を出て、まだ覚束ない足取りで階段を降りて、一階のダイニング兼用なリビングの方へと歩いて行くと。すると、何故かアリサは彼よりも早く起きていて。そんな彼女はどうしてか、こんな朝っぱらからキッチンに立っていた。

「ん……ああ、おはようアリサ…………」

 軽く振り向き、薄い笑顔で出迎えてくれる彼女に、翔一が寝ぼけた声で返す。

 眠い眼を擦りながら、そんな彼女の手元を見てみると……どうやら、今日も例によって弁当をこしらえてくれているらしい。当然、自分の分と翔一の分の二つだ。もう調理も殆ど終わっているのか、彼女の傍らに置いてあった少し大きめの弁当箱は、もう二つともの中身が半分ほど詰め終わっている段階だった。

「……その、毎度のことだけれどアリサ、良いのか?」

「良いも何も、何のことよ」

「殆ど毎日じゃあないか、作ってくれるの」

 まだ眠気が抜けきっていない声で翔一が言うと、そんな彼の少しだけ申し訳なさそうな声音に……弁当の中身を詰めていく手を一瞬止め、アリサはフッとささやかな笑みを浮かべる。

「アタシが好きでやってるコトなんだから、アンタが気にすることはないの。最近の楽しみなんだから、アタシのささやかな楽しみを取るような真似はしないでよね?」

 そう言われてしまえば、翔一としても返す言葉を見失い。薄い笑顔を横顔に浮かべたまま、手早く弁当の中身を詰めていくアリサに対し、翔一は「……そうか」とだけ返していた。彼もまた、彼女同様に柔な笑みを寝ぼけた顔に浮かべて。

「とにかく、アタシがやりたくてやってるコトなの。だから翔一は気にしなくて良い。それより顔でも洗ってきなさいな。多少は眼が覚めるんじゃない?」

「……そうさせて貰う」

 彼女が自分の意志で、やりたいと思ってやってくれていることならば……これ以上どうこう言うのも野暮というか、却って彼女に悪いような気がする。負い目に感じてしまう方が、アリサに対しては寧ろ失礼に当たるだろう。

 だから翔一はそれ以上あれこれ考えることはせず、ただ彼女に言われるがままに洗面所の方まで歩き、ひとまず顔を洗って眠気を払うことにした。

 冷水を浴びると、頭の周りを厚い雲のように覆っていた眠気が多少なりとも消えていく。寝ぼけていた頭もある程度はクリアになってきた。ふわあ、と欠伸をしながら濡れた顔を拭い、翔一はそのままうんと伸びをする。凝り固まっていた身体の節々がポキポキと小気味よく鳴る頃になって、翔一はやっとこさ本当の意味で目を覚ましていた。

「よし、これで終わりっと。んじゃあ翔一、アタシはシャワー浴びてくるわね」

「そうか、ごゆっくり」

 顔を洗って眠気を覚まし、リビングに戻っていくと。するとそのタイミングでアリサも弁当の中身を詰め終わっていたらしく、包んだ二人分の弁当箱をダイニング・テーブルの片隅に置きながらそう言って、彼女は寝汗を流そうと浴室の方に歩いて行く。

 そんな彼女を見送った後で、今度は翔一がキッチンに立った。アリサがシャワーから出て、そのまま朝食にありつけるようにと、翔一なりに気を利かせてのことだ。

 かといって、時間が時間だけにそこまで手の込んだものは作れないだろう。手早く作れてしまう物、冷蔵庫の中身を適当にあり合わせ。とはいえ、朝食ならその程度で十分だ。

 自分の分とアリサの分、二人分の朝食を慣れた調子で手早くこしらえて。そうして二人分をキッチリ作り終え、ダイニング・テーブルの上にサッと並べて……そうしてから翔一はキッチンを離れ、浴室の方に足を向けた。朝食を作っておいたから、後で食べてくれ……と、シャワーを浴びているアリサに伝えておこうと思ったのだ。

 ガラリ、と脱衣所の戸を翔一がおもむろに開ける。

 すると――――――。

「……うぇっ!? ちょっ、翔一……っ!?」

 ――――お約束通りというか、例によって風呂上がりのアリサと鉢合わせしてしまった。

 どうやら彼女、翔一が戸を開けて脱衣所に入ってくるのと同じタイミングで浴室から出てきてしまったようだ。たまたまにも程がある。悪戯な偶然というか、何というか。ある意味でお約束にも程がある展開だ。

 だから今のアリサは……浴室の戸を開けて、湯気の立つ向こう側から半身だけこちらの脱衣所の方へと出している彼女は、至極当然のことながら何も身に纏っていない。それどころか、髪や身体のあちこちからは未だ湯が滴っているぐらいだ。

 真っ赤な髪……今はいつものツーサイドアップでなく、解いた髪からは当然ポタポタと滴っているし、真っ白い肌も動揺に水気を帯びている。玉になった水滴がツーッと重力に従って肌を伝っていく様は、まさしく玉のような肌という喩えが相応しい。

 そんなアリサ、今まさに風呂から出てきたばかりですよ、といった風な感じだから、当たり前のことながらバスタオルも何も持っていない。前を隠そうにも隠せないといった状況だ。

 だからか、彼女の金色の双眸は……見開き、驚きと戸惑いの視線を翔一の方に向けてくる彼女の双眸は、どうしようもないほどの動揺に揺れていた。

「ああ、丁度良かった。朝食、僕が作っておいたよ。上がったら食べてくれ」

 が、そんなあられもない姿の彼女を前にしても、翔一はまるで動じることなく。寧ろ鉢合わせして好都合だと言わんばかりに、何食わぬ顔をして目の前のアリサに告げる。

 告げてから、翔一はそのまま脱衣所の戸を閉めようとするが……そんな彼の背中を、アリサの「まっ、待ちなさいよ……」という恥じらいに満ちた声が呼び止める。

「ん?」

「……こういう状況、少しぐらい驚くとかするでしょ、普通?」

 手近にあったバスタオルをバッと掴み、そのまま身体の前を隠す彼女に……顔を真っ赤にしたアリサにそう言われて。しかし翔一は、特に動揺した様子もない平常そのものな顔で彼女の方に振り向くと、年相応の乙女らしく恥じらう彼女に対してこう言った。

「いつものことだ、もう慣れたよ」

 と、薄い笑顔なんか浮かべてみせながら。

「…………馬鹿」

 そうすれば、翔一から目を逸らしたアリサがボソリと小さく呟く。恥じらいだとか色々な感情を込めた、複雑な……しかし、決してマイナスの感情はない一言を。

真っ赤になった顔で、まるで囁くように細い声音で。

 ――――最近になって、アリサは急に恥じらうようになってきた。

 以前は翔一に裸を見られても何とも思っていなかった彼女が、平気な顔をしていた彼女が、ここ最近はずっとこの調子だ。具体的に言えば、翔一が無断出撃をしたあの戦いの後からか。

 まあ、彼女がこういう風に恥じらうようになった、その心境の変化の理由は分からなくもない。実際、翔一としてもアリサが自分のことをそういう風に意識してくれていることは、当たり前だが嬉しかった。対する彼の方はそれなりに長い同居生活の中で、もうアリサに対して抗体が出来てしまっているから、反応としてはこんな風だが。それでも、アリサが自分のことを意識してくれること自体は嬉しく思っているのだ。

 だが、それ以前に――――翔一としては寧ろ、彼女が漸く恥じらいというものを覚えてくれたこと。そのことに対してホッとする気持ちの方が、彼の中では何故だか大きかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る