【25】乗客の幽霊との遭遇と疑問

 由香里が一同の許を離れ、かれこれ三十分が経過した。そろそろ心が落ち着くころだろう。由香里を迎えに行くために全員で歩を進めて、ふと空を見上げてみた。カラクリが解けていない自分たちに見えるのは太陽の光だけ。


 のんびりと歩く一同は、女子が定位置にしていた場所に辿り着いた。だが、ここにいるはずの由香里の姿がない。慌てた一同は、大声で名前を呼んだ。


 「由香里! 由香里!」


 綾香は必死に周囲を見回した。

 「由香里がいない! どうしよう!」


 健が言った。

 「どうしようって、捜すしかないじゃん!」


 斗真が言った。

 「由香里はふつうじゃなかった。やっぱり幻覚が見えていたんだ。ひとりでジャングルに入っていったんだよ」


 結菜が言った。

 「あたしたちも行こう!」


 一同はジャングルに歩を進ませた。そのとき、急に空が暗くなり、雨が降ってきた。よりによってこんなときに降るとは最悪だ。雨風のせいで視界が悪い。


 由香里はいつごろ砂浜を離れたのか……。


 遠くに行っていなければいいが……。


 すぐに由香里が見つからなければ、しばらくジャングルを歩くことになりそうだ。まさかこんなことになるとは考えもしなかった全員が素足だ。ジャングルを歩くときには怪我を防止するために必ず靴を履いていたが、一刻も早く由香里を捜し出さなくては大変だ。この島では何が起きるかわからない。だが憂慮すべき状況のため、砂浜からジャングルへ足を踏み入れた。


 一同は声を合わせ、「由香里!」と何度も名前を呼んだ。


 だが、どれだけ声を張り上げても、雨音と雷鳴に声が掻き消されてしまう。遠くに声が響かない。本当に厄介だ。


 斗真が言った。

 「あいつどこまで奥に入っていったんだよ?」

 

 光流が言う。

 「だからひとりにするべきじゃなかったんだ」


 まさかジャングルへ入っていくとは思わなかった。単独行動にうなずいてしまった綾香と恵は責任を感じた。

 

 恵は心配で泣き出した。

 「由香里が見つからなかったらどうしよう」


 綾香はうつむく。

 「ひとりにしなきゃよかった……」

 

 結菜がふたりに言った。

 「大丈夫。絶対に見つかるよ」


 道子が言った。

 「二手に分かれたほうがよくない?」


 翔太が反対する。

 「ジャングルはとてつもなく広い。この人数で二手に分かれたところで意味ないよ」


 どうするべきか話し合っていたそのとき、聞き覚えのある声に名前を呼ばれた気がした健が、周囲を見回した。

 (まさか……)


 健は声が聞こえた方向に歩を進めた。木々が入り組んだ場所へ足を踏み入れ、目の前の葉を除けた。すると、木陰からまなみが現れたのだ。


 驚いた健は後退りした。

 「うそだろ……」

 (霊感なんてないのにリアルに見える)


 まなみは健に手招きする。

 「健君……来て……」


 まなみは死んだ。目の前にいるのはまちがいなく幽霊だ。健は恐る恐る言った。

 「俺は逝けない。まなみちゃんのところには逝けないんだ」


 健のあとを追ってきた斗真が小声で言った。

 「ガチなやつ……だよな?」


 健は斗真に訊いた。

 「お前にも見えるのか?」


 斗真は言った。

 「見える。はっきりとそこに……」


 まなみが一歩ずつこちらに歩を進めてきた。怖くなったふたりは、慌てて踵を返した。そのとき、一同の悲鳴が聞こえた。ふたりは血相を変えて、一同の許に向かった。すると、死んだ乗客が一同を取り囲んでいたのだ。目の前で起きている信じられない光景に慄然とした。


 死者たちは「恐れるな……死を恐れるな……」と口々に呟き始めた。


 犇めき合う死者のあいだから、機内で美紅が遊んであげていた幼い子供が出てきた。それを見た美紅は、恐怖を感じて身震いした。


 「こないで……」


 子供は手招きする。

 「お姉ちゃん……一緒に逝こう……」


 「嫌だ……」声を震わせて拒否した。「絶対に逝かない」


 こんどは、綾香の隣に座っていたスーツ姿の男がこちらに向かって歩を進めてきた。男は、まちがいなく死んでいる。無残な死体が目に焼きついている。ここにいるはずがない。綾香は、冷静に対処しようとした。


 「あなたは死んだの! あたしたちの邪魔をしないで! あたしたちは生きるの!」


 男は言った。

 「来るんだ……君たちも……さぁ……早く……」


 綾香は声を張り上げた。

 「逝けるわけないでしょ!」


 道子が、綾香の腕を引き小声で言った。

 「死んだ瞬間で思考回路が止まってるから、あいつらに何を言っても無駄だよ」


 恵が恐る恐る綾香に言った。

 「あたしたちを連れて逝こうとしてるのよ……」


 綾香は語気を強めた。

 「冗談じゃない!」


 光流が大声を張った。

 「道連れになってたまるかよ!」


 斗真も負けじと声を張った。

 「強行突破だ!」


 周囲は幽霊に囲まれている。斗真のかけ声で一斉に足を踏み出した一同は、幽霊を押し退けて全力疾走した。そのとき、幽霊のうちひとりが恵の腕を鷲掴みにして、群れの中に引きずり込もうとした。


 勇気を出した光流が幽霊を突き飛ばし、「早く!」と、恵の手を握りしめて懸命に走った。


 ジャングルを抜け出した一同は、浜辺に辿り着いた。息を切らしながら後方を見ると幽霊の姿はなかった。しかし、肝心な由香里がいなかったので安心できなかった。


 「ねぇ……もしかして……由香里……」恵は、ひとりで行かせてしまったことへの後悔の涙を流した。「あいつらに連れて逝かれちゃったんじゃ……」


 「縁起でもないこと言わないでよ……」と、恵に言った綾香も動揺していた。


 「だったらどこに行ったの?」恵は綾香に言う。「あいつらが連れて逝ったんだよ」


 綾香は恵の考えを否定する。

 「あいつらは幽霊なんだよ! 幽霊に連れて逝かれるって、どういうことかわかるでしょ?」


 「だって、どこにもいないじゃん!」と言ったあと、恵は頭を抱えた。


 道子がはっとする。

 「由香里……鍋に溜まった雨水を見た瞬間、幽霊って騒いでなかった? あいつらを見たんじゃない?」


 疑問を感じた結菜が言った。

 「だけど、軽飛行機が墜落して死んだ操縦士が化けて出てくるなんて類から聞いてない」


 斗真が言った。

 「きのう容器を発見したときに、このゲームは三十年前の続編なんだって綾香が言ったじゃん。続編ならストーリーの変更があったとしても不思議じゃない」


 翔太が斗真に言った。

 「都合よすぎないか?」


 斗真は言う。

 「じゃあどう説明するんだよ?」


 翔太が綾香に目をやった。綾香の意見が聞きたい。

 「説明……綾香はどう思う?」


 明彦が見つけたコップと鍋。自分たちが見つけた容器。そして幽霊の出没。どれも小夜子の時代にはなかった。綾香は、深刻な面持ちで言った。

 「幽霊はゲームとかじゃなくてガチだったら……どうなんだろう?」


 言っている意味がわからなかったので、翔太は綾香に訊く。

 「どうなんだろうって、何が?」


 綾香は自分の考えを説明した。

 「だからガチなやつ。この世に未練を残して死んでいるわけでしょ? だからあたしたちを連れて逝こうとしている。ゲームの一部じゃなくて、本物の幽霊が化けて出てきたんだよ。死神だって想定外なんじゃない?」


 理解できた翔太は息を呑んだ。

 「想定外……」


 「あたしはちがうと思う」道子が否定する。「死神がよこした刺客だよ、絶対。だってあいつらの目を見たでしょ? あたしたちを殺そうとしていた。殺意のある目だった。死神に支配された幽霊に捕まったら道連れにされる」


 覚悟を決めた結菜が、意志の強い眼差しを一同に向けた。

 「あのさ……もう一度ジャングルに入ろうよ。幽霊は怖いけど、由香里を捜すの。もし……幽霊に拉致されていたら何がなんでも返してもらう」


 結菜の言葉に綾香はうなずいた。

 「そうだね。そうしよう」


 翔太が言った。

 「だけど、マジで死神の刺客だったら、俺たちまで連れて逝かれる。相手は百人はいる。いまはうまく逃げられたけど、つぎはわからない。それに話が通じる相手じゃない。目つきが完全にヤバかったし」


 結菜は翔太に言った。

 「由香里を見捨てるの?」


 「霊感とかぜんぜんないし、幽霊を見たのは初めてだから、ちょっと、びっくりしただけだ……」翔太は真剣な面持ちで言った。「見捨てられるわけないじゃん……。俺たちの大事な友達なんだから……」


 綾香はジャングルに顔を向けた。

 「絶対に由香里を見つける」


 「なぁ……」健が疑問を口にする。「由香里の頭がまともで、イカれてるのは俺たちのほうじゃないよな……」


 綾香は健に言った。

 「由香里に幻覚が見えていたのはまちがいないよ。コップも容器も発見時と同じだったんだから。それに理沙の顔が衰弱して見えるなんて、どう考えてもまともじゃない」


 健は言う。

 「けど……純希も同じことを言ってたよな?」


 綾香が見ても理沙はいつもと変わらなかった。ふたりは幻覚を見ていたとしか思えない。

 「純希はずっとジャングルを歩いてるんだよ。疲れてて当然だし、情緒不安定だったんだよ」


 結菜が言った。

 「純希がゾンビ発言したのは由香里のあと。由香里が言ったから、そう見えたんじゃない? 心理的な問題ってやつ」


 「かもしれないけど……」腑に落ちないが、考えても答えは出ないので、健はため息をついた。

 

 「幻覚の話よりも、いまは由香里を捜さないと。行くんだろ?」と、ジャングルを指さした斗真は、一同に確認する。


 「もちろん」綾香が返事した。「幽霊は浜辺までは追いかけてこないみたいだから、ヤバくなったらまずはここに引き返そう」


 道子が言った。

 「あいつらはきっと地縛霊ね。この世に対する未練が大きすぎてジャングルから出られないのよ」


 綾香は訊く。

 「ジャングルから出られない理由はなんなの?」


 道子は教える。

 「彼らが乗っていた飛行機の墜落現場だからだよ。死んだ場所や未練のある場所に留まり続けるたちの悪い霊体、それが地縛霊なの」


 「つまり、あいつらの行動範囲はジャングルだけってこと?」


 「たぶんそう」

 

 「でも、へんじゃない? 由香里は水面に映った幽霊を見て悲鳴を上げたんだよ」


 「ここは死神の島。墜落事故の死者ばかりか、いろんな霊体が彷徨ってるのかもしれない」と綾香に説明したあと、道子は慌てた。「そうだ! 類たち大丈夫だよね? 幽霊に囲まれたらまずいよ」


 青褪める一同。斗真が腕時計を確認した。現在、九時四十分。正午まで時間がある。状況を類たちに伝えたいが、手段がない。

 「幽霊は俺たちのところにいる。現れた幽霊は全員が飛行機に乗っていた乗客だ。類たちのところにはいないと思う。増殖さえしていなければ……」


 翔太が顔を強張らせた。

 「増殖って、ウイルスじゃないんだから」


 光流が言った。

 「あのさ、ひとつ言ってもいいかな? 幽霊って歩いて移動するわけじゃない。実体がないんだから、足なんてあってないようなものだ。瞬間移動ができるんじゃないの? それこそ、俺らが鏡の世界でできるワープみたいなやつ」


 光流の言葉で不安になった。ジャングルを歩く類たちが幽霊と遭遇した場合、逃げ場はないのだ。しかし、どれだけ三人を心配しても、会えるのは校内だけだ。


 綾香は重苦しいため息をついた。

 「いまは類たちの心配よりも、由香里を捜すことに集中しよう」


 一同はジャングルの手前に立った。恐る恐る樹木の合間を確認する。幽霊はいない。勇気を出してジャングルの中へ歩を進めた。


 綾香が声を張った。

 「由香里! どこなの!」


 結菜も声を張る。

 「由香里!」


 一同は声揃えた。

 「由香里!」


 そのとき、木陰からまなみが出てきた。だが、怯んではいられない。果敢にも一歩前に出た綾香の腕を健が掴んだ。


 「まなみちゃん……」健は話しかけた。「守ってあげられなくてごめんね」


 綾香は健に任せることにした。


 ずっと健の心に重く圧しかかっていたまなみの死。

 「俺……帰国したらまなみちゃんの両親に会おうと思っているんだ。ふたりで撮った写メを見せたいんだ。だって、まなみちゃんの最後の笑顔だから……。そのときは綺麗な花も買うよ」


 まなみは何も言わずに一筋の涙を流した。

 「…………」

 

 「まなみちゃん……」


 「その日は……やってこない。あたしたちと一緒に来るの」手を差し出した。「あたしの手を取って……」語気を強めた。「さぁ! 早く!」


 綾香は健の腕を引いた。

 「やっぱり、あいつは生前の彼女じゃない! その証拠にあたしたちを連れて逝こうとしてる!」


 健は目に涙を浮かべて、まなみに言った。

 「俺だけ生きてごめん! だけど、生き残ったからには精いっぱい生きたいんだ! お願いだ! もし、由香里をさらったならを返してほしい! 俺たちの大事な友達なんだ!」


 「その子は、ここにいない」と、言ってからまなみは姿を消した。

 

 「まなみちゃん!」霧のように消えてしまったまなみを大声で呼んだが返事はない。

 

 姿を消したまなみは、ここに由香里はいないと言った。それなら、いったいどこに行ったというんだ。


 「まさかとは思うけど……」道子が恐る恐る言った。「血迷って海に飛び込んだわけじゃないよね?」


 一同は、ジャングルから浜辺に引き返した。波打ち際に立ち、切羽詰まった表情を浮かべて海を眺めた。もし海に飛び込んだとしたら、かなりの時間が経過している。だが、自ら海に飛び込むはずがない。なぜなら全員が生きることに必死だからだ。絶対に新学期を迎えたいのは由香里も同じ。


 「みんな……」綾香は前屈みで息を整えた。「いったん落ち着こう」


 「どうして由香里はいなの?」恵が涙を拭う。「どこに行っちゃったの?」


 綾香は頭を抱えた。

 「わからないよ……」

 (このまま由香里が消えちゃったらどうしたらいいの?)


 恵は言った。

 「ひとりにするべきじゃなかった……」


 恵と同じ思いの綾香も後悔している。

 「ほんと……馬鹿だった。何を言ってもいまさらだけど……」


 道子が言った。

 「やっぱり……由香里はあいつらに連れて逝かれたんだよ。死んだ乗客は、死神の刺客にされた地縛霊なんだ。最初っからゲームのストーリーに組み込まれていたんだ。化けて出たとか、そんなんじゃない。あいつらから逃げれなかったら、あたしたちはみんな連れて逝かれる」


 翔太が道子に言う。

 「連れて逝かれたとか簡単に言うなよ」


 綾香も道子に言った。

 「翔太の言うとおりだよ」


 だが光流も道子と同じ意見だ。

 「八月一日に死ぬひとを集めて飛行機に搭乗させた理由は、死後の魂を刺客にして俺たちを殺すためだったんだ」


 道子は光流の考えにうなずいて、恐怖の涙を流した。

 「絶対そうだよ」


 結菜が、光流と道子に言った。

 「ふたりとも落ち着いて」


 「さっきも言ったでしょ? その言葉の意味をわかって言ってるの?」


 綾香は語気を強めて言った。その直後、急な眩暈を感じて砂浜に屈み込んだ。そばにいる一同の心配する声よりも、由香里に言われた言葉が頭の中に響く。


 しっかりするのは綾香のほうだよ―――


 お願いだよ、現実を見て――― 


 真実は現実なの―――こんなの綾香じゃない!


 こんなのあたしじゃない? 何があたしじゃないの? 由香里は何が言いたかったの?


 あたしはいつも冷静にものごとを対処できる。現にいまも真実を探し出そうとしている。


 それなのに……。


 カラクリについて考えると怖くなる。自分でもこの感情をどうしていいのかわからない。


 あたしは真実が欲しい。答えが欲しい。じゃないとこの島から脱出できない。あたしは何を恐れているの?


 由香里は “こんな結末、望んでなかった” と泣き叫んでいた。それに “三十年前と結果は同じ” とも言っていた。


 まさか……本気でカラクリを解いたのだろうか? それならカラクリのヒントすら教えてくれなかったのはなぜなの?


 「どうしたの?」結菜は綾香に声をかけた。「具合悪いの?」


 「ごめん、大丈夫」返事した綾香は、恐る恐る一同に訊いた。「あのさ……まさかとは思うけど……由香里はゲートに吸い込まれたわけじゃないよね?」


 突拍子もない綾香の言葉に一同は驚いた。


 結菜は綾香に言った。

 「ちょっと待ってよ、それはないんじゃない?」


 斗真も言った。

 「だって、カラクリが解けないとゲートは見えないし、墜落現場にある確実な答えを見ないとゲートは通れないんだ」


 綾香は斗真に言う。

 「たしかに墜落現場での答え合わせが済んでない。だけど、カラクリの答えに気づいた口ぶりだったから……」


 斗真は言った。

 「何もかもが幻覚のせいだ。コップも容器も発見時と同じだったじゃん」


 何度もコップと容器を確認した。それもみんなで。だが、どれだけ見ても、斗真が言うように発見時と同じだった。


 幻覚を見ていたとしか思えない由香里の発言を鵜呑みにしても、意味がないような気がする。正常とは言い難い言動……そこに答えがあるはずない。


 だけれど……。


 自分たちはカラクリを解きたいと思いながらも、潜在意識の中で拒否している? だとしたら、なんのために拒否する必要があるの? 


 カラクリが解けなければ現実世界に戻れない。どう考えても由香里の発言にはおかしな点がいくつもあった。


 綾香は言った。

 「でも、取り乱した由香里は……何かを確信してるみたいだった……」

 (だめだ、頭が混乱する……)


 斗真は綾香の言葉を否定する。

 「幻覚が見えていたやつの言葉に確信も何もない。まともじゃない由香里の発言を真に受けるほうがどうかしてるぞ。とにかく、由香里の発言よりも、いまは自分たちの閃きを大事にしたほうがいい。それが一番、カラクリの答えに近いはずだ」


 綾香は呟く。

 「閃き……」


 閃きを大事にしたからこそ余計に頭が混乱する。このままだと小夜子たちの時代とは別物になってしまう。それとも、別物と考えていいのだろうか……。もし別物なら、いままで考えてきた推理のすべて無駄になってしまう。


 冷静に考える綾香の頭の中に、囁き声が響いた。その声はなぜか自分の声だった。


 無駄にするべきだ―――


 無駄にしたほうがいい―――


 現実を受け入れるわけにはいかない―――


 囁きの言葉が最善の選択に思えた綾香は従おうとした。そのとき、ふたたび由香里の声が頭の中に響いた。

 

 しっかりして! 


 こんなの綾香じゃない! 


 現実を見て! それが真実!


 まるで自分自身と葛藤しているかのようだ。耳を塞いだ綾香は、耐えきれずに声を上げた。

 「やめて!」


 突然、大きな声を上げた綾香に一同は驚く。


 斗真は綾香に声をかけた。

 「いきなりどうしたんだよ? 大丈夫か?」


 「ごめん、大丈夫……」

 (奇妙な囁きをする自分の声と、由香里の声が頭の中に響く……。ひょっとしたら、幻覚が見えているのはあたしたちのほう?)


 何度も確認したコップと容器が気になった綾香は、一同に背を向けて、いつもの場所に駆け出した。


 雨が全身を伝う感覚もある。鈍色の空に光る稲光もはっきりと見える。幻覚なんか見ていない。いま現在これが現実だ。


 (真実が現実。駄目だ……意味がわからない……。もしも由香里がカラクリを解いたなら、どうして答えを教えてくれなかったの? なぜ、ひとりひとりが理解しないと意味がないの?)


 流木を寄せたベンチまで戻ってきた綾香は、すぐさまコップを拾い上げて確認した。やはり何回見ても、傷だらけの無地のコップだ。容器も確認する。これも同じ。


 「やっぱり、由香里のやつ……幻覚が見えていたんだ」綾香の後ろで斗真が言った。


 全員が揃っているので、念のために綾香は訊いてみた。

 「無地のコップだよね? 何も書かれてないよね?」


 全員がうなずいた。そして斗真が答えた。

 「発見したときと同じだよ。無地だ」


 綾香はもう一度、斗真に訊いてみる。

 「嘘はついてないよね?」


 斗真は言った。

 「どうして嘘つく必要があるんだよ」


 「そうだよね」確認のために訊いた綾香は納得した。「嘘つく必要なんかないよね」


 健が言った。

 「何度見ても発見したときと変わらない。それよりも、由香里が心配だし、類たちのことも気がかりだ」


 「そうだね……」と、綾香はコップを砂浜に置いた。

 (きっと百回見ても同じだ)


 美紅が言う。

 「類たち幽霊に襲われてなきゃいいけど……」


 結菜が藁にも縋るような思いで愛するひとの名を口にした。

 「明彦……」


 自分たちにはどうすることもできない。ただただ……ジャングルを見つめるしかないのだろうか……。

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