【23】漂流物の謎を解いた者
長時間に及ぶミーティングのため、いつもより目覚めが遅くなった。太陽が燦々と輝き、気温が高い。だが、周囲は濡れていた。おそらく、夜明けに雨が降ったのだろう。その証拠に鍋に雨水が溜まっている。それなのに、自分たちの体は濡れていない。
しかし、いまの由香里にとって、その疑問は微々たるもの。自分たちを取り巻く環境よりも、純希を除く全員の言動のほうが怖い。それに、カラクリを解く気がないようにさえ感じたので、朝を迎えるまで頭の中でひとり会議を延々と繰り返していた。
いま目の前にいる一同はいつもどおりだが、カラクリに関して彼らの意にそぐわない話を始めると、ひとが変わってしまったかのような顔つきになるのはなぜだろう?
ひょっとして……すでにゲートが見えているのだろうか?
空を見上げても、眩しい太陽しか見えない。
もし仮に見えていたとすれば、なぜそれを偽り隠さなければならないのか……。
答えを隠すための演技をする理由なんかないはずだ。早く現実世界に帰りたいのはみんな一緒、と思っているのは自分だけなのだろうか?
「ゲートが見えているひとは手を挙げて」
一同は一斉に由香里へと顔を向けた。そして綾香が訊いた。
「何言ってるの?」
「ゲートが見えてるのかなって……」
「見えてるわけないじゃん。カラクリが解けてないのに、どうやってゲートを見るの?」
もっともな綾香の言葉に翔太が言った。
「そうだよ。ゲートが見えているってことは、カラクリが解けたってことだ。墜落現場で答え合わせをする必要があるんだから、類たちに伝えないと、俺たちは現実世界に戻れないんだよ」
ふたりの言葉が信用できない由香里は確認した。
「本当に本当にゲートが見えてないんだよね?」
綾香は言った。
「当たり前でしょ。見えていたらとっくにベッドの上だよ」
由香里は言った。
「手を見せて」
綾香は言った。
「なんのために?」
カラクリの答えに気づいていれば手が金色に光る、と類が言っていたので確認したかったのだ。
「いいから」
一同は由香里に両手の手のひらを向けた。
綾香が訊いた。
「これでいい?」
(きのうからどうしちゃったんだろう?)
全員がふつうの手だったので納得した。
「安心した」
(嘘はついてないみたい)
「へんなの」綾香は訊き返した。「由香里にもゲートは見えてないんだよね?」
「うん」
鍋に目をやった道子が、由香里に言った。
「水を飲んだら少しは頭がすっきりするかもよ」
由香里も水が飲みたかったのでうなずいた。
「そうだね」
「あたしも飲もうかな」結菜が言った。「本当はコーヒーが飲みたいけど我慢だね」
綾香も甘いコーヒーが飲みたい。
「もう少しの辛抱。現実世界に戻ったら美味しいカフェオレが飲みたい」
由香里は呟いた。
「やっぱり、帰りたいよね……」
(喉を潤せば冷静にものごとを考えられるだろうか……)
由香里は鍋に歩み寄った。そのとき、鍋に溜まった雨水に違和感を覚えた。訝し気な表情を浮かべて、水面を見つめた。そこには投影された空が見える。鏡のように空を映す水面を指先で弾いてみると、ゆっくりと波紋が広がっていった。その瞬間、はっとした由香里は、何度も水面を弾いた。
水面を弾いている由香里の行動が理解できない一同は首を傾げた。
「何?」綾香が訊く。「こんどはどうしたの?」
「どうして……」由香里は悲鳴に近い声を上げた。「どうして! うそ! うそだぁ!」
突然、大声を上げた由香里に一同は驚いた。
綾香は目を見開く。
「なんなの?」
由香里が何に対して驚愕したのかはわからない。昨日から様子がおかしいと思っていた美紅は、由香里を強く抱きしめた。
「落ち着いて!」
取り乱した由香里は鍋を指さした。
「水面に、水面に!」
由香里は水面に何を見たのか……一同は鍋の中を覗いた。
遥か遠くの空が映るふつうの水面。取り乱すようなものは何ひとつ見えない。
自分たちには見えないだけで由香里には見えるものはなんだろう……。
はっとした道子が由香里に訊く。
「まさか、幽霊が見えたの?」
「幽霊?」号泣する由香里。「そうだよ! 幽霊だよ! 幽霊なんだよ!」語気を強めて “幽霊” を強調した。
一同は目を見開いた。
恵が怯えた表情で周囲を見回した。
「うそでしょ? 幽霊なんて……本当に見えたの?」
恐怖心から道子の声が震える。
「霊感の強い由香里なら見えてもおかしくない。だって……あれだけのひとが墜落事故で死んだんだから……」
美紅は由香里を抱きしめたまま言う。
「乗客全員があの時間に死ぬ運命のひとたちだったとはいえ、あんな死に方はひどすぎるもの。
きっと……この島にはたくさんの霊体が浮遊してるんだよ」
美紅の腕の中で身震いする由香里は、もう一度、空が映る水面を見てから発狂した。そのあと、勢いよく鍋をひっくり返した。周囲に水飛沫が飛ぶ。驚いている一同を余所に、こんどは砂浜の上に放置したコップを拾い上げた。
「これは……」由香里はコップの側面を見て動揺した。「そんな……こんなことって……」
美紅は由香里に声をかけた。
「大丈夫?」
綾香は由香里を訝し気に見つめた。
「コップがどうかしたの?」
由香里はコップを突き出した。
「見て! 見てよ!」
コップはどこから見ても発見時と変わらない。これがいったいなんだというのか。
「白い無地の傷だらけのコップ……」綾香は見たとおりに答えた。「それが何?」
コップを確認した由香里は、首を横に振った。
「無地? これが無地に見えるの? うそでしょ?」
由香里はいったいどうしてしまったのだろう? 綾香は訝し気な表情を浮かべた。
「だって、見つけたときからそうじゃん」
由香里は声を震わせて言った。
「きのうまでは無地だった。いまは……いまは……」
綾香は由香里に言った。
「きのうまで無地だったのに、いきなり柄が現れるわけがないよ」
はっとした由香里は、コップを放り投げて、容器に駆け寄った。
綾香は、砂浜に転がったコップを拾い上げた。全員でコップを確認する。やはり、発見時と変わらない。
こんどは容器を確認した由香里は号泣した。
「こんなのってない! こんなことって……ひどい、ひどすぎるよ!」
何がひどいのか? 由香里が泣く理由がわからない。
斗真が言った。
「容器にも何か見えるのかな?」
綾香は首を傾げた。
「さぁ……」
由香里に歩を進めた一同は、容器を確認した。だが、これもコップと同様に発見時と同じだ。怯える要素はひとつもない。
由香里の言動に不安を感じた健が言った。
「暑さと疲労のせいで幻覚が見え始めてるんだよ。校内でも、理沙の顔が衰弱して見えるって言ってたし」
「ちがう! ちがう! あたしはまともよ! そうしてみんなには何も見えないの? 容器に……容器に!」幻覚症状を否定した由香里は、一同に容器を向けた。「ほら、見てよ!」
綾香が言った。
「ごめんね、由香里。あたしたちには何も見えない。健じゃないけど、幻覚が見えてるんだよ」
「どうしてあたしにしか見えないの?」由香里は泣き叫んだ。「こんな結末、望んでなかった! 助けて! 誰か、あたしを、助けて!」
綾香は、尋常ではない由香里を落ち着かせようとした。
「しっかりして! 気を強く持たなきゃ、死神の思う壺だよ!」
由香里は、綾香の肩を強く掴んで前後に揺さぶった。
「ちがう! ちがう! しっかりするのは綾香のほうだよ! お願いだよ、現実を見て! それが真実なの! 真実は現実なの! こんなの綾香じゃない!」
綾香は、由香里の必死な表情が怖くなり、手を振り払った。
「放して!」
(なんなの? どうしたっていうの?)
「わかるよ、みんなの気持ち。あたしにも夢がある。平凡だけど、夢がある。綾香は弁護士になりたいんだよね。だけど……だからこそ……あたしたちは……」由香里は言葉の途中で躊躇した。
綾香には、由香里の言いたいことがわからない。
「何が言いたいの? あたしにもみんなにもわかるように説明して」
由香里は重苦しいため息をついた。カラクリの答えはひとりひとりが理解しないと意味がない、と言っていた小夜子の言葉の意味をたったいま理解した。
「だからか……そうだったんだ……」
ひとりで納得している由香里に綾香は訊いた。
「カラクリが……まさか……。由香里、どうなの? 答えて」
「あたしだけが理解しても、みんなにはカラクリは解けない……解けないの。三十年前と現在のちがいなんてない。けっきょくは同じなの。悲しみの無料ツアーだった……」と答えた由香里は、一同に背を向けて、ふらつきながら歩き始めた。
綾香は由香里に訊く。
「どこに行くの?」
由香里は歩きながら言った。
「ひとりになりたいから……あたしたちがいた場所に。頭の中を整理したい」
いまの由香里は、暑さと疲労のせいで頭が混乱しているのだろう。それなら、本人が望むように、しばらくのあいだひとりにしてあげよう。
「わかったよ」
恵が綾香に訊く。
「ねぇ……由香里ってカラクリの答えがわかったわけじゃないよね?」
綾香は否定する。
「一瞬そうかもって思ったけど……ちがうんじゃないかな。この島に来てから五日目なんだよ。あたしだって気が狂いそうだし、平常心を保つのは難しい。だから由香里の気持ちもわかる」
美紅は心配する。
「だけど、あんな由香里は初めてだよ」
道子が言った。
「大丈夫。少し休んだらいつもどおりの由香里に戻るよ」
光流が言った。
「ひとりになりたいって言ってるけど、誰か一緒にいてあげたほうがいいんじゃないのか?」
恵が光流に言った。
「いまの由香里には全員が信用できないんだよ。少し時間をあげたほうがいい」
泣きながら砂浜を歩いていた由香里は、女子が定位置にしていた場所へ辿り着き、腰を下ろした。
熱を帯びた砂を触ってから自分の手のひらを見つめた。
(感覚はたしかにあるのに。お願い、お願いだよ! あたしの考えがまちがいであってほしい! 怖すぎる、こんなことあるはずない!)
涙が砂浜に滴り落ちた、そのとき―――指先が金色の光を放った。
驚いた由香里の呼吸が乱れた。だが、ほんの一瞬で指先から光が消えた。
やはり、自分はみんなが言うように幻覚を見ているのだろうか? 気づいてしまったカラクリの答えも幻覚によるものなのだろうか? だとしたら、純希も幻覚を見ていたことになる。
(怖い! 怖いよ! わからない! もうわからない!)
恐怖に身震いする由香里は、空を見上げることができなかった。幻覚を見ているのだとしても、太陽とはちがう光が見えるはずだ。そしてカラクリの答えが正解だった場合もまた然り。空を見るのが怖い。あれほど待ち望んでいたゲートが、いまでは恐怖でしかなかった。
虚ろな目の明彦が言っていた言葉を思い出し、小さな肩を震わせて号泣した。
「‟危険な終焉” の意味がようやくわかったよ。残酷すぎる……」
そのとき、「由香里……由香里……」と、優しい口調で名前を呼ぶ声が後方から聞こえた。
その声に懐かしさを感じたので、咄嗟に振り返って確認した。すると、ジャングルの中に大好きなひとの姿を発見した。そのひとは手招きして由香里を呼んでいる。
これは幻覚だろうか……幻覚でもかまわない……誰かに縋りたい……。
悄然とした表情でジャングルに歩を進めた由香里は、大好きなひとと茂みの中へ消えていった―――
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