最後の夜討ち

綾上すみ

第1話

 飯岡純(いいおかじゅん)は暗い社用車の中、恋人の作ったサンドイッチを頬張った。午前は一時を回ったところだった。

 社用車の遠く向かいに、取材相手が訪れるであろう家がある。フロントガラスからそちらを眺めながら、全く動きのない、深夜の住宅街の静けさに身を投じている自分がふと寂しくなる。二月の風は冷たく車内にしみこむが、エンジンをふかすわけにもいかない。

 そこで小袋を取り出した。取材で東京に用があり、たまたま純の家に泊まりに来ていた相場健人(あいばけんと)に、いつもコンビニ弁当じゃ体に悪いから、と渡されたものだ。

 台所を借りる、と言った健人は、器用なもので、卵サンドとサクサクのハムカツサンド、それから果物を挟んだものの三つをてきぱきと作った。その様子を、純は放心して眺めていた。食事に気を配ることなど、大学を出て一人暮らしを始めて以来していなかった。

 卵サンドを口に含むと、温かく優しい味がした。喉の渇きのせいか、パンを飲み込むのに時間がかかる。あまり水は飲みたくなかった。トイレが近くなる。携帯トイレがあるが、できれば使いたくない。

 折からの腹痛が強まっていた。しぶしぶペットボトルの水で、鎮痛剤を流し込む。

 男社会の新聞社。男性では考えにくいところでの気苦労を、せめて少しは知る努力をしてほしいという声が女性記者から上がっている。純にとっても、他人ごとではない。

 しかし彼女はこれまで、その男社会に適応する道を選んできた。女であることを捨てたい思いで、日々を過ごしている。

 サンドイッチを食べ終えて、すこし経過した。ターゲットはまだ現れず、少しずつ押し寄せる眠気との戦い、という様相を呈してくる。昼間に大好きな健人がいて会話が弾み、デートも重ねて、今日は忙しかった。

 健人とはもう長いし、落ち着いたら入籍するつもりでいる。だからこの取材が全国紙記者としての順が扱う最後の重大事件となるだろう。両親の実家にはもう挨拶をしたし、健人の働く東海地方へと異動願も出してある。それが通るのかはわからないが。

 じわじわと寒さが体をむしばんでいくのを感じながら、純はひたすら待った。

 今日も何も起きないのか――

 午前六時。住宅の明かりはすべて消えている。そろそろ潮時だった。

 張り込みも、今日あたりまでが限界だ。とある国会議員の予算の不正利用の疑いがあり、調査を続けているが、それも先月のことで、一度は他紙に抜かれたネタだ。会社に対しては後追いで深い情報を、という大義名分で取材を続けているものの、それでもこの手の記事は生ものである。

 純がこの取材にこだわるのには、二つ理由があった。

 一つには、東京勤務で最後の特ダネ取材となるかもしれないこと。異動が認められれば地方勤務になり、しばらくは純の取り組みたいような、社会的政治的影響の大きな取材はできなくなるだろう。それは名残惜しいことだった。

 二つ目は、彼女の個人的正義感から、ふたり――主に女に対し制裁を加えたいからだった。

 議員は妻が単身赴任で出先にいるのをいいことに、家に若い女を連れ込んでいるという噂もある。その件について記事を立て踏み込むのはプライバシー上問題があるが、純にはその市議と女の行動を、取材という行動で問いただしたいという思いがある。特に女に対して。

 何度か顔を合わせていた。そのたび苦虫を噛み潰したような顔をされ、しぶしぶ引き下がって来た。

 権力を使っての女遊びが、男性の欲求的に楽しい、というのはなんとなく理解できた。しかしその権力にすりより、体などを差し出して生活をすることが情けなくないのか。身一つで生計を立てる純のプライドが、そう言った女の存在を受け入れることは難しかった。

 目的の一軒家に、議員は滅多に帰らないらしい。こちらに気づいているのかどうか分からないが、最近は同じく都内の別荘を拠点としているらしかった。もぬけの殻なのか――すでに女はいないのかもしれない。

 そこで、部屋の明かりがついた。気づかれている。

 これで、最後の夜討ちもおじゃんだ。純はいらだつ思いを込めて舌打ちし、荒々しくエンジンを駆動させる。

 それを阻止するように、家からバタバタと飛び出してきたのは――期待外れ、若い女性だった。

 二十代後半、自分と同年代に見える。踵のつぶれた靴に、ピンクのパジャマ姿が瀟洒な住宅街に不釣り合いだ。しかし、そうした格好をしていても、彼女が美人であることは一目瞭然で、美しい気品は無機質な住宅の群れに負けていない。

 その彼女に、行く手を阻むように仁王立ちされ、純は観念して車を降りる。

「今日はあの人は来ないわ――出直してきなさい」

 心底いらだった表情が純に突き刺さった。

「そうでしたか、ではまたの機会に……」

 純は慇懃に言って、

「すみませんが、どいてもらえますか」

「どいてあげるけれど、その前に話を聴いてもらおうかしら? おそらく私を見下しているであろう、あなたに」

 記者という立場上、純は反発心をぐっとこらえ、目顔で先を促す。これまでの記者生活で、無理やりにでも身につけさせられた表情。

「私は自分が恵まれていると思うのよ。貴方は自分が恵まれていると思う?」

「ええ、人並みには」

 波風を立てないよう言葉を選んだ。が、目の前の女は突如激高して、

「そうは思えないわ! あなた、私のことを恵まれないと思っているんでしょう。きっとそうよ、そう言う目をしている」

「まさか、そんなことは」

 女の表情に鬼気迫るものがあり、胸につかえている感情を揺さぶり起こした。私は――確かにこの女を見下している。

 純が彼女の姿を見たのは、今回が初めてではない。この前はテレビ出演で有名な都議会議員の家に滑り込んでいた。一人ではまともに食べていけないような、スキルのない人間なのだろう、だから金持ちに寄生を繰り返す。そうして一生、その場しのぎのように生きていくのだ。

 女に引き換え、純は自分に確固たる能力があることを自負していた。堅実に勉強して難関大を出、全国紙の新聞記者になるという夢をかなえられた。それは自分の努力で勝ち取ったことだ。男にすがったわけではない。親を過度に頼ったわけでもない。これは自分が勝ちえた地位だ。

「そこまでは言いませんよ――あなたのような生活は、どうかとは思いますけど」

 腹の内を隠しながら、純は言った。それを無視しながら女は、

「いい、私の目からすれば、貴方のほうが全然恵まれていないわ。私には権力者も虜にするだけの美貌と魅力があるのよ。私のほうが恵まれているの」

 そうとまで言いきることに、確かに挑発の意味はあっただろう。しかし純は頭に来ており、そこにまで考えが至らず、つい、

「私にも、彼氏の一人ぐらいはいますよ」

 そう返してしまった。すぐさま女は、

「滑稽だわ。結局は自分の女らしさを、認めてほしいわけじゃない。男にすがりたいんじゃない」

「そう言うのではないと思います。単純に、私は仕事を続けるつもりでいますし、交際する男女は対等だと思います」

「――対等? 笑わせるわね。普段は男に虐げられていることにコンプレックスを持っているんでしょう。それで、恋愛においてくらい、彼らと対等でいたいと思っている。違う?」

「……」

「あのね、その点で、私は恵まれていると言っているの。男を手玉にとっているという点で、私はあなたなんかより数段価値がある。貴方も女として強く生きていると思っているんだろうけれど、大間違い。私のほうが、よっぽど女らしくしたたかに生きているのよ」


 忸怩たる思いで車を走らせたが、悩みの種がこんがらがりすぎて、何で苦しんでいるのか分からなかった。。出社し、原稿の体裁を何とか整えようと夜勤のキャップに相談した。とりあえず書いてみろという指示が出て、文章を書き進めるが、自分でも駄文を連ねていると分かった。案の定、キャップに提出した記事案はすべて却下された。このネタはもちろん他紙を出し抜くべく取材していたが、担当は社内でも自分だけだ。もう書けないだろう。東京支社でおそらく最後の優良記事を書くこともならず、私は三月の異動を待つことになる。

 自宅のマンションに帰ると、意に反して健人は起きていた。エアコンをずっとつけていたらしく、温かい空気が頬を撫でる。

「お疲れ様、今日は疲れてそうだね」

 健人は純の表情から一瞬でそう判断して、ソファに座らせ、毛布を頭にかけた。

「忙しいんだろうけど、ゆっくりしててね」

「そっちも忙しんでしょう。今から取材?」

「かなわないな」

 健人はふにゃりと微笑みながら、いつものように鼻歌まじりに掃除をはじめた。

 家のことに協力的で、むしろ家事のスキルは健人のほうが上だろう。社会人になって初めてできた恋人だったので、男女間でそれが普通のことなのか純には判断できなかった。

 一年も一緒にいるのよ、と純は心の中でツッコミを入れる。

 なんとなく、これは男女の立場が逆なのではないか、という思いに駆られることがある。そう言う気分に浸るとき、思ってもないほどの幸福感が身に染みるのだった――しかし。

 本当は、強く抱きしめてもらいたかった。しかし、彼にも仕事がある。

 悔しさを引き立たせ、純は枕を涙で濡らした。

 うまく眠りに沈み込めない中で、思い出される光景があった。その中に健人の姿もある。災害の取材地で交通網がストップし、被災者とともに過ごした一夜――


 ○ ○ ○


 新人時代が終わってすぐ、東海地方で大きな土砂災害があった。おりしも東海部に人手が足りていない時期で、東京支社からも援護要請が入っていた。上の心配をおしのけ、女の身ながら取材に名乗りを上げた。ちょうど新人時代、東海地方の県庁所在地に配属されていたよしみもある。

 東京から車を走らせて被災地近くまで赴き、途中から車の燃料の節約の関係で、協定を結んだ地方誌の面々と同じ車に乗り込んで現地に向かった。

 被害に遭った集落には、古い戸建てが五十軒ほど。集落に通じる道路は一本だけだった。押しつぶされた瓦礫の山や、土砂に飲まれ倒壊した建物が混然と灰色をなす中で、露出した木組みの白が目に痛々しい。悲壮な光景に息をのみながら、地方紙から来ている二人の男の内の一人が気になった。どこか呑気に構えている節がある。

「大きな事件ってはじめてなんですよね、飯岡さんも、よろしくお願いします」

 事の重大さに、あまり気づいていない様子だった。

「さすがに他紙の人間に手を貸している余裕はないけれど」

 皮肉を込めていったのだが、全く意に介している様子がなかった。

 現地の様子を確かめ、集落に一つだけある公民館に避難している被災者に話を聴いた。そこで、再び雨が降り始めた。

 その時点で引き返すべきだった。携帯の電波は圏外の地域だったので、情報収集に手間取りがあった。気づくと、車線の通行止めの情報が入ってきた。少なく見積もっても、今晩はこの集落で一夜を過ごさなければならないらしい。

 結局、各誌の取材班は仕事を終えると、公民館での寒い一夜を過ごした。折からの冷え性で震えているのに、数少ない毛布を投げてくれたのが、健人だった。

「俺男だし、大学時代駅伝部で寒さにも慣れてますんで」

 呑気なものだが、先輩を敬う態度が純には気に入った。話を聞いていると、体育大を出て就職先を考えて困り、新聞業界は第二志望だったという。いまどきそれは珍しいことでもないが、なんとなく自分の熱意を下に見られているように、純は勝手に感じた。

 そうしながら、男性とするプライベートな会話自体、いつ以来だろうかと振り返っていた。

 夜になって、再び雨脚が強くなった。地面が揺らぐ轟音がまた鳴り響き、パニックになった。気づくと純は健人に手を握られていた。

 まさに、吊り橋効果の恋。純たちの関係はそこから始まった。


 ○ ○ ○


 しばらく泥のような眠りに落ち、身づくろいもなおざりに、また出社した。わが社の朝刊一面を見て、私は目を疑った。

『○○衆議、予算不正利用 遊興費改ざん』

 誰が書いたのか。詮索することも嫌だったが、どうやら隣の班の須藤(すどう)らしかった。敵を欺くにはまず味方から、と言う。純に自分以外の記者が取材していたことについて異論はなかった。しかし、胸の中のわだかまりは最高潮だった。須藤は自分より一つ下。若手の中では確かに優秀な記者だったが、一面トップを飾るには若すぎるし、記事の質もまだ粗い。

 ――須藤が男だからか。

 もちろん純の憶測にすぎないが、一度胸に覚えたむかつきを、その日じゅう忘れることができなかった。


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