ホルスト【組曲「惑星」】より【金星、平和をもたらす者】

それは、不思議な空間だった。


満点の星空の中、天の川の床を歩いているような感覚。


ただただ美しく、体もふわふわと軽い。


歩くだけで体がゆっくりと弾んでしまう。


その感覚は水中の中のようだったが、ここは紛う事なく満点の星空の流れだ。


何故か、そんな強い確信があった。


彼はふわふわと、そんな事はしていないのだがまるでスキップするように天の川の歩道を進む。


輝く星から文字通りキラキラと耳心地のいい音が響いていた。




そして、そう長くなく道を行くと、天の川の道の先でブランコに乗る後ろ姿が見えた。


斜め後ろから見えるその人物は、ちらりと見える横顔だけでもこの星空に負けない美しさを誇っていた。


彼女に近付くにつれて光が濃くなる天の川もまた、彼女の美しさを際立たせていた。


彼女が大きく漕ぐブランコは、彼の足取りと同じように重力を忘れたようにゆっくりと前へ後ろへと一定の間隔で揺れている。


彼女の長く、緩いウェーブの掛かった髪も柔らかそうに揺れていて、まるで黄金を溶かしたように輝いていた。


ブランコを漕ぐ為に蹴り上げる彼女の足は指先まで優雅で、彼女の足に当たった星々は小さな音を立てて流れ星になる。


全てがスローモーションのようなこの美しい世界で、彼は、長い睫毛を伏せて微笑んで遊ぶ彼女に歩み寄った。


駆け寄ろうとしたが、走ると跳ね過ぎてしまい、結局歩いた方が速かったのだ。


彼女に触れたい気持ちが制御出来ない程に湧き上がり、彼は目の前で輝く星を掻き分ける。




また、彼女が蹴り上げた星が尾を引いて流れ星となり、彼が手で払った星は重力を思い出したような速度で天の川の道へと軽い音を立てて落ちる。




彼女に少し近付くと、歌が聞こえた。


美しく声と旋律で、愛を歌っている。


まだ小さくとだが、断片的に聞き取れる歌詞からそれを察した。


そして、この星々のキラキラと輝く音が彼女の歌の為の伴奏なのだと気付く。


この空間は彼女の為のものなのだと。




いや、彼女と〝私〟の為のものなのかもしれない、と。




彼はそれが自信過剰だと頭を過る事すらなく考える。


彼は、何度も何度も星を振り払った。


星は、幾つも幾つも天の川へと落ちて行く。


彼のお陰で、天の川が更に濃くなる。


彼は彼女に必死に近付こうとしながらも声は出さなかった。


無心になっていたからだろうか。


彼は中々縮まらない彼女との距離を、星空を泳ぐように手をバタつかせて歩く。


彼女の歌が少しずつ鮮明に聞こえるようになってきて、彼女の美しさもまた鮮明になる。




愛を、そして平和を歌う彼女は今までで一番足を振り上げ、そして高らかに歌った。




その姿に、愛と美しさの化身のようだと彼は思う。


彼女はそれからブランコを漕ぐ事を止め、ブランコは徐々に揺れを小さくしていく。


彼女は尚も歌っていたが、それは鼻歌のような細やかなもので、もう歌詞は聞こえなかった。


ブランコの揺れが完全になくなった頃、彼はようやく彼女の側に辿り着いた。


その場に留まっている彼女は簡単に触れられそうだ。


彼は、ゆっくりと手を伸ばす。


彼女の細やかな鼻歌。


星々の細やかなな伴奏。


そして、高鳴る自分の胸。


ああ、手が届く。


彼女に触れられる。


ああ、ああ。




彼は、目を開ける。


ぼんやりとした頭と視界の中、共に戦った部下たちの歓喜の声が、曇って聞こえた。


火屋の中で揺れている霞んだ火が、星のように美しい。


しばらくして、彼は攻城戦で勝利し、帰還しようとした矢先に倒れたのだと知る。


部下たちの懸命な手当ての末に生き延びたのだが、奇跡に近い事だと衛生兵が泣いていた。




そして、後になって思うのだ。


あの星空の世界、あの美しい女性は何者だったのだろうかと。


あの時は愛を主題とした歌だと信じて疑わなかったが、思い返せばあれは、平和を説く歌だった。


もし、彼女に触れていたらどうなったのだろうか。


あの平和を説く彼女に触れれば。




彼女は、自分を生き返らせてくれた女神なのだろうか。


それとも、と。


そう、自分があの世界に降り立った場所から彼女までは天の川が敷かれていて、彼女に近づく程に濃くなるそれは。


自分が彼女に近付こうと藻掻く程に濃くなっていたあれは。




彼女に近付こうと藻掻いた者が、そして触れられた者が、一体どれだけ居たのだろうか。




戦争で勝利した者が、そのまま傷に毒されて息絶える事は珍しくない。


もしもあれが彼をあの世界から逃さない為の誘惑だったのなら、きっと彼女の目的はただ一つだ。


この血に塗れた存在をこの世から消そうとしたのだ。


〝平和をもたらす者〟として。


その方が、女神らしいかもしれない。


だが、そう思っても彼はこの記憶に恐怖は覚えなかった。


平和を愛する女神の気持ちが、分かるからかもしれない。

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