そして夜が明け
潮風に吹かれ、遠く響く海鳥の声を聞くともなしに聞きながら、シルヴァはそっと金髪を撫でる。よくこんなひどい怪我で動き回っていたものだ。安全を確認した後、カインは倒れるようにして眠り込んでしまった。
目の前では海兵たちが忙しく走り回っている。不要な壁や床から木材をはずし、船底にあいた穴をふさぐのだ。今はまだ海が凍っているが、やがて日が高くなり気温が上がれば溶けてしまうだろう。それまでに修復を終えなければ、せっかく助かった命がまさに水の泡だ。
隣に座って休んでいたカノンが、熟睡しているカインを見て苦笑した。
「よほど、気を許していらっしゃるのね」
シルヴァのひざ枕に甘え、完全に脱力している。よく訓練されたカインならば少しの物音でも目を覚ますだろうに、階下から釘を打つ音と振動が絶えず伝わってくるにも関わらず、母に抱かれた子のようにすやすやと寝息を立てていた。
「……あの、カノン様」
シルヴァは手を止め、言いかけた言葉を飲み込み、代わりにため息をつく。カノンは流れる雲をぼんやり見つめて、静かに続きを待った。
「あの……私、魔法のことはよくわからないんですが……その、カイン様が無意識に魔法を使うって、本当ですか?」
嵐を呼び、空間を越え、海を凍らせた。それほどの大技を、しかしカインははっきりと覚えていないらしい。
ふむ、とカノンは考え、できるだけわかりやすく説明した。
「現在、ウェーザーで使用されている一般的な魔法は、かつて賢王アレン様が体系的にまとめられたもので、魔法陣や呪文の詠唱で効果を発揮するの」
トマ家の離れ屋で拾った紙片を取り出す。
「あ、それ……」
「よく書けているわね。こういった魔法陣を使えば、誰でもほぼ同じ効果が得られるわ。……規格外のひともいるけれど」
カインのことだ。シルヴァは、グラスの水を凍らせようとして、腕とテーブルまで氷漬けにしてしまったことを思い出し、笑う。
「そしてもう一つ、カイン様がバラを咲かせた時や、魔物を焼き払った時に使った魔法……ああ、シルヴァさんも風の魔法を使っていたわね……私たちはあれを祈りと呼んでいるの」
祈りを込めて精霊たちに直接呼びかけ、奇跡を起こす。その効果は術者の力によって異なり、力の源である精神、すなわち心の良し悪しで奇跡にも呪いにもなる不安定なものだ。扱いが難しいため、今ではあまり使われていない。
「どちらにしても、術を発動させるためにはきっかけが必要なのに……カイン様がここに移動した時は、何もきっかけがなかった。おそらく、シルヴァさんがさらわれて嵐を呼んだ時にも」
あの時、息を吸うことさえできずに青ざめていたカインが、精霊たちを呼べるはずがない。
「どういう仕組みかわからないけれど、カイン様は魔法とも祈りとも違う術を、無意識に使ってるんじゃないかしら。たとえば……予言とか」
行く先々で災害が起こるのではなく、無意識に災害を予知して先回りしているのだとしたら。カインの性格からして、その方が辻褄が合うように思う。
「……時を……止めたり、とか?」
「可能性は、否定できないわね」
シルヴァは視線を落とし、再び金髪を撫でる。すべらかな金糸は朝日を浴びてきらめき、その光に惹かれて集まった精霊たちが傷を癒している。あるいは、カインが無意識に治しているのだろうか。
もし、精霊の契約など存在していなかったら。
ある日突然、不思議な術の効力が消えてしまったら。
シルヴァの不安を慮り、カノンは努めて明るく振る舞った。
「今はあれこれ考えるよりも、二人で楽しく過ごせばいいと思うの。ベリンダにもまた遊びにいらして。温泉が出たことは、カイン様から聞いてくれたかしら?」
シルヴァはにっこり笑った。たしかに、悩んで憂鬱になるのは性分ではない。
「カノン様、いつも助けてくださってありがとうございます」
「ふふ、いいのよ」
その比でないほど、カインには助けられているのだから。
金槌の音が止み、船体がぐらりと大きく揺れる。いよいよ海水が溶けはじめたようだ。どうにか修理はまにあったらしく、古い商船は無事に姿勢を保っていた。
とはいえ舵は効かず、帆は破れ役に立たない。さて、どうしたものか。
後方から空砲が上がった。救難信号だ。海軍基地は魔物に襲われ機能していないため、通りすがりの船に期待するしかない。
ふと視界が暗くなり、頭上から声が降る。
「あ、えっと……父を見ませんでした?」
カノンとシルヴァは顔を上げ、見ていないと首を振ると、セリオはまいったなとつぶやきながら立ち去ろうとした。
「おいこら、セリオ! 言うことがあるだろう!」
低い声にすごまれ、セリオは飛び上がる。寝ているものと思っていたカインがきっと睨みつけていた。あわてて平伏す。
「し、シルヴァさん、あの、申し訳ありません……!」
「へ? あ、ああ……だって操られてたんだもん、仕方ないよ。でもセリオさん、がんばって抵抗してくれてたでしょ?」
「だって、男の子を襲っているような気がして……」
「ねえ、あやまる気あるの?」
シルヴァは顔を真っ赤にしてぷんとふくれた。まあ、気持ちはわからないでもないとカインがうなずく。
「……ブラスは貨物室にいる。俺も行ってやりたいが、まだ動けん。よくやったと伝えてくれ」
欠伸まじりにそれだけ言うと、カインは目を閉じた。
今にも腐り落ちそうな階段を慎重に降りる。魔物のせいで大穴のあいた甲板から差し込む光が、舞い散る埃や木くずをきらきらと照らした。
壁がはがされ、木箱や棚も材木の代わりに使われ、広々とした貨物室に悲しみだけが充満している。床には犠牲になった海兵たちが横たえられ、ブラス・トマはそれを見下ろしじっと佇んでいた。
「……だから僕は、海軍なんて嫌いなんだ」
正義だとか平和だとかを掲げ、待っている家族の心配をよそに勝手に命を落とす。せっかく愛するものを守っても、死んでしまっては意味がないではないか。
「いい加減、引退したらどうです?」
「……俺が引退したら、若いやつらにこんな思いをさせてしまう」
守ると誓ったのに。誰も傷付けたり傷付けさせたりしないと誓ったのに。現実はどうだ。
まんまと魔物の術にかかり、正気を失い、仲間たちを危険にさらし、死なせてしまった。
疲れた頬に涙が伝う。
「彼らは覚悟して志願したんでしょう? あのね、僕の父親はあなただけで、母さんにとっては最愛のひとなんです。こんなふうに、知らないところで死んでほしくないんですよ」
ばかやろう、としゃがれた声が怒鳴った。
「こんなふうに死んでいい命なんか、一つもねえんだよ……!」
セリオはため息をつく。静かに眠る海の戦士たちは、自分と同じか少し若い。彼らの勇気を讃えて黙祷を捧げた。
「……カイン様が、よくやったとおっしゃっていました。僕も、あなたの勇姿は初めて見ましたね。あんなのを子供の頃に見ていたら……海軍に憧れたかもしれない」
ブラスははっと顔を上げた。
「まあ、僕は臆病ですから、とても志願なんてできなかったけど」
なんと不器用でわかりにくい愛情だろう。父がその信念を押し付けるようなことは一度もなかった。自由に人生を選ばせてくれたのだ。気付くのに、こんなに時間がかかってしまった。
ブラスは照れ隠しか、わざと大きな音を立てて鼻をすする。
「司令官! 救援が来ました!」
急に頭上が騒がしくなる。
感傷にひたるのはこれくらいにして、さあ、生存者を無事に帰還させねば。
ブラスは制帽をかぶり直し、階段を上る。セリオは犠牲者たちに敬礼してから、ブラスの後に続いた。
強い日差しが照りつけ、次第に夏の陽気を取り戻す。シャツはじっとり汗ばむほどに、海面に浮かぶ氷塊もすっかり溶けて消えていた。
穏やかな波、さわやかな潮風、水平線を見遣るとトマの漁船がずらりと並んでいる。昨夜の嵐で漁場は荒れてしまっただろうに、なぜ。海兵たちの疑問をうち消すように、信号弾が上がった。
「おーい、無事かー?」
「アレシアさんに頼まれてなー」
漁師たちは大きく手を振りながら、慎重に漁船を進めて横付けする。助かったと、皆ほっと息をついた。
乗り移った漁師たちは、予想以上の惨状に目を見張る。
「こりゃ、ひどい」
「よく沈まなかったな」
「けが人はどこだ? 動かせるか?」
彼らは手際よく生存者を漁船に避難させ、怪我人の手当てをし、あらかじめ用意していた食事を振る舞った。
「あは。おじさん達にごちそうしてもらうのは二回めだね」
にっこり笑って魚と根菜を煮込んだスープを味わうのは、黒髪の少年のような少女。とうてい信じられないが、あの黄金の王の運命の乙女だ。漁師たちは日陰に椅子を用意して丁重にもてなす。
「また間に合わせのもので申し訳ありません」
「え、すっごくおいしいよ。ありがとう」
その幸せそうな顔に、疲れきっていた海兵たちさえ思わず表情をゆるめた。
救助が済むと、傷んだ商船にロープをかけて大型の漁船がゆっくりと牽引する。彼らはそこに眠る者たちのことも知らされていた。
頭上に弧を描く海鳥の声が騒々しい。帰ってきたのだと実感する。桟橋でアレシアと街の人々がほっと胸を撫でおろし、涙を拭うのが見えた。
「カノン様の遠見の術で……これはいけないと思って、みんなにお願いして……」
本当ならば愛する夫と息子を抱きしめ、無事を喜びたいところだが、アレシアはぐっと堪えてそれだけを告げた。
ブラスはそうかと小さくうなずき、帽子をとって犠牲者の家族に頭を下げた。老いた両親、恋人、あるいは赤ん坊を抱いた若い母親……覚悟していたとはいえ、悲しみをぬぐえない。
「……彼らは勇敢に戦い、海の平和を守ってくれました。感謝しています」
王女カノン・ラック・ウェーザーが敬礼すると、彼らは涙を浮かべたままくちびるを噛み、それに倣った。
シルヴァとセリオに支えられ、カインは用意された馬車に乗り込む。折れたあばらが痛むのか、苦しそうに胸元を押さえて息を吐いた。
「とにかく、早く着替えたいんだよ。ちくしょう、化物め。生臭い手でつかみやがって」
シルヴァ達の心配をよそに、汚れたシャツをつまんで毒づいた。
セリオは窓を開け、海兵とともに基地に向かうブラスの背に向かって叫ぶ。
「休みにはちゃんと帰ってきてくださいね。あなたの家なんだから」
振り返らずに、そっと手を挙げ返事の代わりとした。
「カノン、おまえも休んでいくか? 迎えを呼んでやる」
「よろしいですか。じつは小間使いをベリンダに帰してしまったので」
カノンも同乗し、背もたれに体重を預けてひと心地つく。窓に映る顔は寝不足で腫れぼったく、化粧が落ちていつもより幼く見えた。
「また、おまえに世話になってしまったな」
「高くつきますわよ」
カインはやれやれと肩をすくめる。借りは早く返してしまいたいものだ。
水害が懸念された市街地はすっかり地面が乾き、何事もなかったように花壇の花が風に揺れる。橋も無事だ。
門の前で帰りを待っていた女中たちが、馬車を見つけるなり転がるように駆け寄ってきた。
「ああ、みなさん、ご無事で!」
「よかったです……もう、心配で、心配で……」
「ささ、どうぞ。ゆっくりおやすみくださいませ」
あれほど乱雑に散らかった部屋が、きちんと片付いている。割れた窓の代わりに吊るしたレースがちょうど日差しをさえぎり、風を通して快適だ。
着替えようとシャツを脱ぎ、ふと背後にひとの気配を感じた。
「……おまえは、また黙って男の部屋に」
「あは。包帯を替えようと思って」
いらないというカインを強引にベッドに座らせる。薬を塗る指が触れ、包帯を背の後ろで渡すたびに抱きつくような格好になり、鼻先で黒髪が揺れ……わざとだとしか思えない。
鼓動が早くなるのを気付かれないように、息を止めて目を閉じた。
「ね、カイン様……あのね、さらわれたあと、マリアンヘレスさんの記憶を見たの。海賊たちに襲われた時の。怖くて、気持ち悪くて……ね、カイン様、忘れさせて……」
少年のような容姿で時折見せる女の顔、くちびるが触れそうなほど近い。見上げる碧い瞳に捕らえられ、つい約束を破りそうになる。
「ちくしょう、おまえはときどき残酷だね!」
「え?」
驚くシルヴァの目の前で、ぱちんと指を鳴らす。シルヴァは何か言いかけたが言葉にならず、そのまま気持ちよさそうに眠りについた。
大きな声を出したせいであばらが痛む。そう、不死身であっても、痛いものは痛いのだ。
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