凍てつく心
荒れ狂う波、轟く雷鳴、呪い唄は高らかに、朽ちた商船を弄ぶ。
助けを求めるシルヴァの声は風にかき消され、否、風に運ばれかのひとの元へ。
突然の静寂。一度突き上げるような衝撃があり、それきり船の揺れが止まった。
「な……に……?」
確認しようにも、二人掛かりで押さえつけられ身動きがとれない。普段は温和なセリオもやはり男、手加減なしの力にはどうしてもかなわなかった。ぐっと首だけ起こしてあたりの様子をうかがう。
シルヴァをあざ笑う骸骨剣士たちは糸の切れた繰り人形のようにだらりと腕を落とし、驚いた魔女は声を失い全身を戦慄かせている。天を貫く無数の氷の槍。これはいったい。
ふと、身体が軽くなった。跳ねるように起き上がるシルヴァを、温かい腕が抱きしめる。息ができないほど、強く。鼻腔をくすぐる甘い香り、止め処なくあふれる涙で視界がかすんだ。
「遅いぞ。何かあれば俺を呼べと言っただろう……」
耳元でささやく声に心が震える。夢中でしがみついた。が、くちびるに触れられた瞬間、ぞわりとあのおぞましい感覚がよみがえる。
獣の息遣い、首筋を這う舌、鈍い痛み……悪夢が心を蝕んでいく。
「いやっ!」
耐え切れずカインの手を払いのけ、裂けたシャツの胸元を隠した。気持ちの悪い汗がふき出し、激しい頭痛と吐き気に襲われる。驚き、肩に触れようとするカインを、身を硬くして拒んだ。
「いや……カイン様も、あ……あの海賊の血を……」
「なに?」
「マリアンヘレスさんを襲った、卑怯者たちの血を継いでるんでしょ!」
愛しているのに、こんなにも側にいたいと願っているのに、恐怖と嫌悪がそれを許さない。
「……さわらないで」
永遠かとも思えるほどの沈黙。
何も聞こえない、何も見えない、何もない、孤独と絶望……よく整った顔から表情が消えた。
『あはは、幸せな恋人たちよ、呪われろ! あはは、あは、信じた者に裏切られ、愛する者に見捨てられ、嘆き、悲しみ、憎しみ、呪え!』
再び響く呪い唄。力を得た骸骨剣士が氷の槍を砕き、からからと笑う。真夏とは思えないほどの寒さは北の大地の魔女のせいか、それとも。
カインの足元に転がる錆びたサーベルが悲しい音を立てた。
骸骨剣士はカイン達を取り囲み、半月刀を振り上げる。しかし、カインは動けない。動かない。もう、どうでもいい。
膝を落としたまま自失するカインに、嬉々とした刀が斬りかかる。
「いやあ! カイン様、逃げ…………ふ、ふふ……消えて……ちがう、だめ……ああっ!」
頭が痛い。何かが意識を支配しようとする。ああ、何も考えられない。考えたくない。そうだ、これは夢だ。目が覚めれば忘れる、悪い夢だ。
シルヴァはゆっくり瞳を閉じた。
少しの目眩、回る景色、ようやく焦点が合うと、そこは暗い船底だった。
カノンは息をひそめて慎重に辺りの様子をうかがう。
湿気を帯びた空気にはかびと鉄錆の臭いが混じり、そこかしこに漂う邪悪な気配が肌を刺す。遠見の術で見たのと同じ氷の槍が船底から伸び天井を突き破り、その頭上ではたしかに黄金の王の強大な力と凍てつく魔女の呪いがぶつかり合っていた。
(もう、魔法は控えないと……)
繰り返し大きな術を使ったせいで、かなり疲労が蓄積している。帰りの移動魔法のことを考えれば、なるべく力を温存しておきたかった。
カノンは愛用の剣を確かめ、一歩踏み出す。その足に何かが触れた。目をこらすと、人間の頭ではないか。あわてて後ずさったそこにも何かある。床中に転がる男たち。彼らの制服には見覚えがあった。トマの海兵たちだ。
首や身体中に大きな縄で締め上げられたような跡が残っている。息はあるようだが、はたして意識は。この人数がマリアンヘレスの術にかかっていたなら面倒だ。
刺激しないようにその場を離れようとしたが、低いうめき声を発しながら一人二人と起き上がる。彼らはカノンの姿を認め、狼狽した。
「……あ、あなたは!」
「まさか、そんな……」
現国王の姉であり、西の都の領主であるカノン・ラック・ウェーザー王女が、なぜ北海に漂うあやしの船に……もしやあの魔女の見せる幻影では。海兵たちは疑い身構える。しかしカノンは、内心ほっとしていた。
「休暇でトマに来ていたのだけれど、黄金の王の災厄に巻き込まれてしまったの」
憎々しげに説明する様を見て、海兵たちはなるほどと納得し、あわてて軍礼をとる。起き上がれない者は、すでに絶命しているのかもしれない。カノンは眉をひそめた。
「状況を説明してちょうだい」
彼らは互いに顔を見合わせ、朧げな記憶を懸命にたどる。
「たしか司令官の乗る巡視船が、古い商船を基地に連れ帰って……」
「何事かと警戒する間もなく……奴らが襲いかかってきて……」
「奴ら?」
「はい。巨大な烏賊か蛸の触手のようなものが、次々と……」
そこで彼らははっと何かを思い出し、警戒する。しかし周囲には無数の氷柱が伸びるのみ。
「これは……?」
乱雑に船体を突き破る氷柱に、海兵たちは青ざめる。船底に倒れていた彼らにかすりもしなかったのはまさに奇跡か。
「……カイン様が暴走なさったのよ」
うんざりするほどの、魔力。とても人間とは思えない。が、暴走しながらも、決してひとを傷つけることはない。それはなかなか気付かれにくく、海兵たちはかすかに嫌悪の色を浮かべた。
カノンは疲れを隠すように気丈に笑う。
「あなたたち、底に穴の開いた船でも航行できるかしら?」
王女の命令とあらば、できぬとは言えまい。
帰りの心配がなくなり、カノンは残る力で海兵たちの傷を癒してやった。
「さっさと魔物を退治して、帰って休みましょう」
踵を返し、甲板へと続くはしごに手を掛けた瞬間、氷の槍が砕け散った。急激に気温が下がり、それまでとは比べものにならない瘴気が噴き出す。押しつぶされそうな息苦しさ、精神力の弱い者が耐え切れずに昏倒した。
「何なの!」
闇に蠢く不気味な光、耳障りな粘着音、吐き気をもよおすほどの腐臭、怒り狂い、巨大な触手を床や壁に打ち付けているのは、幌馬車ほどもある蛸のような魔物だった。
「あ、あれが、マリアンヘレス……!」
なんと奇怪で気味の悪い姿。海兵たちはカノンを護るように展開し、早く甲板へと促した。
「あれは雑魚です!」
「親玉には亡き姫君の魂がとり憑き、手が付けられません!」
「あなたたち、それを私に押し付けようって言うのっ!」
まったく、どいつもこいつも! カノンは毒づきながらはしごを上った。
漆黒の闇を裂くいかづち、からからと不快な音を立てて笑う骸骨剣士の群れ。魔女の唄に合わせて、鈍い光を放つ半月刀がカインの頭上に振り下ろされる。
「何をしているの!」
響く金属音、カノンがすんでのところで止めた。激しいつば迫り合い、なんという力だ。次第に押され気味になる。
「カイン様、早く立ち上がって!」
後続の骸骨剣士が追い討ちをかけようとしている。かわせない。
「カイン様!」
「……もう、いいんだ」
愛しいひとに必要とされないならば、いっそ……
カノンは激昂した。怒りに任せて敵を蹴飛ばし、カインの胸ぐらをつかむ。
「五百年の想いとはその程度ですか! 愛されないから、愛さない? つまらない恋ですわね!」
どんとつき飛ばし、近くの骸骨を斬り伏せ得物を奪う。受け取れと差し出すが、反応はない。カノンは舌打ちしてそれを床に突き立てた。
傍では、シルヴァが頭を抱えて震えている。目を見開き、訳のわからないことをつぶやく様は、明らかに異様だ。背後にとり憑く黒い影が、今にも身体を乗っ取ろうと隙をうかがう。早く祓わなければ、命が危ない。
「シルヴァさん、しっかりしなさい!」
「いや、来ないで……!」
怯えるシルヴァはカノンを、現実を、全てを拒絶し、呪いを放った。
「やめて! さわらないで! なぜ? 私、何もしてないのに……消えて……私を汚すもの、は、みんな消えて……!」
「やめなさい! 気をしっかり持って!」
敵に囲まれた状況では、解呪の術も使えない。カノンは焦れる。運命の二人が、こんなところで悲しい結末を迎えるのか。
「申し訳ありません、カノン王女! ここは私が引き受けます!」
サーベルで骸骨どもをなぎ払い、カノンの前に躍り出たのは海軍司令官ブラス・トマだ。カインに殴られた衝撃で正気を取り戻したのだろう、心強い。
武人でない息子のセリオは未だのびたままだが、敵の視界からははずれている。放っておいて問題ない。
「まったく、この老いぼれ一生の不覚! 魔物に操られてはおりましたが、ことの始終はしかと見ておりました!」
ブラスは名誉挽回とばかりに骸骨剣士の群れに斬り込んでいく。年齢を感じさせない強烈な剣撃に、一端が崩れはじめた。
「運命の乙女と亡き姫の怨霊は、我々トマ一族が姫を襲った海賊だと思い込んでいるのです」
「なんですって?」
それでカノンを、いや、最愛のカインを怖れ拒むのか。
逃げようとするシルヴァを捕まえ、瞳の奥を覗き込む。懸命に、その心の深いところに語りかけた。
「シルヴァさん、聞いてちょうだい。マリアンへレスを襲ったのは別の海賊よ。トマ一族は彼女の仇を討ち、海の安全を守ると誓ってウェーザーの海軍になったの。私たちは、カイン様は、外道の子孫なんかじゃない……信じて!」
シルヴァの瞳が揺れ、苦しそうに顔を歪める。全身を痙攣させ、胸を押さえて喘いだ。
「だっ……て、トマのお屋敷、に、刀……」
「刀?」
ブラスははっとする。ようやく気付いた。骸骨どもの手にする半月刀が、客間に飾られていたものと同じだと。
「そうか、だから……! 運命の乙女よ、あれこそ賊を討ち取った証、我らが海を守ると誓った証なのです!」
サーベルを高々と掲げ、声を張り上げた。
骸骨剣士の動きが鈍る。
マリアンヘレスが困惑しているのだ。恋人に裏切られ、穢され、魔物に成り果て全てを恨み呪っていた日々は……
しめたとばかりにカノンは宙空に魔方陣を描いた。シルヴァの左手が呼応し、淡い光を放つ。カインが贈った指輪だ。愛を込められ、祝福された指輪がシルヴァに憑いたよからぬものを浄化していく。
「……カノンの言ったことは本当だ。信じてくれ」
光を取り戻した金瞳が恋人を見つめる。ためらいがちに手をとり、そっと指輪にくちづけた。
雲は晴れ、清らかな月光が二人を照らす。
『いやああああああ……!』
マリアンヘレスは藻屑の絡まる髪を振り乱し、両手で顔を覆って悲鳴をあげた。
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