記憶の欠片

 一瞬の浮遊感、助けを求めることもできないまま、昏い海の中に引き込まれる。水圧に全身の骨がきしみ、思わずシルヴァは悲鳴をあげた。と、同時に、容赦なく大量の海水が口の中に入り、苦痛と恐怖にただ混乱する。

 いったい、何が起こっているのだ。考えたところでわからない。息が苦しく、もがけばもがくほど身体を締め付ける力は強くなる。耳の奥に響く鼓動で頭が割れそうだ。

(助けて、助けて……!)

 意識が途切れる寸前に、笑う女の姿を見た気がした。


 揺れるランプの明かり、見知らぬ部屋、傷んだ木目の壁や低い天井に、赤黒いものがべっとりとこびりついている。むせかえるほどの悪臭……鉄さびのような……

 逃げなければと思うのに、ひどく身体がだるくて動けない。何も考えられない、考えたくない。いっそこのまま眠ってしまおうと目を閉じたが、乱暴に髪を掴まれ引き起こされた。

 獣のような息遣いが耳元に迫り、ざらりとした感触が首筋を這う。嫌悪感に身をよじると、獣はさらに鼻息荒くのしかかってきた。

『う……あ、やめ……いや……!』

 発した声が、自分のものではない。それでシルヴァは気付く。そうだ、これは夢だ。たちの悪い夢に違いない。

 全身に力を込め、獣の下腹を蹴り上げる。ぐうと呻いて倒れたすきに、どうにか起き上がって逃げ出した。が、獣は一人ではなかった。

 片目のもの、大きな傷のある者、義足の者、様々だが、みな赤ら顔に無精のひげを生やし、鍛え上げた筋肉が隆々としている。獣の革をなめした胸当てと腰から提げたおそろしい半月刀……まさにシルヴァが思い描いていた海賊そのものではないか。

 ぞくりと鳥肌が立つ。

 後ずさるシルヴァの腕を、獣の一人が下卑た笑みを浮かべて掴んだ。なんという力、振りほどけない。

『や……いやぁ! 誰か……っ』

 頬を殴られ目眩を起こし、再び組み伏せられる。逃げられない。

「ねえ、シルヴァ。もしも男に襲われて、どうにも逃げられないときには、諦めなさい。男が飽きるまでじっとしていなさい。無駄に暴れて、怪我をしてはだめよ」

 かつて旅の一座にいた時に、姐さんが悲しく笑って言った言葉を思い出す。

(……いやだ、姐さん、そんなの絶対にいやだよ!)

 たとえこれが夢だとしても、耐えられない。あのひと以外の男に触れられるだけで吐き気がする。

 手を伸ばし、先ほど蹴飛ばした獣の腰から刀を引き抜いた。その勢いのまま、自分の上の獣に斬りつける。獣たちの目の色が変わった。

 シルヴァも負けじと刀を構えてにらみ返す。ぼろ布のように裂かれたドレスから胸や脚がむき出しになっているが、恥じらっている場合ではなかった。次々と襲いかかる獣たちを剣舞の要領でいなし、当て身を入れる。

(お願い、ウェーザーの十二の精霊たち……私をカイン様の、黄金の王様の運命の乙女だと認めてくれるなら、どうか力を貸して……!)

 絶対に、穢されてなるものか。この身は、愛するひとに捧げると決めているのだ。

 一瞬の静寂ののち、無数の風の刃が部屋中を乱舞した。

『きゃあああああっ!』

 耳をつんざく女の悲鳴。視界が揺らぎ、鏡が割れるように偽りの景色が砕け飛び散る。


 墨で塗りつぶしたような暗闇、かすかに聞こえる潮騒、ゆらりゆらりと揺れる足元……低い雲が星を隠し、夜の空と海とを隔てるのは遠い灯台から伸びる細い光のみ。それでどうやらここが海の上なのだろうと理解した。

 頼りない光にじっと目を凝らし、辺りの様子をうかがう。朽ちた木目の壁、天井はすでに崩れ落ち、折れた柱からロープや帆布が垂れさがる。生温い風がざわりと肌を撫でた。

 獣たちの気配はない。やはりあれは夢だったのだ。シルヴァはほっと息をつき、改めて自分の姿を確かめた。いつもの男物のシャツに、丈の短いズボン、あちこちにすり傷や切り傷、青あざがあるが、たいしたことはない。

 安心したのも束の間、稲妻が走り、眼前に迫る悪鬼の形相の女を照らした。

「……ッ! ……ッ!」

 叫んだつもりが声にならない。あまりの恐怖に腰を抜かしてしりもちをつき、頭を抱えるようにして目を閉じ耳をふさいだ。

『……あと少し……あと少しで、完全に入れ替わることができたのに!』

 女がしゃべるたびに頬の肉が腐り落ち、白骨がからからと乾いた音を立てる。ふり乱す黒髪には藻屑が絡まり、眼窩にには深い闇。ぼろ布のように裂かれたドレス……に見覚えがあった。

 おずおずと顔を上げる。

「ま……マリアンヘレス……さん……?」

 できれば、これも夢であってほしい。かすれる声でつぶやいた。

 名を呼ばれ、女の動きが止まる。空洞の瞳が見下ろし、震える口元からひゅうっと空気が漏れた。

『……憎い……男たちが憎い……全て滅んでしまえ……幸せなものが憎い……おまえが、憎い……!』

 振り上げた両手が、ぬめぬめとした触手に変わる。シルヴァをさらった触手だ。

「いやあ! なんで? 私、何もしてないのにっ!」

 半狂乱で泣き叫びながら、襲いかかる触手から逃げ惑う。しかしここは海の上、波に揺られて不安定な足元ではうまく走ることができず、ついに捕まり強烈な力で締め上げられた。

「ん……く……なん……で……」

『……憎い……同じ髪、同じ瞳で……幸せそうに愛されるおまえが……!』

「や……私、化け物じゃ、な……い……! 人間、だも……あう……っ!」

 力づくで床にねじ伏せられ、ますます息ができなくなる。あえぐシルヴァの顔を覗き込む昏い瞳から、水がしたたり落ちた。ちょうど、悲しい涙のように。

「もしか……して……さっきの、夢……」

 思い出しただけで身の毛のよだつ、おぞましい記憶。あれが、現実だったなら。この女性の身に起こった悲劇なら……

「そんな……嫁ぎ先に、向かう……って……」

 きっと、幸せな未来を夢見ていただろう。薄汚い手で夢を摘み取った賊どもに怒りがこみ上げる。

『……憎い……なぜ、私が……私、何もしてないのに……? あはは、何もしてないのに! 何もしてないのにっ! 同じ、同じ、私と同じ、黒い髪に碧い瞳、同じ、あはは、ねえ、その身体を私にちょうだい』

 マリアンヘレスはくちづけするようにシルヴァに顔を近付けた。腐臭が鼻につき、思わずむせ込む。

「う……ん、や……だよ、ちょうだいって言われて、どうぞ……って、言うわけ、ないでしょ……!」

 触手の力が強まり、シルヴァを持ち上げ、勢いをつけて壁に叩きつけた。

 壁の木材がもろく崩れたおかげで致命傷は免れたが、舞い上がる木屑や埃を吸い込み息が詰まる。目にも入ったのか、視界がぼやけて涙が止まらない。

「げほ……うう、わ、私の身体を奪って、どうするつもり……?」

 狂気に満ちた笑い声が、歌のように漆黒の夜空に響く。淀んだ風に波が逆巻き、朽ちた船を大きく揺らした。

『……あは、あはは、あのかたに愛されて、あは、力をもらうの。あはは、強い力、みんなみんな呪われてしまえ!』

 ああ、もはやひとであった頃の心はないのか。ただ憎しみと、愛されたい願望のみで呪い続ける、哀れな魔女。

 シルヴァは恐怖を捨て、きっとマリアンヘレスをにらみつけた。大きく息を吸い、祈る。

「……ウェーザーの十二の精霊たちより風を司る者、聖なる刃で邪悪な存在を切り裂いて!」

 指一本動かせず、魔法陣を描くことができない。頭の中に思い浮かべた陣に強く、強く願う。はたして、精霊たちは応えてくれるだろうか。

 かすかに、シルヴァの前髪が揺れた。風の精霊が秩序を取り戻し、次の指示を待つ。シルヴァは感謝し、全ての力を解き放った。

『疾風烈破!』

 数瞬の沈黙ののち、無数の風の刃がマリアンヘレスと触手に斬りかかる。

『きゃあああああっ!』

 シルヴァを捕らえていた触手が力を失い、ぼとりと落ちた。それらはしばらくのたうち回り、やがて水たまりとなって床にしみ込み消えた。

 両腕を失い、マリアンヘレスが怒りにうち震える。

『……憎い……憎い! おまえも、同じめに合うがいい……!』

 再び稲妻が走り、マリアンヘレスの背後に数えきれないほどの骸骨剣士が現れる。からからと笑い振りかざす剣の向こうに、信じられない人物が紛れていた。シルヴァは愕然とする。

「うそ……ブラスさん、セリオさん、しっかりして!」

 虚ろな瞳、顔色が悪く生気がない。マリアンヘレスが歌を放つと、骸骨剣士たちと同様に剣を構えた。細い三日月のように反った片刃の剣、たしか、トマ家の客間に飾られていた半月刀……それはあの悪夢の中でマリアンヘレスを襲った男たちが持っていたものと同じ。

「まさ……か、マリアンヘレスさんを襲った海賊って……」

 今でこそ海軍として海の安全を守るトマ一族だが、かつてはこの北海を支配する海賊だった。

「そんな……じゃあ、カイン様も……?」

 あの忌まわしい卑怯者たちの血を受け継いでいるのか。背筋に冷たい汗が流れ、めまいと吐き気を覚える。動けない。

『あはは、同じ、同じ、信じているものに裏切られ、愛するものに見捨てられ、さあ、一緒に世界を呪おう、あはは……』

 心の中が黒く塗りつぶされていく。耳をふさいでも響く呪い唄、ああ、愛しているのに……

 ふと気付けば耳元に迫る獣の息遣い、ブラスに両腕を押さえつけられ、馬乗りになったセリオがシャツを裂く。

「やめて、だめ……こんなの、カイン様が……カイン様が悲しむ!」

 なぜ迷った。逃げる機会はあったはず。

 ぐるりと囲む骸骨剣士が切っ先を突きつけ、愉しげに笑っている。

「ごめんなさい、カイン様……助けて……助けて、カイン様!」

 規則正しい波音が消え、船の揺れが止まる。きん、と金属音のような高い音が響き、次の瞬間には船底を突き破る氷の槍が、骸骨剣士たちを串刺しにしていた。

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