泡沫の夢
数日ぶりに天気が回復し、乗組員はほっと胸を撫でおろす。波は穏やかに順風満帆、これならどうにか約束の日までに目的地に到着できそうだ。
「いやはや、一時はどうなるかと思いました」
船長は帽子をとって貴人の部屋をうかがう。
ぐったりとソファーに寝そべっていた女性が気怠げに身を起こし、まだ顔色の悪いままそれでも優雅にほほ笑んだ。それだけで湿気を帯びた狭い船室に、甘い花の香りが振りまかれたような気がする。
ほうっと船長はため息をつき、あわてて頭を振って気を引き締めた。
「お具合はいかがですか」
『……だいぶ良くなりました。船の旅がこれほど大変だとは知らずに……』
女性は胸のあたりを押さえて眉を寄せた。夜の帳を思わせる漆黒の髪、深い深い海の底のような碧玉の瞳、船酔いのせいで青ざめているが、可憐な薄紅色のくちびるは損なわれず。
「きっと、海の女神が姫さまの美しさに嫉妬して、意地悪なさったのでしょう。もう安全な海域に入りましたので、揺れも落ち着きます。どうぞおくつろぎください」
船長が一礼して退室すると、女性はほっと小さく息をついて、またソファーに寝そべり瞳を閉じた。想いは遠く海の向こうの異国の地、愛するひとの元へ。
『……あなたたち、私のためにごめんなさい』
唄のような声は弱々しく、いつもの艶がない。護衛の剣士も侍女たちも、どうにか気鬱を晴らして差し上げたいと思いながらも、起き上がることさえ困難だった。
「地に足がつかぬ不安がこれほどとは……」
「も、申し訳ございません、姫様。すぐにお飲み物を……うぷ」
故国を離れ嫁ぐ姫を守ると心に誓ったのに、なんとも情けない。
『……どうか、無理はしないで。あなたたちが一緒に来てくれただけで、とても心強いのですから』
ああ、あと幾日過ぎれば、いよいよ私はあのひとと……この大海原を越え、会いにきてくれた強くたくましい冒険王と結ばれる……
春まで待つなど到底できない。通りすがりの商船に頼み込み、引き留める女王を説得し、日ごとに募る気持ちを胸に彼方をめざした。
たとえ今は苦しくとも、愛しいひとに会えばきっと忘れてしまう。この一瞬さえ我慢すれば、もう離れることはないのだから。
美しい射干玉の姫は、幸せな未来を夢見てまどろんだ。
その幸せな夢を打ち消す轟音。激しい衝撃に船体が大きく傾く。続いて男たちの怒号が押し寄せ、金属と金属のぶつかる音がくり返し響いた。
護衛たちが身を挺して姫を守らんと剣をとる。それをあざ笑うように大振りの半月刀が容赦なく両断した。海賊だ。
侍女に手を引かれ、どうにか甲板に逃げ出した姫に、船長と乗組員たちが剣先を突きつけた。
「すまねえ、姫さま。あいつらには逆らわないのが、海での決まりなんだ」
彼らの後ろで荒くれ者たちが下卑た笑みを浮かべる。震え後ずさる姫の長い黒髪を掴み、ドレスを裂いて組み伏せた。
涙もくちびるも穢され、悲鳴は絶望に、この世の全てを呪う唄が嵐を呼び、やがて不運な姫は泡沫となって海に消えた。
「なんて夢だ……」
寝汗でシャツがべとつき気持ちが悪い。ひどく喉が渇いているのに気付き、ブラス・トマは厨房に向かった。廊下の空気が重くまとわりつく。月明かりさえない。
貴重な水を味わうことなく喉の奥に流し込み、ひと心地ついて司令官室に戻ろうとした時だった。
異常を知らせる半鐘が鳴り響く。総員、各部屋から飛び出し持ち場に戻る。すぐに警戒態勢が敷かれ、見張り兵の一人がブラスのもとに駆け込んできた。
「右舷前方に救難信号あり!」
「救難信号?」
この夏の穏やかな北海で、いったいどのような難があるのか。風は穏やかに、波は静か、海を荒らす賊もいない。
ブラスは双眼鏡を受け取り、目をこらした。確かに、狼煙と空砲が上がっている。船の不具合か、暗礁に乗り上げたか。
「よし、面舵いっぱい!」
どのような海の問題も迅速に解決するのが、彼ら海軍の使命だ。戦闘班、救護班ともにすでに準備は万端、船首が大きく右を向く。速度を上げ、遭難船に近付いた。
古い商船が波に流され右に左に大きく揺れる。海軍の船に気付いたのか、空砲が止んだ。
生温い風がざわりと吹き抜ける。
ふと、女の声を聞いたような気がした。泣き声か、笑い声か、不思議な旋律と未知の言語。
「まさか……」
不気味な夢が脳裏をよぎる。いやいや、あれはただの伝え話。黄金の王の幼い婚約者が怖がるのがおもしろくて、つい調子に乗ってしまっただけ。ブラスは自嘲気味に笑い、くだらない思念を払おうと首を振る。だが、その笑みはすぐに消えた。
舳先に現れたのは、夜に溶ける漆黒の髪の女性。
戦闘班はサーベルに手をかけ低く構える。張りつめた空気の中、女性は少し疲れた表情でほほ笑み、優雅にお辞儀した。
『……勇敢な海の戦士たちよ、どうぞ私たちをお救いください』
その声は美しく、しかし耳慣れない言語。だが直接頭の中に響き、意味は理解できる。不可思議な現象に、ブラス達は困惑した。
『……どういうわけか舵がきかず、方角を見失い、難儀しておりました。近くの港まで、誘導してはいただけないでしょうか』
彼女の後ろには、護衛の剣士たちと若い侍女がひざまずく。どうやらそれなりの身分の女性のようだ。
違和感。
貴人を乗せるには装備の甘い商船、人ならざる会話法、いったいどこの国から来て、どこへ向かおうとしていたのか。
みな、海軍司令官ブラス・トマの指示を待った。
「まずは名を名乗られよ。旅の目的は? 素性の知れぬ者を港に入れるわけにいかん」
女性は天を仰ぎ、歌を放った。妖しの力が彼らを支配する。
『……我が名はマリアンヘレス。この世の全てよ呪われろ』
闇に包まれた海軍の船と古い商船は、ゆっくりとトマ港を目指して進んだ。
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