恋の病に効く薬
照りつける日差しを受けて額に汗を浮かべ、シルヴァはぐっと看板を見上げた。広い通りに沿って建ち並ぶ建物は、夏の海風と冬の大雪に備えて機能性を重視しているため、どれも似たような造りをしている。目じるしとなるのは出窓に並ぶ鉢植えやカーテンの色柄、そして軒下に吊るされた看板くらいだった。
取り扱う商品や業種によって趣向を凝らした看板は、見ているだけで楽しい。何の図柄かわからないものは、店内を覗いて確認したかったが、ひとまず用事を済ませるのが先だ。
表に出て開店の準備をしている店主を見つけ、シルヴァはルーベン・ロジャの居所を聞いてみた。
「ルーベン・ロジャ? ああ、三つ先の角の商館にいるんじゃないかな。翼の生えた馬の看板の建物だよ」
「ありがとう」
教えられた看板はどうやら配達を請け負うことを示すらしい。商館の入り口には大きな幌馬車が停められ、いくつもの木箱が積み上げられている。呼び鈴を鳴らしても返事はなく、開けっ放しの扉からそっと中を覗いてみると、各国の商人たちが忙しそうに荷物を仕分けて運んでいた。
「どうした、坊主。働き口を探してるのか?」
ちょうど良かったと男はシルヴァの腕を掴み、作業場へと連れ込む。
「や、あの、ルーベン・ロジャに用事があって……忙しそうなので、出直します」
「まあ、そう言うな。せっかくだから手伝え」
有無を言わさず荷物を渡し、あちらに運べと指示を出す。勢いに呑まれて断れず、シルヴァはせっせと荷物を運んだ。
(すぐに帰るって言ったのに……)
あまり遅くなると、またすねてしまうかもしれない。頃合いを見計らって抜け出そうとしていたところに、ちょうどルーベン・ロジャが通りがかった。
「よかった。探してたんだ」
「え、シルヴァ? こんなところで何してるの」
慌ててシルヴァから荷物を取り上げる。黄金の王の奥方に、こんな力仕事をさせたと知れたら……ルーベンは仕事仲間に少し待つように言って、奥の休憩所へと案内した。
「ごめんよ、ちょっと立て込んでて。昼食はとった?」
そういえば、朝食すらとっていない。腹が減るわけだ。
「おばちゃん、何か美味いもの作ってよ」
「あは。私、もう帰らなきゃ。カイン様が待ってるから」
「そうなの? え、何しに来たの」
「魔法の手引き書を借りようと思って」
そうだったとルーベンは手をたたいた。
「すぐに持ってくるから、お茶くらい飲んでなよ」
食堂の女将に茶と軽くつまめるものを注文し、ルーベンはいそいそと仲間の方へ走っていった。事情を話し、彼らと別れて階段を駆け上がる。
「ああ、坊主、こんなところにいたのか。ほら、給金。ちっこいのにがんばってくれたから、助かったよ」
握らされた包みには銀貨が三枚、ずいぶんと気前のいい。
「ね、これで買える果実酒、ある? 甘いのがいいな」
「へえ、坊主、いけるくちかい? 美味いのがあるぜ」
男は白い歯を見せて笑い、どんとシルヴァの背をたたく。その力強さに、思わずむせ込んだ。
「ちょっと、親方、何してるの!」
戻ってきたルーベンが血相を変えて二人の間に割り入る。
「この方をどなただと思ってるのさ!」
大げさに紹介されて、シルヴァは苦笑する。小遣い稼ぎの近所の少年だと思っていた男も、訝しそうに眉をひそめた。
「この方はなんと、あの黄金の王の、運命の乙女なんだぞ!」
しばしの沈黙、そして館内に大爆笑が起こる。シルヴァは恥ずかしそうに首をすくめた。
「……そんなわけで、俺は運命の乙女をお屋敷まで送ってくる」
「あ、こら、待ちやがれ! さぼろうったって、そうはいかねえぞ!」
気付けば恰幅のいい男たちがルーベンをとり囲んでいる。きっといつもこうして仕事を抜け出しているのだろう、彼らは指を鳴らし、ルーベンの襟首を掴んだ。
「や、ほんとだってば! ちょっとシルヴァ、助けてよ!」
「あは、手引き書ありがとう」
連れ去られるルーベンの手から薄い本を抜き取り、シルヴァはにっこり笑って手を振った。
「まったく、もっとましな嘘をつきやがれ」
男が果実酒を用意している間、シルヴァは窓に映った自分の姿を見て、ため息をついた。
* * *
ベッドに寝そべったままぼんやりと天井を見つめていたカインは、いつまでも変わらない木目の模様に飽きて面倒くさそうに起き上がる。
「暑い……」
声にすると、余計に暑さが増した。
机の引き出しからナイフを見つけ、おもむろに髪を掴む。そしてそれをためらいなくばっさりと刈り落とした。首筋に風があたり、少しだけ涼しくなったような気がする。
階下から聞こえる女中たちの楽しげな話し声、掃除に洗濯にと忙しく動き回りながら、幸せそうに笑っている。
「何か、手伝うことはないかね」
彼女たちは手を止めて振り返り、髪を短くしたカインに驚いた。
「まあ。男らしくてすてき」
「やはりお顔がきれいですと、どんな髪形も似合われますね」
頬を染めてはしゃぐ女中たちに、悪い気はしない。
「退屈なんだ。何だってやるよ」
「そうは言われましても……」
とても五百年の孤独を生き続けたひとの言葉と思えない。女中たちは顔を見合わせて考えた。
「カイン様に、こんなことをお願いしてもいいのかしら」
残る仕事は食事の支度くらいで、木箱いっぱいのいもの皮むきを頼んでみる。どうせすぐに飽きるだろうと思っていたが、意外にもカインは器用にむき続けた。
「ふむ。刃物の扱いは得意なんだ。なんなら、砥いでおいてやろうか?」
「まあ、うれしい。では、これもお願いできます?」
彼女たちは厨房にある刃物を全て集めてテーブルの上に並べた。一日では終わらないかもしれないが、それはそれで暇つぶしにちょうどいい。
「シルヴァ様と一緒に、お出かけなさったらよかったのに」
カインは手を止め、ため息をつく。
「俺がいると、シルヴァもあの男も遠慮して話せんだろう」
かといって、機嫌よく笑っていられる自信もない。今いったいどんな会話をして、どんな表情をしているだろう。そう考えただけで、また胸の奥がざわついた。
「おまえたち、恋人はいるかい?」
一番若いダナはいると答え、イルダとフロラは夫がいると答えた。
「その……相手が他の女と話していると、嫌な気分にならないか?」
「ふふ。なる時もありますわね」
曖昧な回答は、ますますカインを悩ませる。
「まったく、こんな気持ちは初めてで、どうすればいいのかわからない」
かつて多くの女性と恋の駆け引きをしていた弟は、いったいどうしてこの不安定な心を制御していたのだろう。うっかり人ならざる力を暴走させてしまいそうだ。
再び大きなため息がこぼれそうになった時、玄関から賑やかな風が飛び込んできた。
「ただいま! 遅くなってごめんなさい」
明るい声、太陽の匂い、うじうじとした気持ちをからりと晴らしてくれる。
「あは。仕事を探してるって間違われちゃった。はい、お土産」
テーブルの上にどんと果実酒の瓶を置き、カインの向かいに座って手元を覗き込む。
「何してるの?」
「包丁の手入れだ。飯はどうした?」
「食べてないよ。おなかすいちゃった」
屈託のない笑顔。こんな少年のような子供を相手に恋に悩んでいたのが馬鹿らしくなる。まったく、色気のない。
「シルヴァ様、揚げいも食べます?」
「カイン様ったら、全部むいちゃうんですもの。早く食べてしまわないと」
もちろんシルヴァは喜んでうなずいた。女中たちは食事の支度を中断し、大量のいもを油の中に投げ込む。
油のはねる音を聞きながら、シルヴァはじっとカインの顔を見つめた。
「あは。髪、切ったんだね」
「ん、暑いからな」
「えへへ、長いの好きだけど、短いのもいいよね。かっこいい」
熱い視線に気付かないふりをするが、つい手に力が入る。これだけ念入りに砥いだ包丁は、さぞよく切れるだろう。
女中たちは二人のやりとりを聞きながら、背を向けたまま声を立てずに笑った。
揚げたてのいもに塩をふりかけ、シルヴァはもそもそとほお張る。見ていて気持ちのいいほどの食べっぷりだ。これだけよく食べるのに、なぜ貧相な体つきなのか不思議だった。
「カイン様も食べる? おいしいよ」
「あまり食欲がなくてね」
「暑気あたり? トマに来てから、ずっと元気ないよね」
カインはがっくり肩を落としてため息をついた。誰のせいで苦しんでいるのか、伝わってさえいなかったのか。
「だからね、これ買ってきたんだ。凍らせたらおいしいし、元気出るかなって思って」
シルヴァはテーブルの上の瓶をつつく。あんずを漬けた、甘い酒。カインの好物だ。
「おまえ、氷の魔法はそのために……」
「うん。だってカイン様、ルーベンに作ってもらうのは嫌なんでしょ?」
カインはごくりと息を呑み、包丁をとり落とした。へなへなと力なく椅子に座り込み、両手で顔を覆い隠して身悶える。これほど恥ずかしいことがあるだろうか。体温は一気に上昇し、脈は乱れ、呼吸もままならない。不死の身でありながら、もはや瀕死の重症だ。
「は、はは……まいったね……」
色気がないだとか少年のようだとか思っていたのに、シルヴァの方が一枚も二枚も上手だったとは。ひとの心を推し量ることのできない子供なのは自分ではないか。
「おまえには、かなわない」
椅子の背もたれに体重を預け、天井に向かってふうっと息を吐く。シルヴァはにっこり笑った。
「ね、だから練習につきあって」
嫌とは言えまい。
カインが刃物を砥ぐその横で、シルヴァは意気揚々と魔法の紙片と手引き書を広げる。しかしすぐに難しい顔になり、むむっと呻きだした。
「ね、カイン様。これ、なんて書いてあるの?」
「ん? ……氷を作るにはまず風の精霊に命じて温度を下げ、か?」
「じゃあ、ここは?」
「これらの精霊文字を簡略化し記号としたものを……おまえ、字は読めるかい?」
手引き書はルーベンの言う通り簡単に書かれていて、魔法や精霊文字を知らなくても扱えるようになっている。それを読めないということは、もしや。シルヴァはしょんぼりと項垂れた。
「シラー語は姐さん達に少し教えてもらったけど、ウェーザー語は……」
シルヴァはすがるようにカインを見た。まったく、面倒なことを。勉強は嫌いなのだ。
「仕方ないね、一度だけ読んでやるよ」
指で文字をなぞりながら、ゆっくりと読み上げていく。全ては無理でも、繰り返し使われる風や水といった単語から覚えていけばいい。
シルヴァは真剣な面持ちでカインの指先を追う。
「……つまり、この魔法陣が祈りの言葉になっていて、力を集める図形になっていて、魔法を発動させるのに指を鳴らすだけでいいの?」
「そういうことだね。だが、魔法は心の影響を強く受けるからね、魔法陣の意味を知り、精霊たちへの感謝の気持ちを込めることは大切だね」
うなずき、さっそく水を入れたグラスに魔法の紙片をかざし、心の中で精霊たちに祈りを捧げて指を鳴らしてみた。
「……あれ?」
もう一度試してみるが、グラスの水はかすかに揺れただけで変化しない。
「私、素質がないのかな」
「風の魔法は使えるから、そのうちできるようになるんじゃないか」
「ね、カイン様、やってみてよ」
「俺は火の月の生まれだから、水の魔法とは相性が悪いんだよ」
そう言いながら、グラスに指をつっ込んだ。瞬間、ぱしっと音を立ててグラスの水が完全に凍りつく。
「わ、すごい! やっぱりカイン様は、精霊に愛されてるんだね」
シルヴァは瞳を輝かせ、女中たちも炊事の手を止めてグラスを覗き込んだ。
しかしカインは困惑した表情を浮かべている。
「……まいったね、指が……抜けん」
「え?」
これがカインの強すぎる魔力か。グラスだけでなく、テーブル、そして周囲の空気までもが凍っていた。無理に砕けばカインの手が崩れてしまいそうだ。
「大変! お湯を沸かして!」
イルダが叫ぶと、フロラとダナは急いで鍋を火にかけた。
「もう、お二人とも、ここで練習するのはやめてください」
「お夕食の支度がちっとも進みませんわ」
彼女たちも物珍しそうに眺めていたのに、差し込む西日に気付いて真面目に仕事に戻る。
湯をかけて溶かしてもらい、カインとシルヴァはすごすごと二階へと引き上げた。
バルコニーで潮騒を聞きながら、ゆっくりと水平線に近付く夕日を眺める。
「カイン様、火の月生まれなんだ。私は風の月だから、相性がいいね」
「ん、風なのか。木か花か……愛かと思っていた」
なるほど、そばにいるかと思えばふと手の届かないところへ行ってしまう。心の火をあおり、炎は旋風を起こし、ますます燃え上がる。まるでこの恋のようだ。
「ね、カイン様って、いくつの時に精霊と契約したの?」
「二十三だ」
「えっ」
「なぜ驚く?」
小憎らしい頬をぷにっとつねってやる。不細工に歪んだまま、シルヴァは笑ってごまかした。
「どうせ、五百年も生きたじじいだよ」
年齢のことなど気にしたこともなかったが、愛しいひとに年寄り扱いされるのはせつない。今さら若者のふりなどできるだろうか。
「ね、カイン様。勉強教えて」
「嫌だよ。俺も苦手なんだ」
「ウェーザー語も読み書きできるようになりたいな」
「セリオかアレシアに頼めばいいじゃないか」
「だって忙しそうだし」
確かに、カインは暇を持て余しているが。そうでなくとも暑さに参っているのに、頭の痛くなるようなことはしたくない。
「ふむ。それなら学校に通ってみるかい?」
「いいの?」
「トマにいる間だけでよければね」
「やったあ! ありがとう、カイン様!」
シルヴァは喜び、勢いよくカインに抱きついた。跳ねる鼓動。本当はずっとこうしていたいのだが、風の気質は一つ処に留まらない。心配事が増えそうだ。
ふとため息をつき、黒髪を撫でてやる。
「ね、カイン様。お誕生日にはケーキを焼くね。カイン様が好きな甘いやつ。それまでに、食欲が戻ってるといいな」
そう言ってきらきらと輝く瞳を閉じ、ぐっと背伸びしてくちづけた。
どんな悪い病も立ちどころに治してしまう、最高の特効薬だ。
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