第32話『嘘と真』

 美優先輩や花柳先輩と一緒だからなのか。それとも、スーパーの袋を両手に持っているからなのか。部活勧誘のチラシを持っている生徒と何度かすれ違ったけど、話しかけられたり、チラシを渡されたりすることはなかった。

 3階にある家庭科室に向かうと、さっきと同じく中には大宮先生だけがいた。コーヒーを飲みながら、何か本を読んでいる。大きさからして……家庭科の教科書かな。


「ただいま戻りました、成実先生」

「ただいま、成実ちゃん」

「おかえりなさい、美優ちゃん、瑠衣ちゃん。あと……桐生君? どうしたの? またここに来て」

「特別棟を出たところで、買い出しから帰ってきた先輩方と会いまして。買ってきた材料を運ぶのを手伝ったんです」

「そうだったのね。手伝ってくれてありがとう」

「由弦君、ありがとう。買ってきたものを冷蔵庫に入れてくるから、由弦君は適当にくつろいでて」

「分かりました」


 俺は美優先輩と花柳先輩にスーパーの袋を渡し、大宮先生と向かい合うようにして椅子に座った。


「ところで、大宮先生は何を読まれているんですか?」

「今年使う家庭科の教科書だよ。桐生君のクラスも担当するからよろしくね。料理が得意だって美優ちゃんから聞いているから、調理実習を楽しみにしてるよ」

「調理実習あるんですね。楽しみです。よろしくお願いします」

「うん。美優ちゃんや瑠衣ちゃんから聞いているかもしれないけど、料理部は水曜日に活動しているの。その材料を月曜日に近所のスーパーへ買いに行くの。たまに火曜日のときもあるけど」

「そうなんですね」

「もし、桐生君が入部してくれたらみんな喜ぶだろうなぁ。料理部は女の子だけだし、桐生君はかっこいいし。買い物をするときも男手があった方がいいんじゃないかな」

「な、なるほど。料理部は女子生徒だけなんですね。てっきり、美優先輩効果で男子もたくさんいるのかと」

「この春に卒業した学年には、男子部員はいたけどね。新2年生と新3年生は女子だけなの」

「そうなんですか」


 やっぱり、去年は男子部員がいたんだ。ただ、料理部というと女子の部活のイメージが強いので、女子生徒だけなことに驚きはないかな。


「美優先輩から水曜日に活動があると聞いていますので、そのときはここに来ますね」

「うん、分かった。今日買ってきた食材を使ってお料理するからね」

「はい」

「……そうだ。ここまで食材を運んでくれたお礼に、このコーヒーを一口あげるよ。あたしが口付けたものでいいなら」

「かまわないですよ。いただきます」


 雫姉さんや心愛の影響で、相手さえ良ければ口付けたものでも食べたり飲んだりできるようになった。

 俺は大宮先生のコーヒーを一口いただく。ぬるいけど苦味を強く感じて。てっきり、カフェオレかと思ったけど、ブラックなので驚いた。


「美味しいです。ありがとうございます」

「いえいえ。あと、全然躊躇わずに飲んじゃうからドキッとしちゃった」

「俺には姉と妹がいまして。2人に勝手に俺のものを飲まれたり、勧められて飲んだりしたので慣れてて」

「そうなの。あと、姉妹がいるんだ。だから、土曜日も桐生君は落ち着いていたのかな」

「そう見えましたか? 先生達が家に来て、何を言われるのか緊張してましたけど。あと、カーテンが閉まってなくて、水着や下着が見えることに気付いたときは焦りもしました」

「そうだったの? それでも、桐生君はあの家が自分の居場所だと思っていて、あそこが好きなんだって雰囲気で分かったよ。学校に対しては、とりあえずは一佳ちゃんとあたしで任せておいて」

「分かりました。ありがとうございます」


 大宮先生と霧嶋先生が協力してくれるのは嬉しい。それでも、ちゃんと暮らしていかないと。

 あと、さっきの敗者の集いのように、俺が美優先輩と一緒に暮らすことを快く思わず、接触してくる人達が出る可能性もある。気を付けないと。


「成実先生、食材を入れ終わりました。あと、領収書です」

「はい、受け取ったよ。2人ともお疲れ様。桐生君も運んでくれてありがとう。鍵はあたしがやっておくから、みんなは帰っていいよ」

「分かりました。由弦君、瑠衣ちゃん、帰ろっか」


 俺は美優先輩や花柳先輩と一緒に家庭科室を後にして、家路につく。

 特別棟を出ると活動中の部活が多いからか、「ファイトー」とか「いくよー」といった声が聞こえてくる。あと、校門の近くでチラシを配る生徒の姿も見える。


「そういえば、美優先輩は副部長ですけど、部長さんは? 3年生ですか?」

「うん、そうだよ。今日は用事があっていなかったけど、部長も一緒に買い物をしたりすることが多いよ」

「水曜日のお楽しみだね、桐生君。部長は女の子だよ」

「そうですか」


 卒業して、今は女子生徒だけになったって大宮先生が言っていたからな。どんな人なのかは水曜日までのお楽しみにしておくか。

 あけぼの荘の前まで3人で帰る。その際、周りの様子を確認したけど、こちらをチラッと見る人はいたものの、ついてくるような人はいなかった。


「じゃあ、また明日ね。美優、桐生君」

「うん。またね、瑠衣ちゃん」

「また明日です」


 俺は美優先輩と一緒に101号室の中に入る。

 今日から授業が初めてだったけど、敗者の集いのこともあってかとても長く感じた1日だったな。


「ねえ、由弦君。寝室で一緒に着替えない?」

「えっ?」


 今まで美優先輩がいる場では着替えてこなかった。別々の場所で着替えたり、時間差で着替えたり。ただ、美優先輩の方が早く起きることが多いから、そういうときは寝ている俺の横で着替えることがあったかもしれないけど。


「俺はいいですけど、大丈夫ですか? この前、一緒に着替えようって話したら顔が赤くなってましたけど」

「……そんなこともあったね。今も緊張しているけど、一緒に住んでいるんだし。一度、挑戦してみたいの」

「そうですか。まずはお互いに背を向けて着替えてみることにしましょうか。同じ部屋の中で着替えるだけでも、何歩か前進したことになりますし」

「そうだね。そうしよっか」


 うんうん、と美優先輩は何度も頷いている。ただ、今から顔が真っ赤になっているので、果たして寝室で無事に着替えることができるのだろうか。

 玄関の鍵を閉めた後、俺達は寝室に入る。

 美優先輩はベッドのところで、俺は自分の勉強机の前で制服から部屋着へと着替え始める。

 美優先輩の姿が見えないとはいえ、同じ部屋の中にいると緊張する。布の擦れる音がとても甘美な響きだ。背後がどんな光景になっているのかは……考えるな。


「ねえ、由弦君」

「はい。何ですか?」

「……金曜日に告白した子もそうだし、敗者の集いのメンバー達も私達が一緒に住んでいることに嫌悪感を抱いていたね」

「自分の好きな人が、春休みの間に男性と住むようになったんです。そのことに怒ったり、妬んだりする人がいるのは仕方ないと思います。もちろん、そのことで抹殺しようとしたり、先輩に何かしようとしたりするのは論外ですが」

「……そうだよね」

「ただ、彼らも美優先輩と俺が付き合っているなら諦めがつくようですけど」

「……だったらさ」


 すると、背中に温かくて柔らかい感触が。同時に感じる甘い匂いが美優先輩のものだと分かったので、この感触は彼女によるものか。ワイシャツを脱いで、下着しか着ていない状態からか、彼女の柔らかさや温もりがはっきりと伝わってくる。


「私と……恋人のフリをしてみない? そうすれば、落ち着いた高校生活を送ることができるかもしれないから。そのためなら、私は由弦君の彼女だって言ってもいいよ。そのために、恋人らしいことをしてもいいよ。由弦君だったら……いいよ」


 いつもとは違う甘い声で美優先輩はそう言ってきたのだ。その想いが強いことを伝えたいのか、先輩は背後から腹部に両手を回してくる。

 美優先輩の口から恋人という言葉を聞くと、さすがにドキドキしてくる。


「美優先輩」

「……なに?」

「先輩が俺と恋人のフリをしてもいいと言ってくれるのは嬉しいです。恋人のように振る舞えば、俺達が一緒に暮らすことを納得する人が増えるかもしれません。ただ、恋人だと知って憎む人も出てくるかもしれません」

「……そうだね」


 ゆっくりと振り返ると、そこには桃色の下着姿の美優先輩が目の前に立っていた。先輩は頬を強く赤らめながらも、俺のことをしっかりと見つめている。


「それに、嘘をつき続けるというのは心苦しいものがあります。よほどの理由ではない限りは嘘をつくのはやめた方がいいと思います。恋人のフリをするのは、美優先輩にも大きく関わることです。そのせいで先輩が悲しんだり、苦しんだりするのは嫌ですから。それに、嘘をついたら楽しい生活も楽しめなくなるかもしれませんし」

「由弦君……」

「ですから、恋人のフリをするのは止めましょう。美優先輩に何かあったら俺が守りますから。どうでしょうか」


 嘘がバレたとき、嘘をつく前よりも状況が悪化する可能性は非常に高い。それこそ、美優先輩がとても苦しむことになるだろう。嘘をつき始めた瞬間、そのリスクをずっと抱えていかなければならない。それもきっと先輩を苦しませることになるだろう。

 美優先輩は俺の背中に両手を回し、先輩らしい優しい笑みを浮かべる。


「由弦君らしいね。……そうだよね。これまでが楽しかったし、何かあっても今日みたいにお互いに助け合えばいいんだもんね」

「そうですね」

「うん。恋人のフリはしないでおこう。こんなことを言っちゃってごめんね。由弦君のことを信頼しきれていなかったのかも」

「気にしないでください。これからはもっと美優先輩のことを信頼していきますから」

「うん。……もうちょっとだけ、このまま抱きしめさせて」

「いいですよ」


 美優先輩は俺の胸に頭を埋める。

 俺が美優先輩と一緒に住んでいることは事実で、それについては学校中に知られているんだ。そこに嘘を混ぜる必要なんてない。

 それに、人の繋がりについて嘘をつくなんて悲しいことだから。ましてや、恋人なんて。美優先輩と一緒にそんな嘘を絶対につきたくない。

 恋人のフリをすると決意してしまったら、美優先輩の温もりや甘い匂いはこんなにも優しく感じられないだろう。先輩のことを抱きしめたくなったけど、服を着ているならともかく下着姿ではまずいと思い、先輩の頭を優しく撫でた。



 温水浴をしたときのように、美優先輩は俺のことを抱きしめたけど、あの後とは違って変に緊張している様子はなかった。これも嘘をつかずにいようと気持ちを確かめ合ったからだろうか。

 夕食を食べているときや一緒にテレビを観ているとき、サブロウのことを撫でているときの彼女の笑みは、これまでよりもかなり可愛く思えるのであった。

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