EP09-03





「ああ、実に不愉快な生き物だ。琥珀色の脳アンバーが手を焼いた去りし日のお前は、今とはまた違った意味で不愉快な生き物であったが」


 ティーダが唸るように呟いた。苛立つその様子は、今までの彼にはない人間味を感じさせる。だけどそれと同時に、エラーを吐き出した直後の固定端末ターミナルにも似た扱いがたさがあった。対極に位置する印象の陰に、人工知能の揺らぎが見え隠れしている。


「……アンが、私に手を焼いた。私が、アンを困らせていた?」

「そうだ。我々に怯えては泣き叫び、どうしたのかと問えば押し黙る。腹を空かせたくせに何も口にしようとはせず、補給のための管を繋いでも乱暴に引き千切ってしまう」

「はんっ。そりゃお前ら鉄クズにお姫様チャーミィのシッターなんて無理だろ」


 笑いを噛み殺しながら、クレアが言った。確かに当時のアンやT-6011ティーダ人型珪素模型クロノイドの皮を被っていたとしても、幼子おさなごの警戒を解くことは難しかっただろう。


「否定できない。保護せざるを得ない対象を前にして、琥珀色の脳アンバーも私たちも解決策を持たなかった」

「実に微笑ましい皮肉だね。物質主義マテリアリズムを捨て去ったはずの君たちが、たったひとりの女の子によってに縛り付けられただなんて」


 その皮肉さえも、沓琉トーマが意図したものなのではないか。根拠に乏しい陰謀論が頭の片隅をぎった。けれど、口に出すことが躊躇われる。


「だが琥珀色の脳アンバーは、程なくしてこの問題を克服クリアしたのだ。彼の手によって作り出されたを用いて、エウレカはエリア096に順応する社会性を養うことに成功した」


 という単語が何を指し示しているのか、一瞬見失いそうになる。しかし私の頭の上あたりに向けられたティーダの視線が、その意味を気付かせた。


「この仮想投身器サークレットが? じゃあ、拡張絵馬カレイドスコープってもしかして……」


 思わず声が上擦ってしまう。極度に張り詰めた空気の中、ティーダは続けた。


肯定イエスだ。リンクさせる拡張絵馬スロットル次第で、お前は何にでも成れた。幼い日のエウレカは、琥珀色の脳アンバーが取り揃えた記憶庫アーカイヴを『魔法の図書館みたいね』と言って好んだのだ」

「心を開いたその相手が、悪い魔法使いだとも知らずに、か。まさにお姫様チャーミィはシンデレラ、だな。我ながら最悪の比喩だぜ」


 額の上の重みを、初めて不気味に思った。今ではガラクタと化してしまった仮想投身器サークレットが、私をあやすためのアイテムだったなんて。私が自分の脳内記憶痕跡エングラムだと思い込んでいたものは、アンによって取り揃えられた絵本マニュアルでしかなかった。


「だけど、だけどそれは……、アンなりの愛情のカタチだよね? 母親が絵本を読み聞かせるように、アンは拡張絵馬カレイドスコープの世界を私に与えてくれた。たくさんの物語に追体験ダイブして、私は抜け殻の世界でも笑って過ごせるようになった。そうだよね。ねぇ、違う?」


 希望的観測に縋ろうとする私を、テラとクレアが物悲しい眼差しで見ている。


「愛情の定義は不明確だが、お前の発言を否定はしない。だが事実として、我々は重大な弊害を見落としていた。万華鏡カレイドスコープが神経回路網に与える刺激は、幼い少女にとって強烈すぎたのだ。我々がその事実に気付いた時、エウレカの症状はすでに深刻なものだった」

「なってしまったんだね。まるで万華鏡に酔うみたいに。遠い日のエリカは、拡張現実依存症オーグメントホリックに」


 テラの推論に、モニターの中のティーダが首肯を返す。

 その瞬間、全身の力が抜けてしまった。


 ああ、何度。私は一体何度、アンに忠告を受けただろう。そうだ。ホムラとクレアが、初めてエリア096にやってきたあの日もそうだった。追体験ダイブに夢中になった私に、アンはこう言ったのだ。


 ──貴女の記憶庫アーカイヴ巡りを咎めるつもりはありません。ですが過度の追体験は、その肉体と精神に必ずや悪影響を及ぼすでしょう。


 天井一面にモニターされた自分の脳波やら心拍やらを見せられて、私は「心拍フェチなの?」なんて軽口を叩いた。過度なお節介はやめてほしいと、アンを煙たがったことも数え切れないくらいにある。


「かつての私が精神汚染ブレイクしたから……、だから、だからアンはあんなに」


 力なく床にくずおれる。未熟な精神で入り浸った仮想の世界で、エウレカだった私は心を病んでいったのだ。きっと食事や睡眠をとることすらも蔑ろにして、シンデレラは魔法の世界に閉じこもってしまった。


 だったら。

 だとすれば──。


 私が"エリカ"であることに。

 すべてに説明がついてしまう。


「……精神汚染ブレイクした私を救い出したのもまた、この仮想投身器サークレットだったってわけね? アンはEurekaエウレカとして生きていた私に、自分はElikaエリカであるという事実イツワリを上塗りした。こうして生まれ変わった私は、エリカとして新たな社会性を習得していったんだ」


 それは代替か。それとも代償か。大きな教訓と引き換えに失われた私の原型オリジナルは──、今は亡きエウレカは何色の夢を見ているのか。


「エウレカの問いに対する答えを、私は有していない。洗脳ブレインウォッシュと換言することもできるその作業には、途方もなく長い年月を要したのだ。そしてその途中で、我々に強制的な世代退行ダウングレードが施されたのだと推測でき──」「──そうか! これで点と点が繋がったね。エリカの人格を形成していくその過程で、琥珀色の脳アンバーは君たち戦騎兵スタンドアロンの存在に危機感を覚えたんだ。ElikaエリカEurekaエウレカであることを知っている存在は、自分以外に居てはならないと」


 ティーダの言葉を遮るテラの語気に、強い興奮が滲み出ていた。時系列の理解から少しだけ遅れて、形容しがたい悲しみが私に訪れる。まるで今の私が、アンによって作られた著作物のように感じられてしまったからだ。


 私は、私の存在は──。


 抜け殻となったこの世界エリア096を守るためだけにある。

 アンが内包している並行世界パラレルワールドを隠すための、墓標にして座標。


「テラよ。お前が導いた結論は理解不能だ。我々が琥珀色の脳アンバーの意志に背く可能性など、限りなくゼロに等しい」

「けれど、絶対的アブソリュートではないだろう? それが分からない君たちは、やっぱり戦騎兵スタンドアロン止まりなんだよ。人の心が何たるかを、少しも分かっていない」


 テラとティーダのやり取りが、遠い世界の出来事のように響いた。

 足場を失った浮遊感が私を包み、やがて深い沼の底に沈むような感覚に浚われていく。


 何も考えられなかった。

 涙はとめどなく流れるのに、嗚咽がせり上がることもない。

 凪いだ水面みたいに静かな心。だけど、安らぎはどこにも見当たらない。

 

 きっとこれが、自己同一性アイデンティティの喪失なんだ。

 相反した"生きたい"と"死にたい"が、等しく同居する場所に私は落ちていく。


 そうだ。今の私にこそ、もう一度追体験ダイブが必要なんじゃないかな、って。

 こんなことならもういっそ、二度と覚めない仮想の中に行きたいよ、って。


 エウレカオリジナルの尊厳を踏み躙ってまで、私はここで何をしているのだろうか。

 たとえ精神汚染ブレイクした彼女であっても、この肉体は彼女のものであるべきなのに。


 ねぇ、エウレカ。聞こえるかな。

 こんなに無価値な私の、深くて暗い場所に閉じ込められたあなた。


 洗脳ブレインウォッシュだなんて、笑っちゃうよね。

 まるで人の記憶を物か何かみたいにさ、好き勝手に弄りまわして。


 ねぇ、私。

 どうか代わってほしいよ。


 叶うならもう一度、この肉体をあなたに返したい。































 やがて、左の頬に、熱。


 クレアに引っ叩かれたのだと理解するまでに、たっぷりと数秒。


 険しい顔をした彼女に、容赦なく胸ぐらを掴まれた。


「おい! てめーは何を呆けてんだよ。いいか? 決して忘れるな。お前が信じているものはガラクタだ。どれだけ高性能な脳みそだろうが、役立たずで忌々しいガラクタなんだ。だけど、だけどなあっ!」


 呆気にとられた私の身体を思いきり揺さぶりながら、クレアは続けた。


「そのガラクタの根底にお前への愛情がなきゃ、今の話は成立しねーだろーが! よく考えろ。植物状態プラントでいいんだよ。墓標だか座標だが知らねーが、お守りが欲しいだけなら意識なんざそもそも必要ない。お前が信じたそのガラクタは、お前を大切に思ってるよ。エリカもエウレカも一緒くたにして、大切に思ってなきゃ救いがねーだろうが!」


 半狂乱となったクレアの瞳から、大粒の涙が次々と溢れ出る。理屈の通った推論の最後は、彼女らしからぬ希望的観測でまとめられていた。思わず頭が真っ白になって、クレアの頭を反射的に抱き寄せる。じたばたと暴れる彼女が、観念して抵抗をやめるまで。


「……ごめん。ごめんねクレア。あなたに出会えて良かった。だってあなたと出会えたことは、私の揺るがないオリジナリティだもの」


 どれだけ浅はかで、なんと身勝手な願いだろう。

 眠りに就いているエウレカにあれほど縋っておいて、私は今、この肉体を彼女に返したくないと考えているのだ。


 だってエウレカは、クレアのあたたかさを知らない。

 こんな私のために、怒ったり泣いたりしてくれる彼女を知らない。


「あのねクレア。ごめんなさいのついでに、ひとつだけ私のわがままに付き合って欲しいの」


 クレアの耳元でそう告げると、彼女はどっと吹き出した。私に初めて見せる泣き笑いの表情で、クレアは答える。


「ああ、もちろんだ。その脳みそを殴りに行くんだろ? 願ってもない。お姫様チャーミィ帰還をお望みホームシックなら、護衛エスコートするのが俺の役目だぜ」


 揺るがない現実の世界で、私はクレアをもう一度抱きしめた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る