Case8 壊れたものと壊すもの②

 あれから、幾ばくかの日時が過ぎた。いなくなってしまった姉さまの影を追いかけていたわけではない。それでも感情の赴くままに街を歩き続けた。真夏の太陽が照り付け、ほのかに海の香りをさせながら熱苦しく吹き抜ける風が煩わしい昼は、街を歩く人達を観ているだけでは勿体無い。この愛すべき世界を、出来るだけあたしの脳の奥に刻み込んでおこうと色々なところを見て回った。


 あたしの愛を振りまくのに丁度いい場所を探したり、お店で優雅にランチを食べたりした。やっぱりこの街では中華、と思う輩は多いと思うけど、それははっきり言って偏見だぜ?


 そもそもあたしは洋食派なんだ。チキンが特に好きかな。やーらかい所が特に、いい。カロリーも少ないし、ね。値段もそこそこ安いし、良いとこだらけじゃないかい? なんかチキンが食べたくなってきたな。今日のディナーはチキンにしよう。無難にソテーとかかな?


 そんなことを考えながら、今日は地元の球場まで歩いていくことにする。ここからその場所まではそれなりに時間はかかるものだが、姉さまにはちょっと負けるけどこのプロモーションを保つにはやっぱり運動がイチバンな訳で。


 それなりの時間をかけて球場の近くまで着いた時にはもう、そこから歓声と鳴り物の音が聞こえていた。どうやら今日は試合が行われているようだった。受付のカウンターまで歩いていき空席を確認した処、たまたま内野席のチケットが空いていたということだったので、折角なので試合を観ていくことにした。


 今まで何回か球場に来た事があった。お父様やお母様は野球なんかに興味がない事は知っていた。それでも行きたいことを察してくれたマルヤマさんが、休みの日だっていうのにまだ小さかったあたしと姉さまの手を取って球場に連れて行ってくれた。そこで観た選手の人達の姿を見てから、このチームを応援するようになっていった。そして野球はやっぱり内野席、これはあたしの拘りの一つだ。選手の姿を、表情を、感情を少しでもはっきりと観たいからだ。


 反響する数多の人の声と灼熱の太陽光線が降り注ぐグラウンドの下ではあたしよりもだいぶ年上の男の人達が、額に大粒の汗を浮かべながら一心に白球を投げ、受け止め、打ち、追いかけていく光景を選手達と同じような服装をしたファンの人達が世界の終わりなどなかったかのように、あるいはこの時だけ忘れたことにしているように、いつも通りの声援をかけ続けていた。幾重に連なり、混ざり合い反響する声と声。そのエネルギーに似た何かを発し続ける白と青のコントラストが、球場一塁側を基点にして鮮やかに爽やかに彩り続けていく。


 試合中だというのに人でごったがえしている通路を抜けて席についた時はもう試合は中盤に差し掛かっているところだった。対するチームは白地にオレンジのアクセントカラーが入り、黒いヘルメットを被った、首都を本拠地とする強豪チームだ。あたしが野球を観はじめたときからずっとAランクにいるような気すらする、俗に言う『球界の盟主』を名乗っているようなチーム。まぁ最近はリーグで優勝出来てもプレーオフや日本シリーズで負けている印象の方が強いんだけれど、ね。


 一進一退の攻防は進んで9回の表、2アウト1・3塁。一打逆転のチャンスに代打で打席に入った背番号10番。マウンドを鋭く睨みつけるのは、日本球界を長い間引っ張り続けてきたスラッガー。ここ数年怪我が重なり、近いうちに引退するんじゃあないかという噂が上がっていた選手だけれど、この世界が終わる今年の開幕時に『生涯選手宣言』をしてちょっとした話題になったりした。怪我のことなどなかったかのようにフルスイングを続ける彼の姿は、まるで自身の命を削りながらファンへの、球団への、そして野球への愛を語っているようだった。


 そのスラッガーの渾身の一撃が、同じく魂を込めた投手の投げるストレートとぶつかり合い、鮮やかな放物線を描いていく。三塁側、アウェー席側の割れるような歓声を乗せてライトスタンドまで飛んでいくかと思われたその打球は、フェンス側の手前1メートルに落下する直前に右翼手のジャンプしながら伸ばしたグローブの中に入った。その直後には、反対側からの唸るような声援が球場を包んでいく。


 これにてゲームセット。球場の全ての方向から降り注ぐ歓声の下、苦笑いしながらスタンドを見据えるスラッガーは、一見悔しそうに見えながらも、なんだか楽しそうだった。


 贔屓のチームが勝ったので上機嫌になりながら球場を後にして、心躍りながら街へと戻る。落ちることのないテンションはあたしの身体を勝手に動かして、感情の赴くままにステップを刻んでいく。コーヒーカップのようにくるくるくるくる身体が廻って目が回りそうだ。まだ夕方に差し替える前の時間ではあるが、この夏真っ盛りという時期ではまだまだ陰りを見せない空の上で輝きを放っている、いつもだったら腹が立つぐらいに乙女の柔肌を容赦なく焼いていく太陽の光が、今ではあたしを照らすスポットライトにすら思える。


 当然、田舎町じゃあないんだからそれなりにギャラリーはいる。それでも、あたしのこの胸の中で暴れまわる感情を妨げるには周りの視線ぐらいじゃ余りにも弱すぎた。この歓喜のステップは、そんなことでは止めることは出来ないぜ。


 高揚した気持ちを抑えることなくステップを刻みながら街へと戻るともうお腹が空いてしょうがなかったので、ファミレスで宣言通りチキンを注文してお腹の中に詰め込んでいるうちに、火照った身体と心が幾らか落ち着きを取り戻していく。幾らなんでもはしゃぎすぎたな、と少しだけ反省をしながら会計を済ませて店を出る。


 世界が滅びるカウントダウンが現在進行形で刻まれていくなか、夜の街で相棒のエースを掻き鳴らしながら愛のメロディを振り撒くことを続けているうちに、なんとなくわかったことがある。


 街灯が照らしている愛すべきこの街には混沌が渦巻いている。詰まった血管の赤血球のようにゆっくりと歩き続けている人達の殆どは、お母様と全く同じ諦め切った眼をしていた。惰性のまま世界の終わりを受け入れて、何もかも受け入れながら日々を過ごす。せめて、今まで通り生きて生きて生き続けて最後を迎えようと勤めているような、そんな人達。


 残りの一部は、あたしの事を都合の良いサブカル文化に染まった頭の中身がスッカスカの馬鹿女か何かと勘違いして愛を受け入れる気も持たずに一方的に肉欲を押し付けてくるようなマスタベ野郎か、世界が滅びることどころか、現実すら理解出来ていないアッパラパーな奴らが殆どだった。


 一握の望みを持って、一回だけマスタベ野郎と偽りの愛を交わしてみたけれど、何も変わることなどなかった。胸に残ったのは大きな蟲が這い回るような嫌悪感と、あたしの愛が通じなかったという喪失感だった。あたしは何もかも愛していたというのに、あたしの肉体を使って性欲を解消させることしか考えていないことがバレバレで、欲望のままに、乱暴にあたしの身体をねとりとした手で弄った後に、強引にあたしの中に突き入れた直後に果てた。なんだコイツはと思いながら薄気味悪いねっとりとした笑みを浮かべるマスタベ野郎に心底軽蔑するが、結局は一時でもそれを受け入れたあたしも同類なのかもしれない、と非ッ常にブルーな気持ちになった。


 それでも、あたしは街の片隅で愛を振り撒き続けていた。それがあたしに出来る唯一のことだったから。エースの6本の弦を右手に握ったピックを使ってあたしの心の中を表現していく。愛を空気に震わせて、この街へと、世界へと伝えていく。左手の指を細かく動かして、くるりくるりとメロディを切り替えていく。そして変わっていったメロディは、音波のカタチと装いを大きく変えながらあたし自身を拡散させて時速大体1200キロメートルぐらいで空へとすっ飛ばす。


 今、この場にはギャラリーは誰一人もいない。時折り視界の隅でこんな時でもいつも通り仕事をしていただろう、くたびれた顔のサラリーマンがあたしの姿など認識していないように通り過ぎる程度。昼間に見たスポーツマンのように、誰もあたしを見ていない。それでも、あたしはエースと共に声を出さずに愛を語り続ける。


 Em7のコードを鳴らしながら、ふと脳裏によぎったのは先日の夜に出会った少年の覚悟を決めた顔。あぁ、恐らくもう会うことのない少年よ。確かコータローとかいったっけ。キミはあたしの愛をほんの僅かでも受け入れてくれただろうか。好きな女の子に、ちゃんと答えを告げられるだろうか。この街にいるらしい、変わってしまった知り合いってのはいったい何処にいるんだろうか。その子は、あたしの愛を受け入れてくれてくれるだろうか。それともいつかのようなマスタベ野郎みたいな奴なのか。


 世界が終わるまで、まだそれなりに時間はある。残された時間の限り、あたしはあたしらしく、笑いながら愛を届け続けよう。寂しがりの流れ星すらも愛してみせよう。 


 街灯の眩しい光で見づらいけれど、今夜も確かに小さな星が煌めいている。街の誰にも気づかれずに太陽の光を反射しているあの星が、なんだかとても愛おしい。

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