Case10 一つに重なる影②
元々二つだった影が一つに混ざり合い、幾許かの時間が過ぎていった。俺とその腕の中で涙を流しながら震えている少女の体温が伝わりあって交わり、均一の温もりになっていく。
街灯の人工的な光と、その更に上に光る月だけが、俺達を照らしていた。まるで映画やドラマのような光景であるが、背中に食い込む少女の腕の儚さや小さく聞こえる嗚咽や後悔と懇願の声が、これが紛れもない真実であると実感させるのだ。
そう。紛れもなくこれは、覆すことなどできない真実なのだ。あと3日と少しで、あらゆるものを吹き飛ばす大きな石の塊が俺も山石さんも、世界ごと一瞬で灰塵にすらさせてくれずに消し去っていくだろう。それはもう、紛れもない事実だ。
山石さんの流す涙で、俺のTシャツの肩のところの一部はしっとりと濡れてしまっていた。泣き続ける彼女の後頭部に手を回し、後ろ髪を優しく撫でる。きめの細かく美しい絹のような、さらりとした手触りがした。
「俺もさ」
自分で山石さんを追い込んでおいて、どの口が叩けるのかわからない。やはり、たかだか17年の俺たちの短い人生。やりたい事もたくさんあるし、悔いがないどころか、悔いしか残ってないだろう。それでも、目に見えている『やり残したこと』を見なかった振りをしたまま死にたくない。ただ、それだけを思いながら口を開く。
「俺も、死にたくなんかない。なんでこの地球の巻き添えになんかならなきゃいけないんだって気持ちを、諦めっていう別の気持ちで塗り固めてたんだ」
無意識の奥で隠れていて、つい朝方に押さえ付けていた自分自身の心の叫び。それは多分、俺が恵まれていたから、愛されていたから出てきた叫びなのだ。想像の中でしかないが、本当に苦しくて辛くて、死が救いになっているような末期癌の患者のような人も確かにいるだろう。
それでも俺は次の日の、その次の日の朝日を見たかった。
見て、いたかった。
背中に回した腕に、少しだけ力を込める。胸の中で涙を流している愛しい少女に、ほんの僅かでも俺の心臓で脈打ちつづける鼓動を伝えたかった。俺が今この時を生きているという事を、俺がホンモノである証を山石さんに刻み付けるように。抱きしめた彼女の髪の毛から、花のような優しい香りがした。
「出来ることなら、ずっとこのままでいられたらって思うんだよ。隕石なんかバイクに乗ったヒーローとか、宇宙飛行士達が隕石を爆破したりして逸らしちゃってさ、世界が何もなかったみたいに日常を取り戻して。ずっと続いていく世界の中でも、山石さんといつもの感じで話していって、笑ったり泣いたりしていられたら、どれだけ幸せなことかって、何度も何度も考えた」
自分の気持ちを改めて口にすると急に目頭が熱くなる。なんだか無性に声を上げて泣き叫びたくなってきた。今、山石さんを抱きしめているこの瞬間がずっと続いていけばいいのに。あと3日程度で淡いけれど激しく狂おしいこの感情を抱いて死んでいくのが、とてつもなく悲しい。
「わかんないよ」
耳元で小さく声がする。涙は収まったようだが、両方の眼を赤く腫らしながら至近距離で山石さんは俺を見つめていた。お互いの吐息すら感じられるような距離感を改めて自覚し、つい今まで涙でコーティングされた瞳に映るアンタレスがゆらゆらと揺らめいている。
「ねぇ」
メゾソプラノの声が俺のすぐ近くから吐息と共に小さく細く聞こえてくる。
「さっき、ぎゅっとされた時にね。わかんないけど頭の中がぐるぐる回って、ドキドキしてね。怖い気持ちが少し何処かに行ったんだ。うまく言葉にできないけれど、安心するっていうのかな」
涙に濡れた蠍の心臓が、彼女の心臓とリンクするように瞬く。眼だけでなく頬も僅かに赤くした山石さんの薄桃色の唇が、半分の形でも十分な銀色の光を放つ月に照らされて怪しく輝き、俺の視界を彼女の可愛らしい顔に固定させていく。
まるで、蠍の尻尾を突き刺されたようだ。動けない眼球が薄暗い視界の中、無意識にピントを合わせて脳に情報を提供するのは、その柔らかそうな唇がどこか扇情的に口にした彼女の望みだった。
「もっと、強くぎゅってして、欲しいな」
それは、更なる抱擁だった。視界は動かせない。動かしたくない。目の前の少女から、1秒でも視界をずらしたくない。ずっと触っていたかった山石さんの髪の毛を撫で続けていた左手も彼女の背中に回し、更に力を入れて抱きしめる。
山石さんの身体はとても柔らかくて、細くて、今にも壊れてしまいそうで。硝子細工のように、力を入れすぎると砕け散ってバラバラになってしまいそうだった。細心の注意をもって、力を込めていく。
「……もっと」
更に力を込める。山石さんも対抗するように俺の背中に回していた両腕に力を入れていく。もう、密着している俺と山石さんの間には、お互いの衣服以外に何も隙間も無いし、何も通すことはないだろう。
それでも、すぐ近くで聞こえてきた声は、更なる強い抱擁の希望であった。
「……もっと」
更に力を込めようとして、躊躇う。このままでは本当に彼女が真っ二つにへし折れてしまうのではないだろうか。腕の中のか弱くて儚くて繊細で華奢な少女が苦しむ顔を見たくない。力を込めることができない俺に、山石さんは耳元で囁くように叫ぶ。
「もっと。もっと壊れるぐらいに、ぎゅってしてよ。むしろ、私を傷つけて。私の身体に、消えない痕を付けて。もう、いっその事、私を壊して欲しい、な」
真っ直ぐに俺を見ながら、山石さんは懇願する。俺の背中には、爪を立てながら全力で抱きしめている彼女の両腕があった。まるで、消えることのない傷跡をお互いに刻みつけて、自分自身が生きた証を肉体に記すかのように、痛みを共有させてくれと叫んでいるようであった。
「もう怖くないように、怖くならないように、私のことを滅茶苦茶にして、何もかも、忘れさせてよ、このままだと私、ホントにどうにかなっちゃいそうで」
あまりにも痛々しい彼女の願いを叶えて、どうなるというのか。彼女を傷つけて、気持ちがいいわけがない。牽制するつもりで言葉を掛ける。
「投げやりにならないでくれよ。俺はそういうつもりでこんな事をしてるわけじゃないんだ。頼むよ、これ以上言われると、抑えきれなくなる、かもしれないだろ」
「―――風間くんにだったら、いいよ」
彼女の言葉に心臓が大きく飛び跳ねる。その言葉は、青少年にはあまりにも強すぎた。密着すればするほど、ほんの少しづつ俺と山石さんの顔の距離は近くなっていって、もう吐息どころか彼女から発せられる全てが何もかも聞こえるし、何もかも感じていた。
俺の体温と山石さんの体温、俺の吐息と山石さんの吐息、俺の心臓の鼓動と山石さんの心臓の鼓動。二人のそれは溶けるように混ざり合い、一つの楽器のようにアンサンブルを奏でていた。
「こういうのって、吊り橋現象っていうのかな。それとも、刷り込み? もうすぐ壊れちゃうホンモノの世界を理解したあとに、初めて見て感じたのが風間くんなんだよ。嬉しいってのと怖いってのと幸せってのとかがごちゃごちゃになってさ。わけわかんなくなっちゃってて。だから何もかも忘れたいんだ。世界が機械仕掛けの神様に壊される前に―――」
一瞬の静寂の後に熱い吐息と共に放たれた山石さんの言葉は、俺の抑えていたものを木っ端微塵に吹き飛ばし、腹側被蓋野を熱で溶かすには十分すぎる威力だった。
「好きになっちゃったかもしれない男の人にさ、思いっきり抱きしめられたくなっちゃ、駄目なのかな?」
脳の奥の奥、ちょうど真ん中あたりで何かがぷつん、と切れる音がした。ここから先は、もう無我夢中だったのでよく覚えていない。俺と山石琴里はの二人は飢えた獣のように貪るように絡み合い、お互いに剥き出しになった肌に噛みつき、爪を立てて相手の身体に消えない傷を付けあい、力の限り細い身体を抱き締めまま、彼女を貫いていた。後のことなど、まるで考えていなかった。はっきり言って、互いにそういった経験など無かった。ただただ、本能のままに我武者羅に身体を重ねていく。
見ていたのはホンモノの月と星々と夏の風だけだった。山石琴里は苦しげに呻きながら時折熱のこもった声を上げながら、ずっと涙を流していた。頬を流れるその涙の意味は、今し方俺によって付けられた消えることのない傷の痛みなのか。それとも、新たな不安を感じているのか。それを窺い知る余裕はなかった。
山石さんの肉の内側に俺の体温を吐き出した後、しばらく経って頭が冷えてきた後にやってきたのは、とてつもない幸福感と若干の罪悪感。事が終わってベンチに座った俺のすぐ隣にいる山石さんは額にべったりと汗をかき、細い髪の毛を張り付かせながらどこか遠くを見ている。先程まで流れていた涙は再び止まり、その瞳は空に昇る半月を映していた。
俺の視線に気づいた山石さんが優しく微笑む。情愛に満ちているようで、どこか寂しげで空虚な笑みだった。空いた右手で乱れた着衣を直しながら、言葉と吐息を風に乗せていく。
「ねぇ」
メゾソプラノの声が、すぐ隣の俺に向かって伸びていく。
「ごめんね、あと、ありがとう」
先程まで夜の空に紅く輝いていたアンタレスはいつしか雲に隠れて見えなくなっていた。もうすぐ雨が降る。田舎独特の風の香りが、静かにそう告げていた。
「なぁ」
すぐ隣に座る山石さんに向かって声を伸ばす。そろそろ月も雲に隠れて、俺達を照らすのは街灯の薄い光だけになるだろう。山石さんから視線を外さずに、ひたすらに見つめていく。だんだん輪郭が闇と一体化していく彼女が、このまま消えてしまわないように。
「少しは、怖くなくなったかい?」
「……わかんないや」
日付が変わる。世界が終わるまで、あと3日。正確には、2日と約22時間。明後日の22時ごろに、地球は滅びる。
山石さんの左手が、俺の右手の上に乗る。どちらが言い出したわけでもなく、二つの手はゆっくりと繋がれた。
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