Case3 三日月の下で
結局のところ、俺はなんだかんだでお人好しなのだと思う。
大して親しくもない、会話すらロクにしていなかったクラスメイトだ。だからといって別に意中だったとか、そういう青臭いことでもない。接点も何もなく、強いて言うならば、ただの知り合い以下という訳で。しかもあと幾日かで地球に落ちて、人類が長い年月を掛けて積み重ねてきたもの全てをひっくり返す隕石のことを楽しみにしているようなちょっとアレな女の子だ。
とんでもない事態になってしまって現実と虚構の区別がつかなくなってしまったのか。それとも知らなかっただけで元々がこんな感じなのか。とにかくこんなちょっとヤバい感じのする彼女のことなんて、無視すればよかったのだ。どうせあと何日かで何もかも終わる。俺は俺らしく馬鹿みたいに騒いで、笑っていればいいんだ。そうして笑いながら死んでいく。それでいいじゃないか。何度も何度も頭の中で自分自身に向かって言い続ける。
もしあの世が実際にあるならば、世界中のみんなが一緒くたに吹き飛んでしまってあの世の門の受付は一時は大忙しになってしまうだろうけど。いつか時間が経って一段落したら、友達や家族のみんなとまた会えるだろう。アスカにだって、きっと会える。
そう思うと、俺の胃袋の奥の方がざわつくような不快な気持ちが少しだけ落ち着いていく。だから、さして知りもしない同級生のことなど、放っておこう。何もかも吹き飛んだ後にあの世で会った時に口を尖らせながら文句は言われると思うが、きっと些細なことだろう。
そう、毎夜家を出るまで思っていたのだが――
「こんばんわ。また、来てくれたんだね」
銀色の月が照らす夜のなか、山石琴里は静かに微笑む。
相変わらず彼女の頭上には、蠍の心臓アンタレスが赤く鈍い光を放ちながら蠕動している。
午前中に分厚い雲が空を覆っていても、激しい雨が地面に向かって降り注いでいても――いつも彼女と会う夜にはいつだって空が晴れていて、月の光が強く俺たちを照らしていく。月光に照らされながらベンチに腰掛けている山石琴里を見て、俺は心の中で大きくため息をつく。
結局、またここに来てしまった。後悔、というと少し違うがそれに近い複雑な感情が俺に向かって襲いかかっていて、俺の後頭部がざわつくような感覚を覚える。
「まぁね、だって――また来てくれって言ってたじゃないか」
その後悔を表情に出すことをせず、できるだけ平坦に答えた。そうでもしないと、街灯に照らされているとはいえ憮然とした顔を山石さんに見せつけることになってしまう。後悔の念が頭の中に存在しているとしてもここに来てしまった以上、そのような事はやってはいけない気がしたのだ。
あの夜に彼女と出会ったのが7月30日。今夜は、8月4日。5日だ。5日間もの間、毎夜毎夜――俺は彼女と会っていた。会っていたからといって別に何かをしたかとか、何かを話したとかは特に無かった。
本当に取り留めもないような、別段語るような事でもないような下らない会話をしたり、時にはお互いがなにも話すことがなく、無言のまま夜空を見上げているような時間も多々あった。そうして1時間ほど経ったら、どちらかが切り上げてお互いが家路に付く。そんな5日間だった。
そして、帰り際に必ず山石さんは透き通るようなメゾソプラノの声で俺に向かって問い掛ける。
「明日のこれぐらいの時間に、ここに、また来れる?」
その言葉に、俺はいつも明確に答えることはせずに右手だけ上げて家路に着いていた。正確には答える気がしなかった、という方が正しいだろうか。
行くという返答も、行かないという返答も――どちらにせよそれを明確に答えるのはなにか違うような気がしていたのだ。月の銀色の光と蠍の心臓の赤い光に照らされている山石さんの姿が、たまに幻想のものであるような気がして。それが答えることによってふ、と消えてしまうような。そんな感覚が時折俺の頭の中でよぎるのだ。
俺は山石さんを直視することなく、近くの鉄棒に背中を預けている。彼女とおよそ3メートル離れているこの距離が、この5日間での俺達の定位置であった。
ベンチに座る山石さんは、時折小さく左右に揺れながら俺に向かって話をする。その内容は本当に取り留めもないようなもので。お互いの家族や友人の話や、学校生活での思い出を語り合ったりしていた。
行動しているグループが全く違っていた俺達は、同じイベント――例えば課外学習や、終業式の前に繰り上げで行われた修学旅行などでは同じものを見ていないのではないだろうかと思うほどに新鮮で、思いのほか盛り上がっていた。
そして、一段落したあとに少しだけ間を置いて。山石さんがゆっくりと口を開く。銀色の光に照らされた彼女の唇が、微かに鈍く光っていた。
「ねぇ」
この声だ。どこか艶やかなところを感じさせるこの声をするとき、山石さんは――何かを楽しみにするような顔をする。その顔を何度も見ていると、なにか彼女は胸の奥底で何かとてつもないことを渇望しているのではないかと思うようになってきた。それが何かは、俺にはよくわからないのであるが。
「風間くんはさ、私のことをどう見ているのかな?」
あまりに突拍子もない質問に思わず硬直してしまう。なんだよ、それは! 漫画でよくある愛の告白でもしろというのかと困惑しながら身構えてしまい、どう答えたものかと思案をしようとした瞬間に、自分の問い掛けの荒唐無稽さを認識した瞬間に山石さんは顔どころか耳まで真っ赤にする。
「いやいやいやいやいや、変な意味じゃなくて! 違うの! 」
顔を赤く染めながら両手を振り回す山石さんは、学校生活でもこれまでの4日間でも、これまで見ていなかった姿で、なんだか可愛らしく見える。
これだけ見ると、どちらかいうと小柄である体型と相まって目の前の同級生が年下ではないかと思えてしまう。まぁ先日の会話曰く、実際には彼女のほうが数ヶ月先に産まれているらしいのではあるが。
「君の目には、私がどう見えているのかなって。貴方が見ている私は、私が思っている私なのかなって。ごめん、何言ってるかわかんないよね。――でもね。私が見ている風間くんは、本物の風間くんなのかなって、たまに思うんだ。そもそも何をもって本物か、何をもって偽物か。私にはわからないんだ」
彼女の述懐に、俺は何も答えることが出来なかった。俺自身がいくら自分は本物だと語ったとしても、恐らく目の前の彼女は納得することはないだろう。答えの出ない理不尽なクイズに、内心頭を抱える。
「俺には目の前の山石さんは山石さんにしか見えないんだけどな」
絞り出すように出した答えは、山石さんには届かない。月の光を浴びる彼女の表情は、微塵も変わらなかった。
「そうじゃない、そうじゃないんだよ。昔の漫画とかであったでしょ。例えば友達と全く同じの姿をしたコピーロボットがいて、両方が『私が本物だ』って叫びながら自分の目の前にいる。その見分け方というか、そういうものっていうか。ごめん、うまく説明できないや」
山石さんの複雑な気持ちを代弁するかのように、アンタレスの煌めきが細かく揺らめいている。夏の蠍の心臓が放つ赤い光が、なんだか弱くなった気がした。
暫しの間に考えても今の俺には、答えは出そうにない。
「……宿題にさせてもらっていいか? 」
苦し紛れに出した言葉は、『先に伸ばすこと』だった。俺は特に意味もなく、視線を月に向けた。相も変わらず、この地球の衛星は太陽の光を反射して銀色の光を放っていた。このままこの地球は、この世界は滅びることがなくずっとずっと繁栄を続けていくのではないのだろうかと一瞬錯覚してしまう。そんなことなど、有りはしないのだが。今、この瞬間にも世界は終わりに向けて着実に進んでいく。宇宙空間を突き進む全てを滅ぼす星が地球に向かって突き進むことを、誰も止めることができない。
それでも、俺達は、まだ生きている。生きて、今を過ごしている。まだある明日に向かって、手を伸ばすことが出来る。
「じゃあ、明後日のこれぐらいの時間に。ここに、また来れる?」
「行くさァ、御先祖様の名にかけて」
彼女のいつもの言葉につい、男友達に言うような砕けた口調で話してしまった。夏の虫達も困惑したのか一瞬だけ、声が止まる。無音が刹那の間であるが、俺達の周りを支配した。
「……なにそれ?」
当の山石さんは、鳩が豆鉄砲を食らったような目をしていた。髪の付け根あたりが熱くなる。しまったと思いながら、必死に弁明をした。
「言わなかったっけか、俺の御先祖様はこの辺をまとめてた大名に代々仕えてた忍者らしいぜ。俺で何代目かは、教えてくれなかったけどな」
夏独特の湿り気を帯びた生温い風が、ぬるりと2人の間を通り過ぎる。友人に向かってよく言っていた、なんというか――必ず果たすと決めた約束の言葉。地元一族の末裔という自分自身の最後のアイデンティティが俺の胸の奥でぐずり、と動き出す。
もうすぐアスカのところに行けると何もかも諦めている俺自身が、おそらく最後にするであろう約束。それがよく知らない女の子と交わす、というのもいいかもしれない。人生最後の宿題が、哲学的なものか。これもこれで、悪くはない。
「……聞いてない。聞いてないよ!」
だけど、俺のアイデンティティを聞いた山石さんは呆気に取られた顔を変えなかった。交流らしい交流が無かったから仕方ないか。と少しだけ残念と思う。
「でも、さっきの風間くん、活き活きしてたね」
明らかに困惑を隠した表情で静かに笑う山石さんを見て、持ちネタを盛大に滑らせた芸人のような気持ちというのはこういうことなのかとなんとなく思う。
なんだかとてつもなく恥ずかしくなってきたので、今の言葉は聞かなかったことにした。
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