閑話 嫉妬の海に溺れた青い龍

 その少女は朗々と歌っていた。

 満月が照らす浜辺に立ち、その月を見上げて祈るように歌う姿は、月に身を捧げる巫女のようにも思えた。


 髪の毛は昼間に見る深い海のように濃い藍色で、翡翠のような瞳は月明かりに照らされて、淡く輝いていた。


「だれ!?」


 突如少女は声を上げる。

 その声は湿った温かさを含んだ夜風に流され消えゆき、帰ってきたのは寄せては返す波の音だけだった。


「気のせいかな? 何か向こうで音がしたような気がしたんだけど……」


 満月の下とはいえ、暗く沈んだ海面に目を凝らしてもめぼしい物は見当たらない。

 そもそもこんな時間に海の中に居ることなどありえないだろうと、少女は再び先ほどから続けている歌を歌い出した。


 それは少女が母親から教わった古い歌だった。

 その母親も少女の祖母に教わったと言っていた。


 月を、特に満月を見ると何故だか分からないが、無性にこの歌を歌いたくなる。

 以前母親にそのことを伝えると、面白いことに母親もそうだったのだと言う。


 そうだった、というのは、少女の母親も若い頃は満月の日に本能がそうさせるように歌っていたが、少女を産み、この歌を教え終わると途端に憑き物が落ちたように衝動がなくなったらしい。

 母親は少女や自分に流れる血がそうさせているのだと笑った。


 そんな少女を眺め、人知れず歌を聴く姿が海中にあった。

 それは一体の巨大な龍だった。


 その身体は少女が訪れていた造船で有名な街にある全ての船を連ねてもなお、長さで勝った。

 全身に纏う鱗は少女の髪と同じように深い藍色で、その一枚一枚が少女をすっぽりと覆い隠すほどの大きさだった。


『妬ましい……』


 龍はこの世の全てを妬んでいた。

 長い年月、月の満ち欠けなどとうにその数を忘れてしまうほどのはるか昔から、龍は暗い海の中で生きてきた。


 この世界に生を受けたのがいつだったか忘れてしまったが、初め龍はその生を楽しんだ。

 天敵などと呼べるものは見当たらず、全てが自分の思い通りだと思っていた。


 ある日のこと、龍は陸地というものの存在を知った。

 自分の知らないことなどあってはならないと、龍はそこを目指し泳いだ。


 数刻もしないうちに龍は壁にぶつかった。

 たどり着いた陸地に乗り上げてみたが身体の自由がきかず、まるで海底で見かける虫けらのように醜く這いずることしか出来なかった。


 そんな龍の姿を見て驚き慌てふためきながら、様々な動物が逃げ出していった。

 龍が這いずるよりも速い動きで。その日初めて龍は嫉妬を覚えた。


 仕方なく海に戻った龍はその後、空を知った。

 自由に空を飛ぶ鳥達を眺めながら、海面から勢いよく上空に向かって身体を伸ばした。


 海面よりも遥か高みから見下ろす風景に龍はほくそ笑んだ。

 しかし首を上に向けると空は果てしなく高く、恐れをなして飛び立った海鳥達は龍の届かぬ所で様子を窺っていた。


 空を飛ぶ術など持たず、陸を駆ける脚も無かった。

 龍はこの世の全ては自分より劣ると思っていたが、実際は自分よりも遥か矮小な存在が自分の出来ないことを簡単にやってのけることに気付いてしまった。


 その日から龍は多くのものを妬むようになった。

 食料としか認識していなかった海の生き物達の多くも、龍の持っていないものを持っていることに気付いてしまった。


 龍は孤独だった。自分と同格のものの存在を知らなかった。

 しかし、多くのものはつがいが居るということを知った。


 やがて龍はほの暗い海の底から、夜になると海面へ顔を出しては月を眺めるようになった。

 空に輝く月はまるで自分のようだと龍は思った。


 日によって見せる姿が安定ではないのが、完全だと思い込んでいた自分がそうではなかったと思い知らされたのと似ていると感じた。

 月は龍にとって最後の心の支えとなっていた。


『妬ましい……』


 しかし、とうとうその日がやってきてしまった。

 一人の少女が月に向かって歌を捧げる姿を見てしまったのだ。


 自分と同じく、孤独だと思い込んでいた月にもその姿を慕う者がいた。

 月は孤独ではないと知った龍は心の支えであった月さえも妬んでしまった。


 するとそれまで青藍色だった龍の鱗が、新月の夜の深い海の底よりも暗い漆黒へと転じた。

 同時にさらに不思議なことが起こった。


 龍の目の前の水が不自然に動き始めると、人間の姿に変わった。

 その女性の様な姿をした水は、龍が月を妬むようになるきっかけとなった少女そのままだった。


 龍は満足そうにその口元を歪めると、その口から次々と水を吐き出す。

 吐き出された水はその全てが少女へと変貌していった。


 少女達は口々に歌を紡いだ。

 龍は初めに作られた少女を一人陸地に残すと、残りの少女達を引き連れ、海の底へと潜って行った。


 孤独な龍の嫉妬に染められた少女の形をした水は、行く宛もなくさ迷い歩いた。

 自分が存在する理由となった途方もない量の嫉妬の残差を周囲に撒き散らしながら。


 海へと戻った少女達は、自分達を作り上げた主である龍を讃えるために、絶えることなく歌を歌った。

 嫉妬に狂った龍は海の底で安寧を得た。

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