第26話「砂上の楼閣」

 工藤は論文を読み終わると、一度ゆっくりと息を吐いた。

「すべて読ませてもらったよ。」

 論文というにはまだ拙い文章だ。高校生なのだから仕方がない、だが言いたいことはよくわかった。

 簡潔に言えば免疫の移植だ。免疫不全動物、特に研究によく使われる超免疫不全マウスの実験において、人の造血細胞を移植した場合拒絶反応を起こさず定着し、免疫細胞が生産されたという結果がある。相手が人間であればその成功率は高いだろう。つまり旭に人の造血細胞を移植することで、免疫を獲得できるはずだということだ。高校生でよくここまでたどり着いたものだ。この数週間信頼できるデータをずっと探し続けてきたのだろう。彼の憔悴の仕方からよくわかる。その頑張りを想像すると胸が痛い。

「少しここで待っていなさい。」

 院長室の前の椅子に千明を座らせる。この論文は院長に見せ見解をうかがうことになっているのだ。普通こんなことにはならないだろう。だが…


「入りなさい。」

 思ったよりも呼ばれるのは早かった。厳かな部屋には二人、工藤と眼鏡に少々小太りである男がいた。彼が院長だろう。

「失礼します。」

 頭を下げる。失敗するか成功するかはここにかかっているのだ。

「座りなさい。」

 その部屋には似合わないパイプ椅子が一つ、院長と向かい合うように置かれていた。

「…。」

 会釈をして椅子に腰かける。そしてゆっくりと院長を見据えた。少し間があった後院長は口を開いた。

「足の具合はどうだね。」

「良好です。杖があれば歩けるぐらいには回復しました。」

 まあこれ以上の回復はしないといわれたが、そんなことは今はどうでもいい。

「そう固くならないでほしい。長話にはしないつもりだ。」

 緊張しないわけがない。もともと初対面の人と話すのは苦手だし、今回は話の重みが違う。長話にはしないだと?こちらは返答によっては何時間でも粘るつもりだ。

「…。」

 院長は論文をまとめた紙を取り出し、

「君の書いたこれだが、実にくだらなかったよ。」

 目の前で破り捨てた。それは完全な対話の拒絶を意味し、侮辱と軽蔑の表れだった。激情にかられそうになるも平静を装って問う。

「…理由を聞いても?」

 ある程度予想していたことだ。もともと助ける気があれば殺処分という結論には至らない。ここからどう説得するかが肝なのだ。けれどここまでひどい態度で来るとは思わなかった。

「資料の信憑性が低い。そして仮定、結果、すべてが机上の空論だ。下らないというしかない。」

 そんなことはない、大学などの研究者が出した認められている論文をいくつも掛け合わして考えられている。信憑性が低いなどということはないはずだ。

「それ以外にはありますか?」

「単純明快だと思うがね。」

 見下す院長により怒りが増す。だが抑えろ、ここで怒鳴っても意味がない。

「まず、この資料は記載されている通り信用に値する機関からのものです。」

「もうそれもわからないがね。」

 破れた紙切れをひらひらと掲げ馬鹿にしてくる。なんなんだこの男は…もはや俺にはこの男が同じ人間には思えなかった。俺は立ち上がり院長の机に予備の資料と論文を提出する。作っていないわけないだろう。

「予備はいくつか作ってあります。ご覧ください。」

 視線が交差する。

「机上の空論といっていましたが、ボクの考察はあくまですでに実証されていることを応用しているにすぎません。」

「きみぃ。少し勘違いしているようだね。」

  気持ちの悪い呼び方にぞっとする。勘違いだと…?

「君のような高校生ごときが大人を説得できると本当に思っているのかい?どこぞのクソガキの出したような資料が本当に信用されるとでも?」

 幼稚な反論だ、だがこのままでは話が平行線になってしまう。何の権威もない分こちらの方が不利だ。

「こちらにメリットさえない、こんなものだれ一人やろうとなど思わないさ。」

「…あんたそれでも人間か?さんざん人を実験動物にしておいて、最後はごみのように捨てるのか…!」

「マウスとはそういうものだよ。」

「ふざけるなよ、旭はマウスじゃない。」

 殺した方がいいと思わせる下卑た笑みだ。どうすれば醜悪の権化とも思えるこの悪魔を消し去れるのだろう。だめだ、冷静になれ。言い聞かせても言い聞かせてもさらなる激情があふれてくる。そう、このままではらちが明かない。ならば最後の手段だ。

「なら、この病院で起きていることをすべて警察に話します。」

「信じられるとでも思うのかい?」

「ええ。証拠写真はもうとてありますから。少なくとも、ここに女性が符合法に監禁されているという事実は伝わる。そうなれば、あなたたちは終わりだ。」

 脅しだ。そう事を荒立てる気はなかったが、協力的にならないなら仕方はあるまい、警察が保護すれば旭は保護され助かる可能性がある。

「馬鹿が。」

 この男はどこまでも馬鹿にするようにことらを見下す。何を言っている?鬼の首はとった、あんたたちが協力すれば旭は助かり、協力しないならあんたらは刑務所行きだ。この二択は覆せない。

「君は、霞ヶ丘咲と仲が良かったねえ。」

 なんだいきなり…。

「彼女はね、慢性白血病なんだ。」

「は?」

 白血病…悪性貧血でないことはわかっていた。ひと昔ならいざ知らず、この現代でそう長引く病気ではないからだ。似た症状の出る病気といえば白血病があげられる、考えなかったわけではないだがなぜ今その話が出てくる?

「彼女の母親はね、彼女を入院させてすぐに音信不通になった。父親とはすでに離婚していてどこにいるかもわからない。」

「何を…言って…。」

「つまり彼女は病院の恩情で治療を受けているんだよ。保険もなにもない、ただ高額な治療費を出してあげているのは私たちだ。」

「つまり、つまりあんたたちは、咲を人質にとるっていうのか?」

 工藤をにらみつける。鶴田さんほどではなかったにしろ、咲とは仲が良かったはずだ。だがその顔がすべてを物語っていた。「この病院の秘密をばらせば、咲の命の保証はない」と。考えろ、考えろ!どうすればいい?方法が何かあるはずだ。

「孤児院に引き取ってもらって…。」

「引き取るわけがない。高額な治療費しか出さないあんな子供を引き取るなんて。」

 両親に払えるわけがない。ほかの病院?施設!?そんな場所あるのか!?

「現実は甘くない。そう都合のいい場所などないんだよ。」

考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ!!!!!

「出ていきなさい。」

「待っ…。」

 工藤に無理やり押し出される。力比べなら確実に勝てるはずなのに、抵抗することすらできない。切れるカードはもうなかった。

「そういうことだ。あきらめててくれ。君にできることはもうない。」

「…。」

工藤は千明の肩に手を置いた。

「君はよくやったよ。これからは、咲ちゃんのためにその力を使ってあげなさい。」

 その力ってなんだよ…。本当に、もう何もできることが思いつかなかった。千明はふらふらと、院長室を後にした。


 工藤は千明を見届けると、院長室に戻り、頭を下げた。

「ありがとうございました院長。」

「ああ。悪役はつらいな弦。」

「はい。そうですね。」

 悪役ではない。自分は本当に悪なのだ。いったいどこで道を誤ったのか、その答えを返すものはどこにもいない。

「娘のためにありがとう千明君。…すまない…旭…。」

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