第7話「幸せの分量」

「さて、今日は何の話をしようか?そうだなあ、「幸せ」とは何だろう?」

 またこの夢だ。黒猫が目の前に一匹、いつものように話しかけてくる。幸せか…楽しいとか、うれしいとか、ふさわしい表現じゃないだろうが快感とか、そういうものを感じていることじゃないか?

「別におかしな言い方じゃないよ。そこらへんまだまだ君は思春期だね。」

 知るか。

「この辞書だと恵まれた状態にあって、満足し楽しく感じることとある。あながち間違ってもないさ。」

 どこから出したその辞書!?なら話は終わりだろう。

「そうせっかちにならないでよ。この後が大事なんだから、そう話を切り上げようとしないでくれ。年寄泣かせだなあ全く。」

 年寄なのかよ…。前に私と君は同じだなんて言ってたくせに。

「それは自と他の曖昧さについて考えただけだよ。今日は幸せの曖昧さを考えようと思うんだ。」

 強引に話を戻したな…。曖昧って?

「恵まれていて、満足していて、楽しいこと。どれもそう感じる基準は人それぞれだ。例えばケーキが好きな人がケーキを山のように食べていいって言われたら喜ぶだろうけど、甘いものが嫌いな人からしたら地獄だろうね。」

 まあそうだろうな。でも、いくらケーキ好きであっても限度があるだろ?食べきれないようなケーキなら地獄じゃないか?

「そうそう!そうなんだよ!幸福の取りすぎは人にとって毒なんだ。空腹の子供がひとかけらのパンに喜ぶように人には幸せと不幸、両方がいるんだよ。」

 黒猫は元気に飛び跳ねる。けれど彼の目からは何も読み取れない。彼女とおなじように。

「さあ、要はバランスだよ。君にはどれくらいの幸せが、不幸がいるのだろうか?君の知っているあの子には、どれだけの幸せが似合うのだろうね。」


「っていう夢を見た。」

 一日一時間、まるで親がゲームの時間をくっきり決めるかのように毎日同じ時間、この地下室で旭と話している。今日の話題は「自分の見た夢」というものだった。何が面白いのか知らないが、旭は興味深そうにこの長い話を聞いている。

「すごく哲学的な夢ですねー。」

「そうだな。」

 食事用の机に頬杖を突きながら答える。あちらは座っていたり、立っていたり、寝そべっていたりと自由だ。これがここでのいつものスタイル。

「私は夢って見ませんしねー。感覚がよくわかりませんが、そんなに覚えているものなんですか?」

「おい…。夢を見たことがないならこの議題…じゃなくて話題はおかしいだろ。公平じゃない。」

 最初は「双方の見た夢の内容について語り合う」という趣旨の話だった。これでは自分が語っただけで彼女は受動的に聞いていただけだ。すると旭はにやりと口元を上げて笑う。

「女の子のことが知りたいなんてスケベですね千明君。そーんなに私のことが知りたいんですかー?」

 くねくねと体を動かしながらあざけるように言う。嫌味というより楽しんでいるようだ。その双眸はやはり無感情であるけれど。

「どうでもいい。」

 地下室にそれも病院の地下室に名前も持たず、一日たりとも日の目を見たことさえない美しき白髪の女性のことを、本当に知りたくないかといえば嘘になる。もともとこうしたおかしなことへの好奇心は旺盛のだ。だが自ら聞くことはは憚られた。なんせ彼女は…。

「えー!?そこは可愛い旭ちゃんに萌え萌えキューーーーーンだからもっと知りたいよー、じゃないんですか!?」

「変態か俺は!?って、萌え萌えキューンってどこで覚えたんだよ。」

「そのパソコンです。」

 朝日の後方にあるデスクトップの白いパソコンだ。なるほど、あれはネットにはつながっているらしい。

「というわけで要望に応えて旭ちゃんの過去について話していきたいと思います。」

「要望なんぞしてねえ。」

 旭は無視して続ける。

「私、超免疫不全人間なのですよ。」

 他言無用、とでも言いたげに口元に指を立ててポーズを決める。なるほど。

「エイズの重症患者ですねわかります。」

「違いますよ!?私そんなことしてないです!というかなぜいきなり敬語!?」

 おー、突っ込み三連発。前に咲から「突っ込み長…」とか言われたことがあったがこういうことか。少々うっとうしい。旭は一度咳払いをして気を取り直すと説明を始めた。

「病気とかではなく、私は生まれつき免疫自体を作れないというか…。」

「…。」

 ちなみに人間ではないが、超免疫不全マウスというものなら知っている。以前薬の開発をしている会社に社会科見学に行ったことがあったのだが、そこでその単語が出てきたものでわざわざネットで調べたのだ。遺伝子の異常によりリンパ球などの免疫細胞が一切作れなくなったマウスで、薬の試験体などに用いられる。昔は一部の免疫が働かない程度の「免疫不全マウス」だったが、何をしたかは知らないが今ではほとんど免疫のない「超免疫不全マウス」の量産に成功しているらしい。といっても取引の価格は結構高いようだが。

「それでここから出られないと。」

「そういうことです。」

 免疫不全ということだけあって、免疫不全マウスは無菌室の中でしか生きられない。出れば普通の動物なら何の問題もない常在菌にさえ体を蝕まれて命を落とす。

「まあ簡単に言いますと、もともと私はある研究所の実験体でしてその実験の結果こうなったというわけです。その後見限られたのか、必要がなくなったようでここに捨てられたと。」

 今ものすごいことをサラッと言ってたんですけど…。今の話をうのみにするとすれば、どこかは知らないが人体実験をしている研究所で実験体にされて、免疫を失った。生まれつきということは生まれる前、つまり受精卵あたりから何かしらの手を加えられて免疫を失うように遺伝子を書き換えられたとかなのだろうか?マウスと人間の生命の周期つまり寿命はあまりにも違う。遺伝子異常のマウスを交配させその数を増やすことは数十日でできるだろうが人間は十何年だ。けれど何かしら手を加えるだけで免疫の一切ない人間を作り出せるのだとしたら医学的にはすごい発見だろう。やった人天才過ぎる。そしておそらく聞いてはいけないことを聞いてしまった。

「前に自分は三万七千なんちゃらとか言ってたし、それが実験体の数だとしたら組織的に滅茶苦茶でかい。病院に実験体を預けるくらいならほかに組織ともコネがあるのか…。」

 そう考えると地方の一病院など頭が上がらないのだろう。その第一人者が工藤先生なのだとしたらあの人は結構な苦労人なのかもしれない。それと…。

「あのー、一人でぶつぶつ考え込まれると私の立場がないのですがー。」

 おっといけない。ボッチ特有の一人でぶつぶつ考え込んでしまうという特性が出てしまった。

「つまり、お前は割と重い設定キャラと。」

「すごく要約された!…そうですよー。言うことなくなっちゃいました。」

 彼女はごろっと床に寝そべる。

「あんたはさ、」

「はい?」

「この生活が不幸だと思うか?」

 あの猫の話をなんとなく思い出した。こんな地下室で一生生きるなど自分ならごめんだが、旭はどう思うのだろう。

「すごく快適ですよここ?研究所の何倍も良いです。」

 それは半分予想していて、半分信じられない答えだった。

「一人のときは退屈ですが、今は千明君も来てくれますし、楽しいですから。どっちかというと幸せです。」

 そう笑顔で言い放つ。

「そうか。」

 それが建前なのか、本心なのか、黒猫との話からすれば予想通り。だが、何とも言えない違和感が、心にもやをかけていたけれど、それを言葉にすることはできなかった。

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