宿題

 先輩が淹れてくれたアイスコーヒーを口にしながら、暗号文とにらめっこしている。

 渦巻き、同じに見えても違う、カドー。

 これらがキーワードになっていそうなんだけれど、最後のひらめきが降りてこない。そんなときに事務所の扉が三回ノックされた。


「おはようございます、鈴木さま。どうかなさったんですか」


 難しい顔をしたまま美咲さんを出迎えてしまった。

 紺のワンピース姿の彼女が先輩と向き合うようにソファへ座る。


「そうでしたか。それで暗号は解けそうなのですか」

「もう一息のところまでは来ている気がするんですけれど」

「耕助さまは、もうお分かりに?」

「もちろんです。やはり鈴木くんが解くべき謎でした」


 そう言われたら、ここでギブアップなんかできない。ぜったいに解いてみせる。


「頑張ってくださいね。佳衣奈かいなさんも待っていらっしゃると思いますよ」

「そうですね。今週末には東京へ帰ると言っていたし、それまでには」

「いえ、そういうことではなくって……」


 美咲さんが言い淀んだ。


「彼女は鈴木さまのことがお好きなんだと思います」

「えぇ、そうなんですか⁉」


 驚いて声をあげたのは先輩だった。謎を解く観察眼はあっても、自分自身の恋愛にさえうとい先輩だから仕方ない。

 僕は……何となくそんな気もしていたし。


「わざわざ私のところへ相談に来たのも鈴木くんがいたからなのか。まったく気づかなかったよ。私の名声を聞いてたずねて来たのだとばっかり」

「もちろん耕助さまの評判をお知りになっていらっしゃったのでしょう。ただ佳衣奈さんは鈴木さまとの時間を取り戻すきっかけを探しているように感じました」

「なるほど。美咲さんは目のつけ所が違いますね」


 先輩に褒められて気恥ずかしそうに笑った彼女がアイスコーヒーを口にする。


「わたくしだけの思い過ごしではないようですよ」

「それはどうしてですか」


 僕の知らないところで何かあったのだろうか。気になって聞いてみた。


「いまこちらへお伺いするときに、そこのかどの煙草屋さんのご婦人もおっしゃっていましたから」


 またあのおばちゃんかぁ。美咲さんも捕まえて話しこんでたんだな。

 まったく……ん、待てよ。角の煙草屋……カドの……。

 急にひらめいて暗号文を見直す。


「そうか、カドだったのか」

「お、いい所に気がついたみたいだね、鈴木くん」

「解けたのですか、鈴木さま」


 広げた紙の上の文字を目で追っていく。

 そうか……。

 まさか嘉堂くんがこんな思いを抱いていたとは思わなかった。きっと彼も佳衣奈ちゃんのことが好きだったんだな。

 少し気恥ずかしい思いでメッセージを美咲さんに伝えると、彼女の表情が輝いた。


「耕助さまのおっしゃっていた通り、やはり鈴木さまが解くべき謎だったんですね。それにしても素敵。このお友達もお二人のことを想っていらっしゃったのでしょうし、それが二十年も経って分かるなんて」


 美咲さんは僕以上に興奮して、目をきらきらさせている。


「鈴木さま、今しかありませんよ! しっかりとこのメッセージと思いを伝えてきてください」

「え、あ、はい」


 行儀良く座っていながら、背筋を伸ばした上半身を僕へと向けた彼女からは強い圧を感じる。

 ひょっとして、僕に恋人が出来たら先輩と二人きりになれる時間が増えるから、なんて下心はないでしょうね、美咲さん。

 結局、二人から背中を押された僕はその場で佳衣奈ちゃんと連絡を取り、あの秘密基地がある公園で十八時に会う約束をした。



 この坂道を上るのは何年ぶりだろう。

 僕たちの秘密基地――モッコクの木が見えてきたところで立ち止まってふり返った。

 沈んでゆく夕陽がだいだい色から群青ぐんじょう色へのグラデーションを作っている。

 再び上り始めると、小さな公園には佳衣奈ちゃんの姿があった。


「待たせてごめんね」

「懐かしくって少し早く来ちゃった」


 そう言って八重歯を見せた彼女は、デニムのパンツにノースリーブの水色シャツ。今日もバッグを斜め掛けしているので、つい強調された胸のふくらみに目がいってしまう。


「また胸を見てるでしょう?」


 ヤバイ、バレてた。


「ごめん。一緒にここで遊んでいたときと違って、素敵な女性になったなぁと思ってさ」

「あの頃は男の子みたいだったからね」


 佳衣奈ちゃんはひょいとモッコクに足をかけて登ると、一番低い枝に腰掛けた。


「最後に二人でここへ来たときのこと、覚えてる?」

「もちろん」



 忘れるわけがない。

 嘉堂くんが転校して、それまでの三人から二人になった夏。百済菜くだらな市制五十年を記念した打ち上げ花火をここから見た。

 僕は下から二段目の枝に座り、佳衣奈ちゃんはさらに上の枝に腰を下ろしていた。

 ひときわ大きな花火が上がった後だった。

 彼女が「隣に行くね」と僕のいた枝に降りてこようとしたんだ。


「危ないからやめなよ、佳衣奈ちゃん」

「平気、平気」


 木登りが得意な彼女はひょいと飛び移った――はずだったけれど、足を滑らせて落ちてしまった。

 あわてて降りると彼女の左のおでこから血が流れていた。

 その後のことはよく覚えていなくて、大丈夫という彼女をとにかく家まで送っていき、お母さんに何度も謝った。母親からは「女の子の顔に怪我させて」とこっぴどく叱られた。

 佳衣奈ちゃんは「平気だよ。気にしないで」と八重歯を見せてくれていたけれど。



「あれから、ここで遊ぶのはダメって言われちゃったからね」

「仕方ないよ。僕がケガさせちゃったし」

「鈴木くんは悪くないよ。あのときはわたしが鈴木くんの隣に……」


 黙ってしまった彼女を見上げると、足をぶらぶらさせながら日の沈んだ空を眺めている。


「あのさ」

「なに?」

「……おでこの傷、まだ残ってる?」

「なーんだ。ずっと気にしてくれてたの」


 えいっ、と声を出して枝から飛び降りると、佳衣奈ちゃんは近くまで来て前髪を持ち上げた。

 もう暮れかかった空の下では暗くてよく見えない。


「ね、もう傷跡なんて分からないでしょ」


 ここで見せてくれたのは彼女の優しさかもしれない。


「うん、そうだね。安心したよ」


 僕も笑顔で応えた。


「それより嘉堂くんからのメッセージ、解けたんでしょ」

「うん」


 急に緊張してきたけれど、バッグからあの紙を取り出した。


 フ コ ウ ミ タ

 シ ス サ ア イ

 ギ ニ ネ ク ノ

 ナ セ ロ ワ モ

 デ マ エ カ リ


「ヒントになっていた『夏と言えばこれ』はやっぱり蚊取り線香で合ってたよ。単純に蚊取り線香のように渦巻きで読むことだったんだ。初めは縦から読み始めてみたけれど――」

「縦からって、不思議な出前 借り物……何これ。意味わかんない」

「縦じゃなくて横に読み始めるのが正解なんだよ」

「横だと、不幸見たいの盛替えまで……って、もっと意味不明じゃない」

「そこでもう一つのヒントが大きな意味を持つのさ」

「もう一つ、って何かあったっけ」

「カドー」

「え、どういうこと?」


 嘉堂と書かずにカドーとしたのには彼なりの意味があったんだ。

 渦巻き状に字を追いながら、それぞれのかどに当たる文字を追っていくと……。


「フ、タ、リ、デ、シ、ア、ワ……セニネ⁉」


 佳衣奈ちゃんが驚くのも無理はない。僕だって驚いたし。

 そう、嘉堂くんからのメッセージは「二人で幸せにね」だった。


「ふ、ふふ」


 しばらくの間、黙ってしまった佳衣奈ちゃんが声をあげて笑い始めた。


「そっかー、嘉堂くんにはバレてたのかー」


 すがすがしい笑みを浮かべて彼女が続けた。


「ずっと引っ掛かってたんだ。宿題が一つだけ残っているのを分かっていたくせに、夏休みが終わっても気づかないふりしていた感じ。分かる?」

「うーん、なんとなく」


 とりあえず話を合わせる。


「鈴木くんはわたしが好きだった頃と全然変わってなかった。相変わらず優しくって」


 え、今なんて。


「ありがとう、鈴木くん。これですっきりとした気持ちで東京に帰れるわ」


 そうだ。彼女が東京へ行ってしまう前に僕の気持ちも伝えなきゃ。


「あのさ……」「わたし、十月に結婚するの」


 勇気を振り絞った僕のか細い声は、佳衣奈ちゃんの元気な声にかき消された。

 たしかに彼女は「結婚する」って言ったよな。

 思ってもみなかった言葉に頭がついていかず、固まってしまう。


「こんど会うときは日比谷じゃなく本間に変わってるわ」

「……そうなんだ。おめでとう。まさに『二人で幸せにね』だね」

「ありがとう……鈴木くん」


 彼女の目が少し潤んでいたように見えたのは気のせいかもしれない。

 この暗号を五年生の夏に知っていたら、そして僕が花火大会までに解いていたら、僕たちの関係は変わっていたのかな。

 ま、いいか。

 素敵な女性になった佳衣奈ちゃんの笑顔も見れたし、嘉堂くんの思いも伝えられたし。

 いや、待てよ。

 本間姓になるってことは、本間佳衣奈ホンマかいな……。やっぱり考え直してもいいんじゃないの⁉ 佳衣奈ちゃん!




―第十二謎:あの夏に忘れてきたもの 終わり―

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